弦楽小夜曲

夏日之段


 今まで御用をしていた尚侍がいなくなって最も被害をこうむったのは院であられた。
 何しろ、在位なさっていた折の妃宮方とはお子がおられず、その方々とも疎遠になられ、召人のような女房がお側にいる程度というお方である。ほぼ毎日顔を突き合わせていた故宮の忘れ形見である養女の君、尚侍が内裏に召されて一番落胆なさったのは院であられた。悄然となさったご様子は左近蹴鞠友の会の騒々しい公達にも一目瞭然であり、皆それぞれにお慰めしたのであるが、ほとんど浮上しない御気色であられたのである。その上御前で行われた殿舎争議の際、愛弟子があたかも尚侍を扱き下ろすかのような発言を語気荒く連発なさり、養女の君のお住まいが廃屋と申すべき温明殿に決定するに至り、院のお心はつぶれんばかりであられた。嵯峨からお帰りになった東宮が事情を解説しに上がって初めて、院のお心が少し晴れたのである。東宮が院に代わって後見を引きうけると頼もしく受け合って下さり、実際日参する毎に消息をもたらしてくださっていたので、この頃では梨壷東宮の訪れが院の唯一の楽しみとなっておられた。大層お気の毒なことである。ついでに帝や関白殿や右大臣殿や大納言殿も尚侍の後見を名乗り出られたのであるが、全く役に立っておられないのである。口を出すのはただなのである。
「…そうだったのか…宮、ありがとね。くっそー、関白殿は後で一度しめてやる。他の人はいいよ…右大臣殿はまだ無害なリップサービスとしても、他の人たちには関わりたくないよ。」
 尚侍の言い分は至極もっともであった。
 役に立たないにもかかわらず、院の御許へは山のように『姫君を僕に下さい』コールが性懲りもなく届いていたのだった。院は、尚侍の一存に任せるとしかお答えにならないのであるが、その尚侍が鉄壁のガードを誇っているのでは公達一同の落胆は限りないのである。
「大体私はさっさと辞職して唐に留学予定なんですよ?!ああ、頼りになるのが宮だけなんて……。」
 世知辛い世の中だー、と脇息に突っ伏した尚侍を複雑な表情で見守っておられる梨壷東宮に、院もまた複雑な表情をお向けになった。
 色めいた話が浮上しているわけではないのに、この二人の距離の近さがどうもお心にかかるのである。関白殿との仲は一向に進展せず、更に気を揉んでおられるのであるが、じわじわと宮の素行が改まってきたとなっては穏やかではない。頼りにしている発言まで出たとなっては更に穏やかではない。関白殿がここにいなかったのは勿怪の幸いであった。
 しかし、実際院の御所にまで尚侍を連れ出したのは東宮だけなのである。
 院は頭を一つ振って、ご自分の懸念を振り払われた。
「それよりも、右大臣と内大臣が近付きになっているようだが、宮は大儀ないのか。」
 つぶれていた尚侍が顔を上げる。
「ままならないのが世の中というものですよ。」
 くい、と口の端を引き上げてお笑いになる東宮であられる。寿命も延びるお美しさで、部屋の外に待機していた命婦達は溜息をついたり失神したりしている。野次馬になっているともいえる。
「そーいえば、あの二人に最近良く会うなあ…こないだは滝口殿の見物に馬場に行ったら右大臣殿に会ったし。右中将殿がいるのは当たり前にしても…滝口殿がえらくびびっていたけど……。」
「その前に何でそんなとこに行ったんだ!!」
「文官諸氏の役体もない凡歌攻撃から脱出して汗と涙の体育会系的爽やかさを求めてどこが悪い。」
 ずばりと言い放つ尚侍に、院は顳を扇で押さえられた。
「真葛…そなたも折角尚侍という職掌についたのだから、良い縁を探しておくれ……。」
「じょーだん顔だけっ!大体、あんなどいつもこいつも節操と教養のないろくでなしの掃き溜めみたいな朝廷で、誰が!院、仕事をしてよーくわかりました。私は身分が高い腹黒い人たちとも、官位に汲々とする小人とも縁を持たなくて結構です。髪を切ってでも絶対唐に行って琴を極めること、これこそが私の第一の幸せ!」
