

「どーしたの、宮。用があったら明日行ったのに。」
簀子まで気軽に出てきた尚侍は、そのまま庭に飛び降りた。髢も外した気軽というより女童寸前のいでたちである。よく見ると何か持っていたらしく、それなりの大きさがある物体を、つい、と差し出された。萩に蛍をあしらった見事な蒔絵の文筥である。萩の襲を着込んだ尚侍とは、偶然の一致ながら見事に似合っている。
この宮が寄越すものは事務仕事などではなく、珍しい草紙や絵巻物、唐渡りの奇本などを気軽に貸してくれるので、尚侍も喜んで受け取った。
「今日も変なのの相手ばっかしててへろへろなんだよ。嬉しいな。宮、ありがとね。」
「…前のあれ、できたから持ってきたんだよ。」
あれ?と記憶を手繰っていた尚侍は、思い当たって歓声を上げた。
「うわー、完結させたんだ!すごいすごい。宮、来たんならついでに弾いてよ!これ譜面でしょ?」
袖を引っ張って誘う尚侍というのはかなり珍しい。音楽馬鹿、ここに極まれりである。東宮がお断りになろう筈もなく、連れられるままに、トラップをよけつつ中へと上がりこんだ。何事にも先達というものはあらまほしきものなりなのである。
簡素というより何もない相変わらずの局に顔をしかめられた東宮ではあるが、塗籠からそれなりに綺麗な敷物がでてきたので少しばかりは安心なさったご様子である。
聞けば、弁殿始め右の近衛府のお友達から色々もらっているのだが、生活必需品以外は塗籠にしまっているとの回答である。何しろ口の軽さと買収しやすさでは定評のある周防の君がいるのである。誰某に頂いた何がしを御愛用などと洩れたが最後、それを縁だと言い立てて誰が侵入してくるか知れたものではないのである。
ちなみに周防の君は尚侍の論理展開に煙にまかれて、院の御所での起居を続けている。朝になると出勤してくるのは、トラップマップを明かしたくない尚侍の深謀遠慮である。そもそも周防の君は崩壊寸前だった温明殿に住むのを嘆き抜いていたので、この提案にあっさり乗ったのであった。院がお許しになったのは、背後事情を尚侍から伝えられているからである。
何はともあれ、危機管理はなされているらしいことに東宮は納得をなさった。これまた貰い物の脇息を出し、さらに貰い物の几帳を立てかけると、灯火だけだった室内がそれなりに人の住居らしくなる。
春の宵の風情を欠くとはいえ、折角局にまで上げてもらって差し向かいなのである。女君にそうしげしげと塗籠と局を往復されては不服の東宮は、少し座るようにとお勧めになった。まあ待つのだ、と愉快そうに再び塗籠に消えた尚侍は、ほとんど唯一といってよい自分の所有物を後生大事に抱えて戻ってきた。座から東宮が腰を浮かせたのは、その腕に抱えられていたのが唐織の濃藍の袋に入った波斯風だったからである。
「おい…それ!」
「是非これで演奏してください!」
ご自分の前に鎮座した琴に、言葉をなくされた東宮である。その前にきちんと座った尚侍は、期待の籠もった眼差しで東宮が袋を開くのを待っていた。
思い切ったように東宮のお手が金色の紐を解き放つ。唐の上等な緞子に堅く封じられていた秘琴が、月の光に照り栄える。一息吸い込んでから東宮は真顔で弦を音高く弾いた。
明るく華やかな霞のように広がる装飾和音の中を単純で朴訥にすら聞こえる主旋律が現れる。技巧を凝らした華やかな対旋律が追いかける。逃げる主旋律は陰影すら伴って華やかさと力強さを増し、絡み合う対旋律は華やかさを残したままいつしか主旋律の装飾ともなって調べに溶け込む。
堅い蕾を破って咲き誇る夏の白い花にも似て。花の香りを際立たせる月夜の輝かしさにも似て。全く別個の二つが一つになったときに、歌が生まれる。
月夜に琴を音高く奏でる男君と、一心にそのお姿を見詰める女君。柔らかく二人を照らすのは秋の気配を漂わせ始めた月明かり。一陣の微風にさざめく草花。
薄葉に書き記されることのない無言の歌が確かに宛先へと届く。
ほうっと溜息をついた尚侍に、東宮が首を振り向けられる。
「今出来の曲の中で最高の出来だよ、宮。もっと書いた方がいいよ、絶対!」
いかに本朝の中枢が再重要な政務としているのがイベントの実行、すなわちお祭り推進委員会であったとしても、そこの次期リーダーと目される方に、全く無関係なことをお勧めするのはいかがなものかと思われる。そーか、と照れながら納得なさるところではないのである。どなたか説教を食らわせた方がよろしいようである。
「宮さ、この曲……。」
「お前にやる。」
つい、と持ってきた文筥を押しやった。意外や、尚侍は手を出さない。
「嬉しいけどさ……。」
文句あるのかこのやろー、といわんばかりの勢いでお睨みになるのはいかがかと思われる。というより明らかによろしくない。文筥を凝視していた尚侍は勢いよく顔を上げた。
「ちゃんと聞かせる人に聞かせてからじゃなきゃ駄目だよ。その人が欲しいって思ったら上げたくなるよ。」
