

その五日後、嵐山で恐れ多くも帝のご廃位を画策する陰謀が発覚したとして、都は大混乱に陥った。首謀者の名前は関白殿である。
「院は梨壷にお近い。貴方も巻き込まれないために、院の御所へは行かれないようお勧めする。」
と硬い表情でお伝えになった右大臣殿であり、御所のあちこちで見かける侍たちの姿に尚侍は言葉をなくした。
温明殿に閉じこもり、胡琴を手にする。雑念を振り払うべく、まだ完全に弾いたことのない譜面を見ようと文筥を開いた。相当厚い紙屋紙の束である。取り出すと、ことん、と音がした。黒い文筥の底に落ちたのは、小さく引き結んである二藍の薄様だった。楽譜を脇に置き、震える手で引き開ける。
木綿畳 田上山の
気付いたか?
「…今、わかったよ……。」
木綿畳 田上山の さな葛 後も必ず逢はむとそ思ふ
「今、やっとわかったよ、宮……。」
真葛、また書いたら弾きに来てやるからな。
萩に戯れるのは声もなく身を焦がす蛍。その文筥の意匠が、素っ気ない紙屋紙に書き綴られた譜面の表題だったのだと。
はらりと二藍の薄様が赤朽葉の紅色の袿に落ちた。かたかたと震える尚侍は、胡琴も楽譜もそのままに、震える手で文筥の蓋を取り上げて食い入るように見つめた。
滝口の陣から侍たちが出て行く声や具足の物音が聞こえる。検非違使の立ち騒ぐ声が聞こえる。
関白殿に追捕の宣旨が下ったと誰かが叫んだ。
尚侍は立ち上がる。楽譜を文筥に納め、塗籠の唐櫃に入れてから、身を翻しかけ、立ち止まって薄様を元通りに畳んだ。小さな結び文を胸に、尚侍は裳と唐衣を着け、檜扇を翳して温明殿の外に出る。向かった先は梨壷だ。
衛士たちが棒を持って行く手を阻む。公の追求にも似て仮借なく照りつける夏日の烈しさに一歩も引くまいと尚侍は檜扇を音を立てて閉じ、突きつけた。
「内侍司長官、従三位尚侍、本朝の至宝たる名琴南風を保護するべく参上仕る!楽律の事は帝より清原俊蔭の血を引く私に一任されています。道をお開け下さい。」
じろり、と黒い瞳で一座を睥睨する。音もなく衛士達が左右に割れて道を作り拝礼する中を、尚侍は堂々と梨壷へ進入した。中で禁足状態だった女房達が、知った顔の登場にはらはらと涙をこぼす。
「琴譜の類は尚侍が責任を持ってお預かりしますので、南風共々お引渡しを。全てをまとめて、皆さん温明殿へついて来てください。」
主を失って散りぢりかと、今後の不安にかられていた女房たちが綻るように尚侍を見つめた。
だいじょーぶだよ。
うん、と頷いてみせ、衛士たちにもにっこりと笑ってみて、尚侍は畳みかけるように事実無根の大ぼらを吹いた。
「本朝の楽律文芸発展発達のために不肖をご任命あそばされたとか。であるからして、そちらの方面でかなりの技量をお持ちの梨壷のみなさまでご協力頂ける方は、責任を持って内侍司賢所に移動して頂きます。責任は全て私に。」
だいじょーぶだよ。私が、守るからね。
だから無事に帰ってきて、作曲を持ってきてね。
やりたくないってのを無理矢理任命したんだ、このくらいの横車は通すぞ絶対!という物騒極まりない決意を固め、尚侍の号令一下梨壷のめぼしい財産は整然と賢所に平行移動した。突然わいて出るなりの手際のよい始末に衛士たちも呆気に取られて大移動を見ていた。何しろ振りかざすのが『帝の御威光』という物騒極まりない代物である。そのまま御前に乗り込まれて反逆罪などと通報されれば最後である。
尚侍が院の御所で築いていた下級女房ネットワークはここでも威力を発揮した。つまり下級女房は下級官人の恋人を持っているので、この層に尚侍の人格は周知徹底されているのである。
気が良く親身になってくれるが道理に沿わないことには徹底的にシビアな音楽馬鹿で侮れない高位の誰彼に好意を寄せられている。おまけに御前で几帳から飛び出して諌言を食らわせたというエピソードが一気に広まってもいるのだ。帝が無関心を決めこんだとしても、尚侍の歓心を買うべく権門の貴族の方々が代理戦争に走る可能性も相当高く、実は帝の御不興よりもこちらの方が恐ろしい。生活に密着したリストラの恐怖である。尚侍の友人である自分の妻や恋人に絶縁される危険も孕むとあって、利口な人々は尚侍に異を唱えなかったのであった。
かくして梨壷の物品持ち逃げという事態は回避され、美術品の散逸を防ぐため目下消息不明の東宮所有の芸術関連物品は内侍所が責任を持って保管すると自ら御前にまで乗りこんだ尚侍に、政務で超多忙のニ大臣は全権を委任したのである。
緊急事態に救援を要請した掃司の女房たちが総出で清掃作業をした結果、整然と片付いた賢所に梨壷つきの女房たちがきちんと調度を納める。掃司部隊を梨壷にやったのは、尚侍に諦観があったからだ。
東宮は梨壷へは帰れない。反逆罪で起訴されかけている関白殿の後見を受けていた東宮は、現れたところでよくて廃位が待っている。最悪の場合遠流すらありうる。
数日かけて作業を完了した女房たちにお礼をし、小宴を設けた尚侍は途中で席を抜け出した。片付きすぎて近寄り難ささえ感じさせる賢所に、灯もつけずに立ちつくす。
関白殿も少将も侍従殿も行方不明だ。頭中将は参内停止になって自宅軟禁である。
掌に爪が食いこんだ。
「絶対、助けるから。まだ免許皆伝じゃありません。」
暗闇に呟いた。
酷暑の名残の夜に、ふわりと一つ蛍が舞った。