「いい加減にしろ…その前に俺を免許皆伝にしやがれ。」
 力説していた尚侍に水を差すかのごとき東宮の溜息ではあった。わかったよ、と座り直す尚侍である。おや、と院がお目を見張った。
「宮があんなにサボらなかったら、才能あるんだし、もっと早く免許皆伝になれるのにさー……。」
 勿体ないなあ、と続いた。東宮は返事をしないで高欄へ出られる。仄かに秋の気配を漂わせて色づき始めた庭の紅葉がどこか物悲しげである。
 ぱらりと、一枚風に乗って落ちた。
「…草色、秋といえども耀くこと翠鈿のごとし……。」
 呟いた東宮は、はっとしたように口を閉じる。院は弟子の風流に目を細められる。尚侍が静かに東宮に近寄って、心配そうに見上げた。東宮は何もおっしゃらず、ぽんぽん、と頭を撫ぜた。
 少壮 同に遊ぶ、寧ぞ数うる有らん
 尊栄 再び会うに便ち縁無し
 東宮の飲み込んだ次の対句が秋冷のように背に忍び寄る。

 公務執行の息抜きに弓場へ現れた尚侍は、的の真芯を射抜いた滝口殿に拍手を送った。文筥を抱えての、あからさまに寄り道スタイルである。滝口殿は狩衣を上半身脱いでおられるという男性的ないでたちで、流れる汗を拭きながら高欄へ寄っていらした。滝口殿と友達になってから、最早常連と化していることもあるのか、誰も尚侍の出現に驚いていない様子である。弓場の人々は女性がうろついているという些事などどうでもよいのか、寄ってもこないし話しかけてもこないので、尚侍としてはまことに心安らぐ空間なのであった。
「相変わらずお見事だねー、滝口殿。差し入れを大量にもらったからおすそわけに来たよ。」
 台盤所から冷えた小瓜を五つばかりもらっていた尚侍は、一つ差し出した。それはありがたい、と早速高欄に腰かけてむしゃぶりつく滝口殿である。並んで冷たいものに舌鼓を打ちながら、尚侍も友人たちの親切を味わった。ちなみに残り三つは兵衛佐とすれちがったので、梨壷と院に恵んだ尚侍である。一つ自分にもらった兵衛佐は汗だくになって宮中を歩いていたので、今の滝口殿と同じくらいありがたがってその場で平らげてしまったのだった。
 この頃はち合わせすることの多い内大臣殿やそのありがたくない連れがいないので、今日の尚侍はそこはかとなく長居していた。滝口殿が是非是非やってみろと弓をお手にとって教えてくださる程度には長居していた。そんなものを女君に教えるものではないのである。物騒である。普通の人なら御簾の中で泡吹いて卒倒である。ちなみに面白がって教えてもらった尚侍であるが、適性は皆無であった。温明殿にセキュリティとして据えつけるのは断念しよう、などと、左近少将が聞けば涙目で抗議しそうなことまで考えている。
「尚侍は左近の手先と陰口を叩く者も多いが、右大臣や内大臣の一族とも親しくしているようで、安心したぞ。」
とはまた率直なご感想ではある。手先って何だよ、とぼやいた尚侍だった。
「別に私は派閥とは関係ない留学志願者だしね。気が合えば友達になるだけだよ。掃司の女の子でも梨壷の東宮でも。」
 守備範囲が広すぎるのも考え物である。滝口殿が呻き声を上げられたのは正しいのである。
「春宮は貴方がお気に入りのようだが……?」
「琴仲間。いっやー、本朝に宮以上の弾き手は…っと、これ以上やるとマニアネタはやめてくれって少将がいっつも憤慨するんだよ。ほんとさー、話が通じるのが宮だけなんて本朝の人材不足を憂えるよ。唐に行ったら絶対仲間を探すぞ。うん。」
 瓜を食べ終わるなり妙な決意を固めている尚侍に、滝口殿が、物事はよく考えるものだいかに才媛といえども姫の身である以上無謀な計画はやめるべきである、と常識的な説教を立て続けに食らわせた。
「ただでさえ少ない人材が国外に流出してはいかぬであろうが!」
「用材の主でもいるなら話は別だよ。んな、たかだか一曲琴弾いただけで藤壷に入内しろなんて色ボケのーたりんの棄材の主に仕える必要はない!」
