弦楽小夜曲

夏日之段


 温明殿はやはりぼろかった。このところ権勢のある家の御娘がどなたもこちらに入内なさらなかったせいもあって、崩壊していく殿舎を誰も修理しなかったのである。使わないところを修理するのは費用がもったいない→放っておこう→さらに崩壊、というよろしくない循環が定着しきっているのである。
 人が住んでいないだけ宇治よりすごいぞ、と笑うしかない新尚侍は、抜けた床板に立ち向かうべきか雨漏り必至の屋根と格闘すべきかを考慮中であった。院の御所からついてきてくれた周防の君はひたすら嘆くという常識的な行動を取っている、つまり全く役に立たないので、最初から当てにはしていない。と、いうのは。
 温明殿のすさまじさは知れ渡っているので、あの後嵯峨にやってきた関白殿は金と力に任せて改築しようと申し出てくれたのであった。却下したのは東宮である。
『てめーが改築したら真葛は右から変に目をつけられるだろーが!放置すれば今のまま中立だってことをアピールできるだろ。させるなら右大臣の先導でさせた方が院の御心痛も減る。』
 あんなところに人が住めるものかと抗議した関白殿ではあったのだが、弁殿に教えてあげればきっとあの人が何とかするよ、というどなたにとっても面白くはなかろう頭中将殿のご意見で沙汰止みになったのである。もっとも左近少将は、
『結局誰が手を出してもどっかで波乱を呼びそうだから、誰も手を出さないんじゃねーの?』
と常識的な予想を立てたのだった。東宮も同感であられたのであるが、
『不便かもしれねーが変な恩を着せられて好き勝手されるよりマシだろ。』
と、色好みならではの御意見を披露され、それもそーだと一座を納得させてしまわれたのだった。
 少将の読みは見事に当たり、弁殿や右中将殿は大層な贈物を下さったのであるが、殿舎には手を触れなかったのである。というよりも、引越しなどで忙しいだろうと気を遣ってか、まだ遊びに来ていないのである。
 かくして、そもそも引越しに多大な労力をかけるほどの私物を持っていない尚侍は金槌や釘を入れた箱を小脇に襷がけという、女房ですらしない格好で殿舎をうろつき、可能な範囲を修繕中なのであった。少なくとも仕事中に自分が床板踏み抜いて怪我をするのは不愉快である。本当は雨漏りも修理したいのであるが、天井に手が届かないのと、雨漏りポイントがわからないために放置である。雨の日、一日は確実に偵察のためびしょぬれだな、と腹を括った尚侍だった。
 嘆いてばかりいる周防の君が明らかに作業の邪魔になると踏んだ尚侍は、挨拶状の配達や院への御報告などの雑務を全て押し付け、御所へと送り出したのである。そして自分は金槌片手に住居のリフォームに取りかかっているのだった。しかし穴さえ塞げばいいという発想なので、お世辞にも仕上がりがいいとはいえないのが欠点であろう。
 ごんごんと金槌で騒音を発生していたら、
「何をしている?」
と詰問されてしまった。ん?と釘をくわえたまま振り向くと、夏萩の狩衣に大弓を背負った顔つきの険しいお侍が口を開けて立っている。
「あー、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。引っ越してきたんですけど、床板が穴だらけなんで修繕中なのですよ。ご理解とご協力をお願い致します。ついでに工事期間は未定です。」
「な、何故下人がせんのだっ?!」
 お侍氏の言うことは正しい。いないんだもん、仕方ないじゃないか、と開き直っている尚侍は、ギャラリーに構わずリフォームを再開した。
「…それではここに参られる尚侍がお困りになるだろう。せめて院の御所から誰か……。」
「あー大丈夫大丈夫。穴は埋めれば何とか歩ける。ついでにトラップもニ三作ってだ、不法侵入者を床下に転げ落としてやるようにしておけば安全対策もばっちりだしさ。あ、迂闊に上がらないでよ。ダミー修繕のところがあるからね。」
