

頭弁殿に助力してやろう、あわよくばご自分の悪友も復活させようと考えて、弾正宮と利害の一致を見出した右中将殿は、兵部卿宮を味方に引き入れたいならまず尚侍を説得した方が早いという結論に至った。そうなれば行動あるのみで、半ば要塞化している温明殿に向かったのだった。
こちらはどこぞの滝口殿とは違い、社交慣れした愉快な方である。加えて実務慣れしている元梨壷の女房がお相手では、すぐに尚侍に用件は通ったのであった。尚侍は賢所に篭城中で、用があればそちらに来られたしとの伝言がさほど時間を置かずに戻ってきて、中将殿はそちらへ足を運んだのであった。
公文書に半ば埋もれて朱筆を振るっている尚侍は、几帳の向こうから聞こえる現実主義極まりないご提案に手を止めて向き直った。
「中将殿の言いたいことはわかるし、みんなを助けて上げられるのもわかるけど、それって関白殿と宮を見殺しにしろってのと一緒だよ。」
「どの道、元関白さんに復帰の望みはないじゃろ。なら、全部の罪をあの人がかぶってくれる方が、断罪されがいがあるっちゃひどいが、事実には変わらん。情では現実がどーなるもんでもないぜ。」
ぐ、と尚侍が唇を噛むが、几帳に隔てられて中将殿に見えなかったのは幸いであった。これが几帳の正しい使い方というものである。
「救えないものはどうにもならん。救える者を救うのが残った連中のできることじゃろ。あんた、左近少将や蔵人所のナマケモノが一生日の目を見られんくなってもいいっちゅーのか。」
−真葛、唐に行かねーか−
「…関白殿の有罪の証拠がまだ上がってないのに見捨てろってのか、中将殿は!」
−俺は坊を御位に就けるためなら何でもする−
「しょーこ?あんたもやっぱりお姫様じゃね。そんなん必要ない。右の大臣が本気で関白さんを追放しにかかった上、内の大臣が同盟組んだら、容赦はないぜ。下人の捏造証拠だけで十分じゃ。奴等が欲しいのは口実なんじゃからね。全員やられん内に手を打てと俺は勧めに来ただけじゃ。」
「あんの昏主!讒言鵜呑みか!」
ついに唐語の罵声まで飛び出し、その語勢と吐き捨てっぷりには右中将殿も円座から飛び上がったのであった。ちなみに昏主とは『バカ君主』という意味である。几帳の向こうからは、どかっ、という音まで聞こえてきた。
頭弁の奴、想いを懸ける相手を間違ったんじゃないのか?!
慄いている中将殿の危惧は正しい。ついでに、尚侍を敵に回すのは賢明でないという結論に達したのも正解である。
一方、怒り心頭に発して文机に両手を突いて立ち上がり、ついでに脇息を蹴倒してしまった尚侍はわなわなと体を震わせていた。
「なあ、あんたの気持ちもわからんことはないけどな。じゃけど、大納言が完全に右大臣と手を組んどる。内の大臣だけじゃったら交渉の余地はあるけど、大納言は容赦ない男じゃからな。うちの右大臣も関白さんもあいつと同じくらい腹は真っ黒じゃけど、まだ交渉の余地があるから人望があるわけじゃ。けど大納言はちゃう。苛烈なまでに容赦ない。元々関白を嫌いじゃったところに加えて、あいつらを不倶戴天の敵にしたのは、恋ちゅーからなあ。」
「色恋沙汰を公務に混ぜるな!」
「悪いが大納言と同じ理由で右大臣についた連中は馬鹿にできん数じゃ。関白を追い落とせば、あんたに接近するチャンスが手に入る。色と欲との二重奏じゃな。」
「私の…せいなのか?!」
尚侍の声が裏返った。中将殿がはっと気付いたときは遅かった。
「元凶は、私なんだね、中将殿!」
「ちっ、違う、尚侍ちゃん、それは違う!俺はただ男の嫉妬は怖いっちゅーことをじゃ…弁だって俺だってあんたの友達じゃろ!」