 唖然となさった滝口殿である。唐の政治学などというものを、世間話のついでに姫君たるもの口にしてはならないのである。唐マニアの尚侍にそんなご意見は無駄なのであるが。
「色ボケのーたりん…しかし貴方は帝のお側に上がったことはないであろう?」
「ないよ。周防さんがお使い代行してくれるもん。」
「国母となるのも栄達の道だとは思われないのか?」
「栄達するつもりはないよ。私は琴を抱えて留学したいだけです。人の本性知らないで、誰も彼もよく言うよ。」
 ぶーぶー言っている尚侍である。
「滝口殿みたいなストイシズムを少し朝廷も見習うべきだよね。どいつもこいつも袿を見れば歌だ恋だだもん。いい加減にしろと火鉢をぶん投げたくなるよ。」
「…それはやりすぎだろう。」
「でも事実あのトラップに時々人が引っかかってるんだよ。友達には来るなって釘刺してるから被害者出てないし、どーせ邪な打算で出没した人が床板踏み抜いて滝口殿のお仲間に救出してもらってるに決まってる。」
 ちなみに床板踏み抜いたあとの修繕は関白殿や兵部卿宮がしてくださっている。
 嵯峨で知り合いになった兵部卿宮は、兄宮が多大なる迷惑をかけまくっていることを知ると大変恐縮なさり、何かにつけてご援助を差し伸べてくださるようになったのである。実直なお人柄なのである。雨漏りの修繕という物騒な計画を立てていると兄宮に教えられて呆れ果て、屋根ごと葺き替えてくださったのもこの宮である。完成直後に大雨が降ったので、尚侍の感謝は一方ではなかった。
「し、しかし、尚侍もいつか心を惹かれるお相手が現れるかもしれぬではないか。」
 げー、と顎を出した尚侍だった。
「そんな薔薇色の妄想は持ってないよ。滝口殿レベルで騎射ができるようになると考える程度に非現実的な話だよね。」
 弓術の話をニ三交わしてから、尚侍は温明殿に戻った。周防の君は内裏で油を売っているらしく、簡素というより貧乏な室内は無人である。余計な女房を断固断った結果がこれなのだ。
 下ろさなければ内外筒抜けのため格子を全て下ろし、所々穴が開いている御簾も申し訳程度に下ろして、尚侍はだらしなく仰向けに寝転がった。これでも仕事で疲れているのである。帝から余計な上にへたくそな歌つきで回ってくる仕事は増える、軽佻浮薄な公達にはあちこちで遭遇して恋歌を詠みかけられる、あちこちを回る案件は増えるという始末である。事実、梨壷に行く回数が毎日から隔日に減っており、そのせいで東宮の機嫌はこの頃連日低気圧なのだ。
 尚侍にしても、お菓子はおいしいし、好きなだけ趣味に走れる梨壷で飲みこみのよい東宮に俊蔭の秘曲を伝授するのは楽しいので、下らない事務仕事で時間を取られるのは不本意であった。今まで一の院の御所で無駄に官職に座り続けていた年寄りの前尚侍が全くといいほど仕事を回されていなかったのを知っているだけ、怒りもお得に増量中である。
 唐衣を衣桁に掛け、裳を外して身軽な小袿姿になると、久し振りに胡琴を取り出した。
 適当な小曲を興に任せて弾いていたつもりであるが、すぐに物足りなくなって秘伝の大曲を更にバージョンアップアレンジで弾き始めた。琴でないので気が楽である。少なくとも天変地異は起きないのである。
 見事な物の音に引き寄せられる影がちらほらと見える。手引きの女房はいないので一見侵入して契りを結ぶことなど朝飯前のような温明殿であるが、数人がバリケードの恐ろしさを体験したせいか、相手もそれなりの攻略法を練っているらしく、今日のところは平穏である。
 はずだったのだが、こん、と格子戸に物のぶつかる音がして尚侍は手を止めた。しんとした外の気配に耳を凝らすと、もう一度、こん、と物がぶつかった。どこの誰が悪さをしているのかと格子戸に近付くと、
「真葛。」
と声がする。安心した尚侍は格子戸を開け、月明かりに白く浮かび上がる人影を見つけた。白い菊の直衣で前庭に佇む東宮だった。


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