

さて、特訓の成果というものは披露しなければ何の意味もない。もっと言ってしまえば勝負に勝たずば意味がない。
かくして、左近衛、右近衛、双方が無駄に張り切っている近衛府の蹴鞠大会が開幕した。帝が御招待になり、院も御所へとお行きになる。万事仰々しいことをなさらない院ではあるが、お車や随身の装束などは奥ゆかしく見識というものを感じさせるたたずまいであられる。さすがは当代一の趣味人と目される院であられる。
だが人々の注目は、この度院と共に御前へお上がりになっているという御養女の君に注がれていて、誰も彼も芸術性など頭からすっとばしていたのであった。まことにもったいないことだと思われる。更に、その御養女の君こと故宇治の帥宮の姫こと我等が内侍の君は、この一団からとうにエスケープしていたというのだから穏やかではない。
これにいち早くお気づきになったのは、帝の仰せを蹴る者がいるなどと考えるほど想像力が豊かではない主上では当然なく、それなりに親しくなった東宮である。院までが、女房の中に紛れこんでいるだろうと高を括っておられる有様のようなので、御自分では動けない宮は乳母子の兵衛佐に捜索を命じられたのだった。
…ったく、あれほど見に来いっつったのに!!
これでは自分の活躍を見てもらいたいという、お年頃の男の子そのものである。もっとも『男の子』と申し上げるには支障のありすぎる過去の悪行を重ねておられる宮ではある。賀宴に顔を出すのかもしれないが、肝心な所を見ていないのでは話にならないではないか。ごもっともである。
とはいえ人間、物事の優先順位が誰しも同じわけではないのだ。別段含むところがあったわけではない内侍の君が脱走してどこにいたのかというと、いつものように校書殿で唐の歴史を読みあさっていたのだった。蹴鞠大会に興味がないこともないし、友人達を応援してやろうと思わないわけでもないのだが、何しろギャラリーの多さが半端ではない。ただでさえ公達の熱狂的なファンがごろごろしている上に、桐壷の方だの宣耀殿の方だのが睨みを利かせているのである。たかが俊蔭と六条院と琴と唐について熱く語り合うだけの東宮との関係を大きく勘違いして御所に顔を出すたび痛くもない腹を探られ、大層迷惑しているのである。おまけに愚痴れば、すかさず院が関白殿を勧めてくるという始末なので手に負えない。これでも下手な事実をぶちまけると院における関白殿の御評判を永久に葬りさる危険があるので、本人なりに自粛しているのである。かくして御所の平和と自分の安楽という妥協点を探った結果、内侍の君はいつも通りの場所にいたのだった。
兵衛佐も心得たもので、院の御所で発見できないとなるとすぐにこちらへ走ってきた。梨壷でよく顔を合わせる−通常であれば当然高貴な宮とお付き合いのある(?)高貴な姫(??)の顔を見られるはずがないのだが、内侍というのは公職であるからして当然人目に触れざるをえないがゆえの効能である−兵衛佐のことは内侍の君もよく知っており、若いながらあの天上天下唯我独尊の東宮をよくよくフォローしている実直な、或いは苦労性の性格を高く評価していたのだった。
紫宸殿の前庭にすぐさま参るようにとの東宮からの御伝言をお伝えした兵衛佐は、露骨に難色を示した内侍の君に大きな体を縮めた。『世説新語』をぱたんと閉じた内侍の君は、
「あんだけギャラリーがいて何が不足なんだ、あの人は!」
と憤慨したのである。その上、脱走すると腹を決めれば半端なことはしない主義なので、小袿姿のカジュアルスタイルなのだ。帝もいらっしゃる御前にどう逆立ちしても参上できる状態ではない。
「いえ…数が問題ではなくて……。」
「ヒマつぶしに胡琴を弾けっていうわけ?!御所で余計なトラブルを招きたくないから弾かないんだって釘差したじゃないかっ!それでなくても関白殿みたいに頭の煮えてる人がわくってのに、迂闊なことをしたら唐に留学する前に再び頭のいかれた物好きが変なちょっかいかけてくるじゃないか!やだ、断固拒否。」
誰でも知ってはいるが決して口に出さない御代の常識をずけずけと口にして、内侍の君は胡座をかいて腕を組み、座り込み体勢を固めた。しゅん、と小さくなる兵衛佐である。このまま帰せば間違いなく東宮の罵詈雑言の嵐が待ち構えているのをよく知る内侍の君は、いささか憐憫の情におそわれた。
「災難だねー…あのわがままほーだいの宮と乳母子になんかなっちゃったせいでさ……。」
出世にはかなりおいしいポジションなのだが、そんなこと内侍の君の前では無意味である。ぷるぷると兵衛佐が首を振る。散々東宮の被害にあっているのだが、彼は彼なりに(あの)宮を好いているらしいので、内侍の君は我欲の少ないこの人を可愛がっているのだった。
「あの…宮はとっても…待っていらっしゃいます。」