返事はない。尚侍は立ち尽くしてぽろぽろと大粒の涙を畳にこぼしていた。
平和な均衡をぶち壊したのは自分だったのだ。東宮を位から追ったのも、関白殿を囚人にしたのも、筒井筒を逃亡者にしたのも、自分のせいで反東宮勢力に拡大と結集の隙を与えてしまったからなのだ。
−真葛、俺の北の方になれ−
ぎゅ、と胸元を押さえた。引き結んだ小さな文の感触がある。
「尚侍ちゃん…なあ、助けられる奴だけでも助けてやらんか。俺と一緒に。」
「落飾したい気分だよ……。」
「何ちゅーことを!あんたがいなくなったら御前は右大臣と大納言の思うがままじゃぞ!」
進むに進めず、退くに退けず。
「…わかったよ。」
なら、全員に泡を吹かせて密航してでも唐に逃亡だ!と尚侍は物騒な腹を括った。
待っててね。必ず行くからね。
「中将殿の言いたいことはよくわかった。私にできることがあれば協力するよ。」
「よっしゃ!俺に任せろ!」
一転、意気揚揚と出て行く中将殿は兵部卿宮のところへお行きになるのだろう。尚侍は一人几帳の陰で両手の拳を握りしめた。
関白殿。宮。二人は、私が絶対に助けるから……!
陰謀の首魁が罪に落ちたのであれば雑魚までを連座させる必要はないということを飄々とご一族の大臣に説いた中将殿である。梅壷で右大臣殿はいささか興を削がれた顔をなさった。
「将来に禍根を残す必要はあるまい。」
が右大臣殿のお答えである。
「あのナマケモノと役にも立たん少将が禍根になると?」
「苦杯を飲ませてから恩を売っても、大抵は恨みしか残らないものだ。ならば徹底的に叩くほうが一族のためとなる。」
さすがに議論で右大臣殿を論破するのはなかなか難しいと実感した中将殿である。改めて関白殿の御才知に舌を巻いたのであるが、無論そんな感傷は何の役にも立たないのである。
この頃帝のおいでがあまりないと嘆いておられた梅壷女御は難しいお話に飽きておしまいになったようである。女房と几帳の奥で絵巻物などを広げて楽しんでおられた。歌も絵巻も不得意の無骨な帝とお話が合うはずもないのである。もったいないことである。
「そもそも梨壷の宮がいまだに追捕の網にかからぬのはどうしたことなのだ。もうどこかで露とおなり遊ばされたか。」
さらりと物騒な発言をなさらないでいただきたいものである。右中将殿の背がぞくりとなさったのも無理はないのである。
「あんた梨壷さんに怨みはないじゃろ。あの人は関白あっての東宮じゃ。」
「帝の御威光と並立する太子がいると国は乱れる。お前は史書を読んでいないのか。」
尚侍の知識を借りて来たいところであるのだが、残念なことに中将殿は尚侍が重度の書痴であることをごぞんじない。
「それに左大臣が関白になったのは、俺を牽制するため一の院が強硬に主張なされたことだ。つまり、五の宮を何としてでも御位に就けたいとお思いなのは一の院ということだ。その根拠は五の宮の資質。」
滅茶苦茶怨んでたのかよ…という中将殿、大正解である。これでは状況把握が甘すぎると右大臣殿に叱られても無理はないのだ。
ふう、と右大臣殿は庭をごらんになった。話を逸らすかのように、前栽に雑草が増えてきましたね、と女御に話しかけられた。秋草が悪くなるのです、葛があちこちに生えてきて、と女御はお嘆きになる。そしてまた玉葛の姫の物語に戻られたご様子だった。
「そうですか、葛ですか。」
桔梗の直衣の右大臣殿は、御自ら庭へと降り立たれた。寿命も伸びるすがすがしさ、と女房たちが大げさに誉めそやす。赤紫の花を見つけた大臣は葉と共に一房折り取った。懐中から小筆を出すや扇にさらさらと一筆したため、端近の女房に言付けた。