 簀子に上がろうとしたお侍氏は見るからに怯んだようである。尚侍がダミー修繕個所など作っているのは、不埒な公達撃退用に他ならない。トラップを張り終えていないし、完全マップも作成していないのでお隣になった梨壷東宮には来ないでくれと厳重に言い渡してある。工事に追われているのでレッスンもお休みである。簀子が歩けた状態ではないので日に二度ほど庭から兵衛佐がお手紙を持ってくるのであるが、日を追うごとに顔を見せろだの来いだのという単語が増えている。更に東宮のフラストレーションを加速させているのが、尚侍は決して返事を出さないという一事に尽きる。全て口頭連絡なのである。もっとも、片手に金槌、片手に釘、という人間に文を書くため作業中止させる方が難しいのは当然である。
「手伝いはおらぬのか?」
 どうやら心配してくれているらしい。
「うん。まあ、ゆっくりやってるからね。なくても何とかなりそうだし。ありがとね。」
 次の穴は塞ごうかトラップにしようか思案しながら、気のないお礼をした尚侍であるがお侍は、いやそれほどのことでも、といやに真面目に恐縮した。今までの経験からご近所付き合いの重要性を認識している尚侍は、
「もしかしてこのあたり警備してる人ですか?検非違使の人?」
と聞いてみた。
「…いや。検非違使ではないが、滝口に用があるのでこの辺りも良く通るのだ。」
「あ、滝口殿なんだ。どーりでワーキングスタイルが決まってるよね。武官の貫禄で凛々しいよ。」
 にっこり。と笑いかける尚侍に、滝口殿は見るも慌てふためいた。
「い、いやっ、その…ところで、貴方は尚侍のところにお仕えしておられるのか?」
「あー、いや、本人です。今後この辺りをうろうろすると思いますので、以後よろしく。」
 ぺこん、と頭を下げて無難に挨拶を終えたつもりの尚侍である。が、どこも無難になっていない。完全に度肝を抜かれた格好の滝口殿は、赤くなったり白くなったりを繰り返している。
 正気付いた滝口殿が、
「尚侍が手ずからそのような仕事をなさるものではなかろうが!」
と一喝したのは正しいのである。笑ってごまかせの尚侍だった。
「だってさー…好きで尚侍なんてなったわけじゃないしさー。大体、何か妙な興味を持った主上の滅茶な思いつきだけで、平和な院の御所から引っ越してくる羽目になったんだよ。おまけに不純な動機が見え見えの引越し先を呈示されて災難だったんだから。これでもまだ安全な住居を確保した方だよ。友達に感謝感激だね。あとはこれに各種トラップを追加して塹壕に仕立てあげねば!」
 完全に主旨を間違っている尚侍のリフォーム計画である。住居はバリケードではないのである。よしっ、と金槌片手に気合を入れ直している尚侍に、厳しい顔の滝口殿が、ふ、と笑った。
「…不埒な者は近付かせないから安心しろ。」
「お、助かる!」
 やはり近隣住民とは仲良くしておくものだとの実感を新たにした尚侍であった。
 滝口殿は良く弓を打ちにいくのでこの辺りに出没するそうである。暇ができたら見に来いと誘ってくれたので、戦記文学大好きな尚侍は二つ返事で乗ったのだった。
 こうして仲良くなった滝口殿は時々工事の進捗状況を尋ねに寄ってくれたりするようになったのだが、おさまらないのはそれを兵衛佐から聞かされた東宮である。お手紙配達人兵衛佐は二度ほど滝口殿と出くわしたのである。
 かくして間違った方向の行動力にかけては人後に落ちない東宮は、尚侍の忠告を無視して温明殿に乗り込み、見事に床板を踏み抜いたのであった。
「あーあー…だから来るなって言ったんだよ。さすがに人体実験まではするつもりなかったんだからさあ……。」
 よっこらせ、と二人がかりで見事トラップに落ち込んだ東宮を引き上げる羽目になったのだった。周防の君が相変わらず野暮用で外にやられていたのが不幸中の幸いである。
「お前、マトモな修理ができねーんなら言えっ!人間の住居程度にはなるように下人を寄越してやるから!」
 涙目で怒鳴られる東宮である。余程痛かったらしい。