即座に、堪え性ないもんね、とやっつけられてしまった。兵衛佐としては全く違うことを匂わせたかったのであるが、源氏の君や薫大将のお話よりも、唐の戦のお話が大好きな内侍の君にそれを悟れというのが土台無茶な注文である。困ってしまって沈黙していると、帰り辛いと思われたらしい。兵衛佐が哀れになった内侍の君は、何とか双方に迷惑をかけず穏便にすます妥協案はないかと思案を始め。
「佐殿、水干ってすぐ調達できる?」
とんでもない結論を導き出したものらしい。
どうやら兵衛佐は発言の不穏な中身には気付かなかったらしく、頷いて、ついてきてくださいと請け合った。
一方、紫宸殿の前庭では、熱さを煽るような競技が続行中である。分けたつもりもないのに左方、右方に別れてそれぞれに熱い声援が飛び交っている。院は弟子が多くおいでになるので内心では左のお味方であられるのだが、どちらかに肩入れなさると公の向きにまで面白からざる憶測を立てる方々もおられるので、表立っては声援を送られない。
対照的なのは女御や更衣方に属する女房達である。女主が声張り上げて御声援できない恨みとばかりに上げる金切り声ときたら、蝉の物音に数倍する騒々しさである。あまり熱狂して御簾内で気絶する方まで出る始末である。庭で走り回るにはあまりに重い御身分もあり、加えて雄姿を見せたい人も不在なので仕方なく院や帝と御座所から見物しておられる東宮は、あれのどこが気品だよ、と内心鼻で笑い飛ばしておられたのだった。御代の飾りとなる若い公達相手に興奮するのは人情なので、東宮の御見解は少々思い上がったものと思われる。
左右共に実力伯仲した試合展開である。さすがは勢いのある左大臣殿のお身内、と誰かが声を上げれば、すかさず、まるで右大臣殿のように手堅い試合をなさる、と畳みかける声がある。御座所には左右の大臣も陪席を許されておられるのだが、お二人ともお天気という無難極まりないお話しかなさらないのは、迂闊なことを言うと一触即発の危険があるからに他ならない。相変わらず冗談口を叩いておられる関白殿をお眺めになりながら、今日は晴れているというだけのことで半刻も場を持たせているのに少しばかり感心している東宮だった。
退屈そうにしていた東宮が、突然前庭を振り向いた。晴れて暑いと女房達が薄着になるから目の保養、などとどうでもよいお話をなさっていた関白殿が、
「どないしはったの、坊。」
と呼び戻す。別に、とお答えになりながらも、関白殿の話に戻る気はなさそうな東宮に、試合の局面が変わったのかと身を乗り出されたのは恐れ多くも勿体なくも主上であらせられた。丁度侍従殿が華麗な月面宙返りを披露なさって左方を湧かせている。今日の中将は何をしているのだと、いささかきつい御下問があった。右の大臣はにっこりお笑いになってお答えとなさる。院は帝と東宮を交互にお眺めになる。弁も精彩を欠いている、と脇息を一つお打ちになった帝は全く場の雰囲気が読めておられない、天衣無縫な御様子であられるのだが、一番爆発しかねない危険物の宮は意外なことに、じっと前庭に目を凝らして何かを探しておられた。
行けっ侍従殿、そこで空中ニ回転半だっ!
懐かしさをお覚えになるその声をこの騒音の中から聞き分けられたのであるから、かなり優秀なお耳をお持ちのようである。御簾内から溢れ出している五ツ衣の数々の方角から声がしたわけではないので、聴覚を信じて探していると、鞠人達から少し離れた所で兵衛佐がやたらと近くの前栽を気にしているのが見つかった。兵衛佐の方でも東宮にどうお伝えしたものかと苦心していたようである。まさか、と少しばかり緩む口元を押さえようとしていらした宮は、次の瞬間思わず立ち上がった。
「坊?」
「ちょっと行ってくる!」
あわや冠を御簾にぶつけて落としかねない東宮に、それほど危機的な試合展開ではないはずだと、密かに顔を見合わせた関白殿と院である。もっとも右大臣殿は、宮が何か吹き込みに行ったのではないかと渋面を作った。
東宮ともあろう重いお方が(この際宮のパーソナリティは無視である)前庭に飛び降りてダッシュなさるというのも大層異例な事態であるのだが、宮は更なる異常事態に気を取られていて、御自分の行動の過激さを都合よく失念しておられるのだった。というのは、葉菖蒲の水干もきりりとした内侍の君が殿上童姿で日頃と寸分違わず、楽しく観戦しているからなのだった。
「少将、へたってるぞー!」
目下やり返す余裕のない左近少将は飛んできた鞠をようやくクリアし、恨めしそうに内侍の君を見た。そして内侍の君のみならず東宮の姿までも発見し、ついよろめいてしまったのだった。心配そうにしている舎弟こと弾正宮がお気遣いになる。まことに麗しい友情である。
左近少将が指差したのが早かったのか、声を掛けられたのが早かったのか。
「おい!」