「温明殿へ。」
羨ましげな顔をしながら賢所へ近付いた女房は(というのは温明殿の居住空間はバリケード化して危険なので外部に開かれた窓口は役所のここだけなのである)、無表情でどことなく権高な元梨壷キャリアにお使いを渡して無事戻ってきたのであるが、その後の騒ぎは知らなかった。
「何をしゃーしゃーと文なんか送ってきたんですか!こうなったら徹底抗戦です!!いーや、挑戦状で回答です!」
と宣言したのは式部卿の君であり、この提案は満場一致の大喝采で迎えられたのだった。尚侍は怒る先を越されて苦笑している。
この葛のように蔓を手繰って花のような貴方にお会いできる日が来るのでしょうか。
一応注釈であるがここでの『会う』は出くわすという意味ではないので念のため。
「何を尚侍の仕事ばかりを増やしているくせに図々しくもこんなことを書けましたね!いっそ足元葛だらけにしてその足並絡めとってひっくり返して頭かち割ってやると返信出していいですか!」
おおー、と拍手再び。
「ぷーちゃん…それは右大臣殿の悪い冗談で黙殺しよう。あの人は悪い人じゃないよ。」
梯子を持ってきてくれた恩義というのは偉大であった。それが豹変するのだから、政敵というものは恐ろしいのだなと認識を新たにしている尚侍だった。
「お返事はいかに!」
戦闘意欲満々の式部卿の君に、腕組みをして考えた尚侍は筆を取り上げてさっと書きつけた。
さねかづらの蔓を手繰って友達に会える日が来るなら花も咲くかもしれませんけど。
「蔓だけやたら長いのを葉つき花なしで右大臣殿に返送!」
「はい!」
きびきびと女童が庭に下りて目当てを見つけ、至急信さながらのスピードでキャリアが梅壷に乗りこむ。相変わらず早いな、と感心なさった右大臣殿は、結び付けられた純白の薄葉を開いて笑みを深くなさった。
「…中将。本当に手強いのは、関白ではないかもしれんぞ。」
「は?」
「だが、それはそれでまた一興というもの…院の君は知れば知るほど興味深いお方だな。」
「俺には変人としか思えんが……。」
右中将殿の正しいご意見は、主観というフィルターにはねつけられて右大臣殿のお耳には届いていないようである。
しばし梅壷で機嫌よく滞在なさった右大臣殿は上機嫌でお帰りになった。一体何をもらったのか知りたくて賢所に寄った中将殿が式部卿の君に散々吊るしあげられて涙目におなりだったのは又別の話である。
何はともあれ、偉くない人々への工作を尚侍に一任されたと胸を張って蔵人所に登場した右中将殿に対し、弁殿の反応は冷静だった。
「貴方が押し付けたのではありませんか?」
「失礼な。俺は現状をちゃーんと分析してあげただけじゃ!」
「分析しない方がましな現実というものもありますよ。」
頭弁殿は一つ溜息をおつきになる。前の晩、宿直ついでに温明殿へ慰みと笛を片手にいらしたのだが、尚侍からは一言もそんな話は聞かなかったのである。式部卿の君が物言いたそうにしておられたのだが、尚侍の寂しげな様子が気にかかった頭弁殿はあえて軽く笑えるような雑談ばかりをなさってお戻りになったのだった。
「大体尚侍を何だとお思いなのです。いくらあの方が聡明で辣腕家としても、上達部たるものあれほどの相談ごとをなよやかな姫に負わせるものではありません。」
尚侍となよやかという形容詞が等号で結べなかった中将殿は目が点である。爆発して几帳の奥で何か蹴り倒した人になよやかはないであろう。多分。
