

びし!と檜扇を笏代わりに御座所へ突き付け、断固として御前に立ちはだかった上にのっけから諌言である。これでは唐の士大夫である。それも相当に根性の入った骨の固い、つまり煙たい諌言の臣である。本朝は何事もソフトに進んでゆくのである。内侍の君の行動はあまりにも過激である。
姫としてあるまじき行動に左右の大臣は絶句なされた。似合っている。似合っているが似合えば何をしても許されるわけではないのである。院はお袖で顔を覆ってしまわれる。
きりりとした表情で、澄んだ漆黒の瞳がじろりと帝の御座所をまっすぐに見据えた。内侍の君にとってはここが正念場なのである。入内などしてしまったら最後、唐留学が不可能になるのは火を見るよりも明らかである。
非常識極まりなくも美しいことこの上ない内侍の君の立ち姿に、どなたもが声をなくしておられる。それでも溺れる者は藁をも掴むのだ。かつて助けてくださった東宮の方を、期待を込めて振り向く内侍の君の険しさがふとほぐれた。そして困ったような表情でじっと見詰められてしまった東宮は、私利私欲も絡んで俄然何としてでも守ってやると力強く頷かれたのであった。
「院の御娘ともあろう姫に無理強いなさるのは、今上として如何?」
ぱしん、と扇を鳴らして、皮肉な台詞をおぶつけになったものである。しかし身構えたのは左右の大臣であられる。院ははらはらと気を揉んでおいでであるが、内侍の君は、さすが、という感嘆の面持ちを東宮に向けていたのであった。それが更に東宮を勢いづかせる。
「院の君のお心が主上に傾けばお受けになるでしょうし、そうでないとしてもこの君のお心に任せるのが王者の徳と申すもの。」
絶対んなこたありえねー、という確信に満ちた言葉である。音痴にこいつがなびくかよ。それもまたごもっともである。何よりも入内などされてしまったらさすがの梨壷東宮でも手が出せなくなるので死活問題なのだ。
方向性が全く違うにせよ、徹底抗戦で共通した琴の師弟コンビはそーだそーだと全身で賛成を現した。今となれば、よよと泣き崩れた方がよかったのだろうかとも思いついたのであるが、帝の御前で仁王立ちになり諌言を飛ばしてから泣き崩れても説得力が皆無なので、柄にもないことは早々に諦めた。
「しかし貴方には帝のお志をお断りになる理由がおありか?」
やや刺を含んだ右大臣殿のお言葉ではあったのだが、梯子を持って来てくれた恩人と認識している内侍の君はここぞとばかりに本音をぶちまける。
「当然です。私は祖先俊蔭や仲忠の手を後世に継承するべく日々家学研鑽の道に励み、琴を極めることだけを生涯の目標としておりますので、どなたとも御縁を持つつもりはありません!琴の奥義を極めて本朝に残した方が私を登用なさる道かと存じます!」
入内はとにかく、どなたかとは御縁を持ってもらいたい院は呻き声を上げられた。断固たる内侍の君の決意表明に東宮は扇で顳を押さえられ、そのご様子を伺って左右の大臣はやや落ち着かれた。少なくともどこぞの誰かと思い交わして嫌がっているのでないのは明々白々である。
「入内は措いても帝のお心を無碍にしてはあかんやろ。」
にっこり、と関白殿の食えない微笑み。
「せめて位階を賜るくらいになさったらお受けできるか、内侍ちゃん。」
「う、うん、それなら内侍さんの人生の障害にはならない……。」
「障害なんか、内侍ちゃん……。」
苦笑、である。一方の右大臣殿は、うむ、と考えこまれた。何やら不穏な雲行きを感じられたのは東宮である。
「おい、官職でこの音楽馬鹿を脅してやるんじゃねーぞ、関白。」
一回逃げられたくせに、という含みを十分以上に焚き占めて釘をお刺しになったものである。
「つまり、貴方は公職であればお受けできるということだな。」
「さすがは右大臣殿!わかりがお早い、そのとーり!」
いやあみんないい人だと性善説へ一気に傾いた内侍の君はまだまだ甘かった。
「今一の院の御所におられる尚侍が、実はボケておられるようなのですが。」
と右大臣殿は奏上を始めたのであった。関白殿も、
「そういや療養費を増やせちゅーて一の院がごねられたから、兵部卿宮が出動する羽目になったんやなあ。」
と相槌をお打ちになる。内侍の君はにじにじと、目下一番頼りになりそうな東宮の近くへ移動した。多数に敵するには結束が必要なのである。当然東宮に異論のあろう筈がない。