「お前、御前にでも持ってってからにしろってのか?!」
喧嘩を売っていると同義である。ただでさえ一触即発の不穏なる優雅な日常に余計な問題を増やすだけである。右大臣殿は間違いなく眉間に皺を寄せるであろうし、帝は爆発なさるかもしれないし、関白殿の裏稼業が急増するに至っては規定事項である。
ふるふる、と振られた尼削ぎの頭にやや安心なさった。
「宮さ。想いの歌は、ちゃんと届けてあげなきゃいけないよ。」
袖からのぞいた小さな手が、もう一度文筥を押しやろうとし、その手を大きな手が止めた。
「お前にやろうと思って書いたんだから、いいんだよ。大体完成させろっつったのお前だろ。」
ふん、とお笑いになるお姿も寿命の伸びるお美しさである。小さな手から力が抜けたので、そのままもう一度文筥が尚侍へと移動した。押さえ込んだ手をお離しにならない辺り、東宮の面目躍如であられる。柄にもなく俯いている尚侍の白磁の頬にうるさいほどの垂髪が影をつくって、日頃からは想像できない臈たけた人が灯火に照らし出されている。少しだけ髪を払っておやりになる東宮に、ゆっくりと顔を上げた。
文筥の上の手は重なったまま、二つの視線が静かに重なる。
力強く頷かれた東宮に、尚侍が頬を染めた。空いた手で文筥を引き寄せる。
それなりに風情のある光景は、けたたましい破壊音で吹き飛んだ。誰かの罵声が月夜に響く。
「大納言の声じゃねーか……。」
「あの人多分床板踏み抜いたんだよ。ちょっと見てくるね。」
そこはかとなく嬉しげに席を立つ尚侍である。ご自分のはまったトラップに他人も引っかかったという、意地のお悪い喜びで、いそいそと東宮もついていった。悪童二名は塗籠の奥に尚侍ががらくたを手際よく配置している監視所から外を覗いて、建物の裏手にあるトラップにはまって悪態をついている大納言殿のめでたいお姿を見物したのであった。
「まったく…いかにも不法侵入して引っかかりましたってな所の穴にはまってるよ……。」
呆れ果てたといわんばかりの口調である。弾正台に訴えても必ず勝てるぞ、と変な自信まで披露している。
「ふん、当然の報いだろ。」
かけらもご同情なさる気はないらしい。
「裏門なんか不法侵入口って決まってんだから、トラップ置いてないわけがないじゃないか。まあ、正面から訪問されても大納言殿上げる気はないけどさ。」
さらりと言われた台詞に東宮は反応なさった。
「ほかに上げてるのは誰だよ。」
「こんなぼろいトラップ殿舎に来るのなんて周防さんじゃなきゃ宮だけだよ。」
が答えであった。よーしよし、と尼削ぎの頭を撫でて悦に入っておられるらしい東宮である。
放っておけばどうせお供の下人が回収して行くので、二人とも大納言殿を見捨ててさっさと昼の御座に戻った。そして夜の白むまで、色々と物語りなどをしていたようである。さすがに深夜エンドレスで合奏を始めては近所迷惑極まりないという理性は働いたらしい。
唐のこと、俊蔭のこと、宮中のこと、院のこと、蹴鞠のこと、宇治のこと、昔のこと、今のこと。
尽きぬ話題に名残を惜しむかのように、不承不承腰を上げた東宮を、顔半分口にしてあくびをしながら尚侍が戸口まで見送った。
「…楽しかった。」
「うん、私も楽しかったよ。盛り上がったよねー。」
眠い目をこすりながら、にこにこと笑っている。無事に庭へと下りた東宮は向き直って問いかけた。
「また書いたら受け取ってくれるか?」
尚侍が不意を突かれた。
「それって、今度はオーダーで作ってくれるってこと?」
「…ばーか。あれはそもそもお前をイメージして作った曲だよ。」
見るからにうろたえた尚侍という珍しいものを見ながら、東宮は内心で密かに快哉を叫んだ。少なくとも尚侍は自分に無関心というわけではなさそうである。
「まっ、まままさか、でも、嘘だ…だって、宮、あれは完全に……。」
恋の歌だよ?!
正解のど真ん中を突いた発言に東宮は華やかな笑い声を上げ、そのお声に尚侍は安心したらしい。ほっとして簀子に座り込み、膝を抱えた。
「たまにはそんなのも貰っておけよ。」
「いや、すごくいい曲だったけど、どう考えても私の柄じゃないよ、あれは。何かテクニックが大暴走してげーじつの世界にトリップしてるよ。」
「でも、気に入ったんだろ?」
「う…うん。」
「また書いたら弾きに来てやるよ。」
「あ、それは嬉しいよ!」
「約束な。」
「うん!」
「あ…それと、俺は今日から前梨壷女御の法要に行くんでしばらくいねーからな。女房達には言ってあるから、不便があったら梨壷は自由に使ってくれ。田舎で曲想でも練ってくるぜ。」
「そか…気をつけてね。」
「ああ。」
名残を惜しむようにもう一度尚侍の瞳を見つめた東宮は、一度身を翻すと二度と振り返りはなさらなかった。色好みの朝帰りとしては失格なほど明るくなった朝、尚侍は菊の直衣が朝霧に溶け込んで見えなくなるまで簀子に立ち尽くした。