「それは修理じゃなくて不審者用のトラップなんだってば……。だから危険なんで来ないでって言ったのに、物好き昂じて来るんだもん。完全トラップマップもまだ作ってないんだからね。」
「さっさと作れ!おちおち遊びにも来れねーじゃねーかっ!」
 正論である。
「いらないよ…用がある時は梨壷行くからさ。もういっそのこと、温明殿は完全篭城用バリケードにしてしまおうと考えてんだよね。」
 とんでもない人間にとんでもない住居を与えてしまったと気がついても後の祭りである。今日も元気に袿をかなぐり捨てて金槌片手に大工さんの尚侍は、とりあえずリフォームの成果に満足していた。もっと穴ぼこを増やそうかと不穏極まりないことを目論んですらいるのである。それはやめた方がいいと兵衛佐が控え目に止めているので、何とか常識枠に踏みとどまっているのである。もっとも要塞化した殿舎が常識枠というならの話であるが。
「ったって、十日も顔見せに来なかったじゃねーか。」
「あれ、もうそんなになってた?そりゃ悪い、どーせ練習サボってたんでしょ。指がなまって弾けなくなった?」
「…そっちかよ……。」
「それ以外に何がある。わかったよ、宮が晩空いてるなら行くし、明日が良ければ明日行くよ。」
「晩までこれをやってるつもりか?!」
 うん!と断固首を縦に振られて、さすがの東宮が絶句なさる。
「いい加減にしろっ!!!だからだな、尚侍の公務が不慣れとはいえ杜撰極まりなく上がってきてるってのは!お前のことだからまさかとは思ったが、どーせ周防に下げ渡してるか釘打ちながら片手間に手を出してるんだろうが!」
「ぐえ、ばれた!」
 隠す気くらい持ってほしいものである。
「これ以上のトラップ作りは禁止だ!おい、兵衛、こいつ担いで梨壷に戻る。ったく、とんでもねー尚侍だぜ。」
「だから私はやりたくないと言ったんだ、解任してよ!」
「解任の辞令が出るまでは職責放り出すんじゃねえっ!」
 まことにごもっともな東宮のお言葉である。さすがの尚侍がぐぐぐと詰まると、大柄な兵衛佐に、ひょい、と抱えられ、抗議の声ももののかは梨壷まで運搬されたのであった。兵衛佐が床板を踏み抜かなかったのは日頃から尚侍の作業進捗状況をちゃんと観察しているからである。何事にも注意深さは必要なのである。
 梨壷に放り込まれた尚侍は、女房たちに寄ってたかって連れ去られ、お話にならない格好を叩き直される仕儀に立ち至ったのであった。
 かくして今日の蹴鞠特訓の成果を報告すべく蹴鞠友の会の面子が梨壷に現れた時には、奥の方から悲鳴というか奇声が聞こえてきたわけである。折りしも尚侍の引越し騒ぎの直後であり、おまけにこのロケーションであり、東宮の悪癖も知り抜いている面子なので、全員東宮を詰問した挙句関白殿に至ってはあわや吊るし上げるところだったのであるが、床板踏み抜いて以降の顛末を順を追って憤懣やるかたなく解説するお姿に、疑惑は払拭されたのであった。
「おい…内裏は要塞じゃねーだろ、どう考えても……。」
 筒井筒の左近少将は、切実に溜息をついた。
「宮、この調子だったらあいつ、投石機とか攻囲柵とか連弩とか据えつけたいって言い出すぞ。止めろよ。いーか、ぜってーほだされんじゃねーぞ!!」
 あまりの内容に秀麗な顔をお引きつらせになった東宮であるが、少将はいたって真剣である。抗議を入れたいところだった関白殿すら、インテリアというにはあまりに物騒な物品に絶句なさっておられる。
「本気で篭城する気か、尚侍ちゃんは……。」
「する。奴なら絶対する。宇治を改築しなかったのは資金不足と、院と故宮が二人がかりで談判したからだって、俺は院に伺ったことがある。」
「貧乏もたまには役に立つんだな……。」
 東宮のしみじみとした御感想である。
 ようやくまともな格好に着替えさせられ、おびただしい衣装合わせに辟易した尚侍はよろよろと合流しがてら、温明殿バリケード化計画について一席ぶったところ、全員の猛反対を食らって渋々諦めたというのは、チームワークの勝利以外の何物でもなかった。
「そんなに心配なら衛士でもつけてもらえば?」