「老後を保証する代わりに尚侍を返上しては如何かと。」
「せやなあ…もう一人の尚侍は前大将の北の方やなかった?まだ生きとるか?」
「私も死んだとは聞いていないのだが。その上に典侍達もかなり高齢化が進んでいることだ。これは朝廷としてまことによくない。」
「せやねえ…スキルとノウハウを継承できへんことになったら、朝廷立ち行かんなあ。あんたもたまにはええこというやないの。」
「院の君であれば御身分も申し分ない。」
「公職やったら俺にも異議はないで。」
恐怖に慄いてにじにじ東宮の脇に移動していた内侍の君は、最後の砦とばかりに直衣の袖を握り締めた。
「あるよ、何だよ、公職なら問題ないって……。」
「関白の奴、ぜってー後でしめてやる……。」
「後じゃ遅いよ、宮、すぐしめてよ!というか、しめよう!」
よし!と結託したが、時既に遅し。
「ならば、御養女の君を尚侍として上げて頂けませんか、院。必ず心を込めてお世話いたします。」
勅命とあっては即時却下するわけにも行かれない院は、
「妃嬪でないのならば、いたし方もなかろう……。」
と逃げを打たれ、あまりのことに内侍の君は涙眼で東宮を見上げて途方に暮れ、御座所では帝が喜んでその段取りについて大臣達にお諮りになったのであった。
「…真葛。お前、このまま嵯峨に行け。」
何やらさらさらと書き付けると、茫然自失の内侍の君の手に握らせた東宮は、じろりと勁烈な視線を投げてお寄越しになる。
「この手紙を渡せば家司が動く。少将に話をつけろ。兵衛佐が高欄に控えているから、奴に少将を呼び出させろ。そのままお前ら嵯峨に行って俺様を待て。俺はこれ以上弘徽殿だの藤壺だのにお前が取り込まれないように何とか話をつけてやる。」
弘徽殿だの藤壺だのといった殿舎の名前に、内侍の君は引きつった。完全に帝の御来訪をお待ちいたしますといった建物群ではないか。物騒極まりない。
「返事はっ!」
「はいっ!」
「おら、とっとと行け!お前、ここでぐずぐずしてたらそのまま清涼殿に持ち帰られるぞ!」
ひー!と立ち上がった内侍の君は、そのまま外へ走り出た。
内侍の君の素晴らしさを人にも知らせてやりたいという好奇心を持ったことを、東宮が心底後悔なさったのはまた別の話である。
普通の姫君であれば、よよとうち伏してお嘆きになり、結局ずるずると状況に流されて悲劇に突っ込む、というのが定番なのであるが、我等が内侍の君の行動力は抜群であった。つまり、即座に全ての東宮指令が遂行され、内侍の君にいたく同情してくれた兵衛佐は左近少将の許へとひた走り、筒井筒の降ってわいた災難にこれまた仰天した少将は舎弟を連れて駆けつけてくれた上、弾正宮の車に放り込んで即刻退出という早業をやり遂げてくれたのであった。面白がってついてきたのは侍従殿と頭中将殿という、御存知左近蹴鞠友の会メンバーズである。まことに運動仲間は良いものである。
とかく急いで京の都をエスケープだ、という旅立ちようでバカンスもへったくれもあるわけがなく、行け気合だ突っ走れという少将の叱咤激励に見事に応えた牛車は、貴族にあるまじき暴走っぷりをいかんなく発揮したのである。出衣、などという習慣は無視である。というより、そんな悠長なことをしていられる速度ではない。まあ、女君が乗っている車にあるまじきスピードだったので、乗っていると明かさない方が無難ではあろう。嵯峨別荘に着いた時は、全員よろよろのへろへろであった。
勝手知ったる左近少将は家司に東宮の書状を渡してから車の中で仲間達と伸びていたのであるが、門が開いて車を乗り入れた時、簀子にお出迎えになられた人影を見つけて声を上げた。
「うわっ!兵部卿がどうしてここにいるんだよ!」
「悪かったですね、東宮のものぐさの後始末をして一の院のご機嫌取りばかりさせられていた俺が骨休めに来て何が悪いんです。」
お出迎えにしてはふてくされておられる兵部卿宮である。無理もないなあ、と左近少将が納得したのは、溺愛なさっている梨壷東宮が来られないので次に可愛がっておられる兵部卿宮が一の院の許に参上なさると、確実に三日は帰してもらえないという状態を熟知しているからなのだった。