ご友人をずるずると引きずって温明殿に向かわれた頭弁殿は、ご友人の暴走を詫びると共にできることがあれば自分もお力になろうと確約して下さったのだった。これに勢いづかれた弾正宮は左近少将を取り戻すべく更なる職務への精進をなさったのであるから、世の中何が吉と出るかわからないものである。
納得の行かない兵部卿宮を渋々ながらも説得したのは、最初に少将を復活させて友達思いの少将が弾正宮に及ぼす影響力を駆使して弾正台を東宮と関白殿救出に向けさせようという尚侍の思惑である。次善の策とはいえ、圧倒的に不利なのはこちらなので、何もしないよりはましである。
当然百戦練磨の上達部にも尚侍の思惑など読めているのであるが、関白殿を救おうと奔走するお姿が気高いと、却って方々の恋心を増してしまったようである。届けられる歌は減るどころか焼き芋パーティーを何度も開けるまでに増え続け、賢所スタッフのエネルギー源となったのであった。
迎撃体勢の強化を進言した式部卿の君は率先して温明殿バリケード化工事第二期を敢行した。唐の兵法書片手に、信頼のできるキャリア10人と夜昼問わずに突貫工事である。尚侍は元々崩壊しかけていた殿舎をいい加減に修理していただけであるが、式部卿の君は積極的に攻撃を仕掛けているといっていい。大秦の兵書まで持ち出してさまざまなものを設置しているのであるが、中には、落とし穴に落ちたら串刺しにされるというような左近少将が聞けば顔中口にして反対を唱えそうなものまで作っている。兵部卿宮がお止めにならないのは知らないという一点に尽きた。長い付き合いだけあって式部卿の君も怒られそうなことは口にしないのである。基本である。
落とし穴の下に設置された棒杭を点検しながら、尚侍は感心しきりであった。
「見事に『百合』ができあがったねえ…でもこれ、ちゃんと死なない程度に調節してあるよね?」
さりげなく物騒である。はい!と満面の笑みで請け合った式部卿の君は、
「三号穴に昨日誰かが落ちてましたが、骨折も刺し傷もありませんでした!」
と更に物騒な保証をする。ちっ、と尚侍が舌打ちした。
「性懲りもなくまた来たか……。あれだけ危険だから来るなって言って回ってんのに。」
「仕方ないですよ。みんなが出し抜きたいのは主上なんですから。この頃の主上のアプローチはすさまじいじゃないですか。お手紙の来ない日がありませんよ。」
くっそー、と暴言を吐く尚侍である。御前会議でも、こちらへ寄らないかだの御簾を上げて欲しいだの終わったらお茶でもしないかだの、命婦を通して要請されることすらあるのである。権力を笠に来てセクハラをする気か帝王学失格だ、などと満座の前で諌言を炸裂させるので、全て空振りになっているだけである。右大臣殿や内大臣殿はこういう場合尚侍の主張を後押ししてくれるのである。まことに共通の利害は押さえておくべきである。
「大体私は主上の顔も見たことがなければ声もたいして聞いたことがないんだよ。何であんなに執着するかなあ……。」
首をひねっているのだが、式部卿の君はばっさりやっつけた。
「梨壷の宮だって元々見たことなかったじゃありませんか。」
「宮とは内裏で何度か逃亡と追跡劇を仕出かしたことがあるんだよ。」
そのような知り合い方というのもいかがかと思われる。
「梨壷の宮はこうと決めたらものすごい粘り強さを発揮しますからね。」
「そ、そーなのか……。」
「そーですよ。あの常人離れした根気は兵部卿の兄君でも冠を脱ぐほどです。」
「思い当たるところは確かにあるなあ…兵部卿宮は常識的な人だよ……。」
うーん、と脇息に肘をついて天井を仰ぐ尚侍であった。
常識では非常識に太刀打ちできないということを、尚侍はいやというほど思い知らされることになる。男の嫉妬は怖いのだ。