とおやつを食べながら侍従殿が言ったのは正しい。
「朝廷から?じょーだんじゃない、私は帝に変な恩を着せられるのは真っ平ごめんだ!!」
 いまだ恐怖に慄いているらしい尚侍が露骨に身を震わせた。
「やからいっそ、身を固めてしまってやなー……。」
「却下。レッスンが終わってねえ。」
「何で坊が却下すんのや!お前は桐壷に通っとれ!」
「あー…持つべきものは琴仲間……。」
 ぼそ、と呟いた尚侍に、一同が静まった。不穏な発言を繰り出した本人はきょとんとしている。
「ど、どどどーゆー意味だ……。」
「少将、噛んでる噛んでる。そりゃ戦力に数えていい味方になってくれてるのが宮だけなんだもん。院は役に立たないし、関白殿と右大臣殿は無責任だし、ほんと入内させられるかと思って世の中破滅かと腹括ったよ。少将とか侍従殿は御前で何か起きてるとき大抵いないしさあ。」
 不穏な発言の自覚がない尚侍は更に追い討ちをかけ、少将の不安を煽ったのだった。気がつけば梨壷の隅に転がって女房に布団をかけてもらって平和な睡眠を満喫なさっている頭中将は放っておくとしても、そのほかの面子はにっこり笑いながら腹の読めない関白殿が怖くて黙りこんでしまう。まるで壁代のごとく関白殿の背後に黒いものが見えるようである。気付いていないのは尚侍だけであり、それは転がっていた楽譜を引き寄せて絵巻代わりに眺めているからである。
「みーやー、もしかしてこれ書いたの宮?書きかけになってるよ。」
 端から見ればわからないが、弾く人には途切れて放置されている部分がわかるのである。ふんふんと鼻歌で主旋律を追いながら眺めていた尚侍は、慌てて取り返そうとなさる東宮から、ひょい、と譜をよけた。
「琴借りていい?」
「返せ!」
 へーい、と渋々返したものの、東宮が安心なさるのはまだ早かった。三千年を勝手に引き寄せた尚侍は、記憶するままに書きかけの譜面を弾き始めたのである。
「待て、やめろ!」
 かの六条院の譜面を一度見ただけですっかり覚えた前科を、今更になって思い出された東宮である。常日頃憎たらしいほど自信満々に落着いておられる東宮の慌てぶりは左近蹴鞠友の会メンバーにも面白いものだったらしい。いいって、続けろ、と二人がかりで押さえつける少将と侍従殿は、後から報復されることを失念したらしい。尚侍は我関せずと弾く手を止めず、流麗なその調べに最初無駄な抵抗をなさって暴れておられた東宮も、静かになられた。
 弾むような単純な旋律と、華麗な技巧を駆使した芳醇な旋律が代わる代わる現れる。楽しげに弾き続ける尚侍は、さながら一幅の画であった。
 星の輝きが増す。月明かりが華やかに輝く。篝火が踊り、鑓水がきらめく。御所中が優しい光に包まれ、都の人々は呆然と御所を眺めた。ふわり、と禁苑に咲いたのは唐からの珍木月下香、ぽん、ぽん、と軽やかに開くのはこれまた唐渡りの茉莉花。
 輝き渡る夜に忍び寄る、甘美な花の香り。それは、まるで何かの訪れにも似てけだるい熱と物思いをしみいらせる。芳しくも悩ましい夏の花の香りにも似て。
 段々と高まる旋律が、ふっと消えた。唐突に過ぎる終止に、酔いから冷めたように一座の方々は騒ぎだす。
「ここまででやめちゃうのは絶対もったいないよ、宮。続けなよ。すごく綺麗な曲だから。」
と言った尚侍は、じっと琴の弦を見詰めていた。
「…わかったよ。」
 東宮は無造作に譜面を文箱に放り込まれ、蛍をあしらった蒔絵の蓋をなさった。
 関白殿はとりあえず無言であられた。
 朝廷の皆様が、今宵の物の音は素晴らしい、梨壷から聞こえているということはあのめでたい宮がお手を尽くして弾かれておいでなのだろう、まことに唐天竺にまで持って行ってもこの上なく素晴らしい響きであることよと感心しきりだったのは余談で、それをお耳になさった右大臣殿と内大臣殿の御機嫌が曇り気味になったのはまた別のお話である。


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