「院にもいい加減子離れしていただきたいものです。」
さすがにあの毒舌家の弟宮だけはあり、辛辣であられるご様子である。
「それより少将殿。宮のこの手紙はどういう意味ですか。」
「あー…俺の知り合いで宮の知り合い…っつーより琴馬鹿仲間が入内を嫌がり都をずらかり、俺らは脱走に手を貸したってとこだよ。」
「入内?」
涼しげな眉をお顰めになり、兵部卿宮は不審を全開になさる。まことに寿命も伸びるすがすがしいいでたちであられる。
「一応性別は女。なんだが…まあ現物見てもらうほうが話は早えーな。おい内侍、こいつが宮の弟の兵部卿。一応家主の身内に挨拶しておけよ。」
そんなことを言えば恐れ多くももったいなくも帝だって兄宮であられるのだが、そんなことはあっさりスルーである。
ぽこ、と牛車の窓から顔を出した内侍の君に兵部卿宮も驚きはされたのであるが、あの滅茶苦茶な梨壷東宮を近くにご覧になってお育ちのせいか、動じずに極めて礼儀正しくご挨拶をなさったのであった。内侍の君は感動である。
「あの変な宮によくこれだけマトモな弟君がいたよねえ……。」
「兵部卿のどこがマトモだよ。あいつは一見馬鹿丁寧だが、その実慇懃無礼がモットーだ。」
「……。」
色々な意味で疲れている常識人左近少将君は、ほらよ、と内侍の君を車から下ろすと別荘に押しこんだのであった。
都を脱出した経緯がどうあれ、揃った面子はおかしくも気安い蹴鞠友の会というわけで、一旦食事を取ってから睡眠を取るとみんな仲良く蹴鞠トレーニングにいそしむのであった。内侍の君は今までの反動か、最初から髢をかなぐり捨てて水干姿で混じっている。もっとも混じれるのはウォーミングアップまでである。後は野次馬と化して茶々を入れたり、一緒におやつを食べていたりするだけである。暇つぶしの本まで持ちこみ、観戦に飽きてくると簀子に転がって唐の史書などを楽しく読んでいる。怠惰であるが待望のバカンスであった。
こうしてニ三日が平和に過ぎたのであるが、内裏からは何の連絡もなく、もしかしてしたくない昇進が誰かの横槍で取りやめになったのではないかと内侍の君に虫の良い期待を抱かせたのである。
「『月明らかにして星稀なり 烏雀南に飛ぶ』……。」
今日も元気にトレーニングを終えた面々が、酒を食らって馬鹿騒ぎを始めたので、飽きてきた内侍の君は夕食を食べ終わると早々に一座を外した。唐の詩人の詩集の続きが読みたかったせいもある。古戦場を懐古するというまことに豪快な詩なのである。院に知られれば説教は免れないところである。まして、良い星月夜に調子に乗り、朗々と詩吟を始めては尚更である。いささかお酒が入っていることと、一緒にいるのが心置けない友人たちであるということが、内侍の君の非常識度を加速させている。
「貴方は唐の英雄にばかりお心を寄せておられるのですか。せめて私にもお心をかけていただきたいものです。」
前栽からいきなり声を掛けられて、内侍の君は文字通り腰を抜かした。簀子にぺたりと座りこむ。
「うお!だ、誰!」
げらげらと笑いながらあっさり出ていらしたのは、梨壷東宮であった。
「ばーか、毎日聞いてた声を忘れてんじゃねーよ。」
「みーやー…心臓に悪い悪ふざけしないでくれないか?!不審者かと思ったじゃないか!」
俄然元気になって抗議する内侍の君に少し目を細め、肩の辺りで元気良く跳ねている乱れた髪をそっと直した東宮だった。
「で?あの話取りやめになった?」
即座に懸案事項を確認する内侍の君である。あながち先程の台詞が冗談でもない東宮は、頭を抱えたい衝動にかられた。
「んな都合のいい展開があったら俺様は苦労しねえ。あの馬鹿帝、後涼殿に殿舎を賜おうなんて言い出しやがって、また一騒動だぜ。」
虫のいい期待から一転、奈落の暗黒に突き落とされたかのごとき宣告に、内侍の君は震え上がった。
「あんまりだ!!そういう所には中宮とか女御を入れろ!!」
もっともな抗議である。あまりの展開に涙目になってしまう。
「宮!契約違反は申し訳ないんだが、密航して唐に……。」
「落ち着けよ。そう言うだろうことはわかってたから、俺もとんでもねえ交渉してきたぜ。…だから穏便にはすんでねーぞ。」
「…藤壷あたりに行かなきゃなんないのか……。」