「うお!何でこんなところに宮がいるんだ?!」
もっともな疑問である。
「お前こそ何でそんな格好してるんだよ!」
「来いって言ったのそっちじゃないか…佐殿怒鳴ったんでしょ。かわいそーに。」
「んなの、お前が最初からマトモに院と来てればすむ話じゃねーか!」
「それがやだからエスケープしたんでしょーがっ!あんなにギャラリーを抱えて何が不満なんだっ、このわがまま公子!」
ついに唐語まで飛び出した。声援そっちのけで喧嘩を始めた人達に、蹴鞠の選手達の方が気を取られてしまった。
「あれもメンバーなのですか?」
「ううん、違うよー。仲良しだから見に来ただけー。」
「来たってより、拉致ったんだろ、あの様子じゃ……。」
「少将、ちゃんと球見ろよっ!」
「あいつどこの家の子なの?殿上で見たことないよ、俺。」
「……。」
「どーしてそこで全員黙るんだ?!」
「わけありですか。」
「ないないないない。」
「少将、墓穴掘ってるよー。」
「掘ってると思うなら少しはフォローするなり口を出すなりしろよっ、頭中!」
事実、左近少将の所に飛んでくる鞠をちゃんと処理してフォローしているのは弾正宮である。ただし初心者でいらっしゃるので、蹴った先は天のみぞ知るというのがまことにお気の毒である。一応人のいるところに落とせてはいるのだが、脳天直撃寸前といったコースをたどったりもするので油断がならない。東宮が正気であればどれだけ怒鳴り声を浴びているのやらである。もっとも、『あの』東宮がわざわざ飛び出してきて相手をしている、見慣れない『殿上童』というものに右の方々の好奇心もそそられたらしく、危機的な状況に陥っていないのが救いである。
「そもそもその格好は何なんだよ!どーしてお前はまっとうに俺の招待に応じるって簡単なことができねーんだ!!」
「私は宮廷生活に不必要なトラブルを呼び込みたくないだけだっ!これが一番穏便じゃないか。佐殿の親戚の童ってことで無理矢理通すつもりだし、どなたにも角が立たずに済むし、宮の言うとおりに一応顔出したんだからこの辺で妥協しようよ。」
「出せばすむってもんじゃねーだろーよ、お前……。」
何が不満だ!とばかりに開き直る内侍の君である。頭を抱えてしゃがみこんだ東宮に、ついどなたの目も集中したのは無理からぬことだった。そして元凶の『殿上童』に視線が移るのも当然の成り行きである。
あの小奇麗な童はどなただろうという人々の中で、宮と同じく頭を抱えたい院と関白殿でいらしたのだった。
坊が飛び出したわけや……。
一応御自分の許婚と擬されている内侍の君の非常識極まりない行動に、さしもの関白殿も絶句である。いくら髢が着脱可能だからといえ、このような方法で使うのは如何なものかと思われる。
しかし他の方々の思惑など知ったことではない内侍の君は、折角来たのだからと友人たちを熱心に応援し始めたのだった。
「少将、へたってるなら代われ!」
東宮の凛としたお声に、思わずどよめきが上がる。騒ぎを大きくしやがった、とよろめきながら、最早なるようになれと投げやりな少将がふらふらと前栽の方へと戻ってきた。御簾内大混乱、黄色い悲鳴があちこちで上がっている。院は本格的に頭を抱えたくなるのをかろうじて抑えられた。一方、薄く笑って挑発的な一瞥を右大臣殿にくれた関白殿である。こちらは少し開き直られたものと見える。
「おーおー、我慢できなくなったかー。宮、あんまし怒鳴っちゃ駄目だよー!てきとーに頑張れ!」
いつもこうなのだろうと勝手に推測して声援を飛ばす内侍の君に、東宮は莞爾とお笑いになる。それがまるで御簾内に微笑みかけたように見えたもので、勢い左方というよりも東宮個人への声援が前庭を埋め尽くした。
「俺、知らねーぞ……。」
座り込んでいる左近少将が呟いた。
「ん?どしたのさ。」
「今右大臣刺激してどーすんだよ、あの馬鹿。」
「右大臣殿は蹴鞠嫌いなの?」
「そーじゃなくて、ただでさえ地味な帝がこれ以上霞んだら困るのあいつだろ。」
さすがは東宮!何でもおできになる万能の天才!まことにもって御世の華!
声援の全てをごっそり持ってお行きになった宮の華やかなお姿を、内侍の君はじっと見据えた。
「…六条院は、須磨にお行きになったんだよね。」
「…そーだな。」
「自分のことだってのに、どーして宮にはわかんないんだ?」
「わかってるから、院の御所でしか蹴らないんだろ。あいつが羽伸ばしてるのなんて、院の御所だけだぜ。右大臣としちゃ関白を蹴落としたいだろうし、関白が蹴られちゃあいつは即東宮を廃されるしよ。なんつーか、隙見せちゃならねーらしいぞ。」
ばきばきと肩を鳴らしながら教えてくれる筒井筒に、しばし絶句した内侍の君だった。
「あーあ、関白がまた後始末させられて大変だぞ。」
「…そーだね。」
ぽーん、と高く鞠が上がる。