どよどよと暗雲を漂わせる水干姿尼削ぎという内侍の君を、立ち話もなんだとそぞろ歩きにお誘いになった東宮は、きっぱり首を振った。
「まさかっ、後涼殿で決まりっ?!」
ぎゃー、と頭をかきむしるのである。が、これにもきっぱり首を振られて、内侍の君はやや落ち着きを取り戻した。言い辛そうな東宮をつついて、何をどうしたと問い詰める。
「…初めに謝っておく。」
「?」
「…前にお前が、母君の身分がなかったから故宮に認知されてないっつってたの、あれを切札にした。」
すまない、としおらしく頭を下げた東宮に慌てたのは当の本人である。
「いや、使えるものは何でも使ってくれた方がいいよ!それで不穏な事態が阻止できるなら万歳だ!」
「…いくら院の御養女でも、故宮のお認めにならなかった奴を御寝の近くに置くんじゃねえ、そんな故事は有職故実全部ひっくり返したって出てこねーぞ、成り上がりを寵愛して国つぶした奴が唐にどれだけいると思ってんだ、って一席ぶった。」
内侍の君は神妙に聞いている。
「…そしたら、上達部がけっこー賛同してよ。だから、んな奴は温明殿辺りで十分だ!って駄目を押した。」
「温明殿か……。」
ふーむ、と感に堪えたように思い出したのは、『ボロ殿舎』として有名な廃屋寸前の温明殿が脳裏にあるからである。あそこ、ニ三箇所床に穴が開いてたなあ、という内侍の君の頭の中には一向に気付かないお育ちが良くていらっしゃる東宮はもう一度、すまない、と繰り返した。
「今更言っても説得力ねーけどよ…そんな風に考えてるつもりはねーぞ。」
「んなこと知ってるよ。琴仲間を侮っちゃいませんかね。」
「結局温明殿で決まったって言ったら、怒るか?」
内侍の君がじっと東宮を見据える。先に視線を逸らしたのは東宮だったのであられるが。
「さっすが我等が全権委任大使!敵を欺くにはまず味方からっ、完璧な交渉術じゃないかっ、ばんざーいっ!ありがと、宮!尊俎折衝の栄誉を差し上げますっ!」
諸手を上げて喜んだ内侍の君に、様々な御懸念はあっさりとふっ飛んでおしまいのようであられる。
「あそこだったら梨壷も近いし、いざとなったら緊急非難先にしてもいいよね?」
「不便だったらいつでも来い。入りびたっても構わねーぞ。」
「いやあ、内裏の住人では唯一の友達が隣にいてくれて心底ありがたいよ…帝があんな頓狂なこと言い出した時はどーなるかと思ったけどさ。」
ありがとね、とにっこり微笑んで東宮を見上げる姿は、いっそ可憐で、再び残存理性をかき集める羽目になられた東宮は、よーしよし、と頭をなぜるだけで取りあえず我慢することになさったらしい。
「よーし、これであの帝の気が変わったらさっさと辞職届けを出して留学だ!」
「その前にレッスン完了だ!!この音楽馬鹿!」
恋の夢、なんぞというのは絵に描いた餅、現実とはこんなものである。頭痛がするぞ、と悪態を連発したい東宮ではあられるが、星空の下、広大な庭を案内しながら二人で歩いている(いかに話題がマニアックであったり超現実的であったとしても)という状況に、些細な御不満は呑みこむことになさった模様である。そもそも姫君というものは庭を眺めることはあっても歩きはしないというより部屋から出ないものである。よっていかな名だたる色好みで名の通った東宮でも意中の君とお散歩をなさったことはないのである。(というよりそんなことをする公達は皆無であろう)斬新な経験に、いたく御満足の様子である。
自若たる築山の様子、囁きのような音を立てる鑓水の流れ、位相を変えるたびに異なった表情を見せる庭園と前栽の草花、晧晧たる中空の月、唐の賦のごとく燦然と輝く天漢の星々。ちらほらと混じる小さな萩の花は、物思う秋の前哨。
いつか、女君に腕を貸している男君に、誰も気付かない。貸している人も、借りている人も。
「前庭で蹴鞠ばっかやってたから知らなかったよ。綺麗だね…水面が、まるで星空みたいだよ。」
「あの橋を渡ったら池の中島に下りられるから、そこの亭で一休みするぞ。」
「よーし、あと少し頑張ろう。それにしても宮って健脚だねー。さすがあの面子をしごきまくるだけはある。」
「うるせーぞ!」
けれども、そのやり取りの声はせせらぎの水音にも似て。
亭に寄り添って楽しげに話し合う二つの影を、大きな築山の陰が隠している。