弦楽小夜曲

夏日之段


 結局、宮の飛び入り乱入というだけではすまなかった。
 何しろ、御自分の右に出る奴はいないと平素から豪語しておられる東宮である。それが事実だと見せつけて差し上げたい方が臨席ということになれば、出さなくてもよい実力まで発揮なさったわけで、そうなると当然ながら場の均衡というものは無駄になって、一気に左方有利となったわけである。となれば、常日頃冷静な右大臣殿まで我慢の限界を越えたらしく、前庭へと飛び出したのだった。それどころか、御簾内では恐れ多くももったいなくも帝まで参加するとお暴れになったらしく、自分も混じって遊ぼうかと思っていらした関白殿と院で何とか押さえつけることになったらしい。
 結果的に左の勝ちで祝宴が始まったわけであるが、内侍の君は解放してもらえなかった。もらえなかったがために、関白殿の愚痴を聞くことにもなったのである。
「ったく、そーゆーわけで俺は坊の後始末なんやで。本来は逆やろ、な?!」
「う、うん、そーだね……。」
「ほんまにあいつは自分の身分ってもんを理解しとるんかいな。あー頭痛いわ。」
 今回に限りごもっともな関白殿の御言い分にひたすら相槌を打っている内侍の君だった。その隣で御酒をたしなまれている東宮は、
「うるせーぞ。そもそもこいつをここに引き出してきてやったのが誰か忘れたわけじゃねーだろな。」
と釘をお刺しになった。
 何しろ水干で跳ね回っていた内侍の君である。試合が終わるなり、東宮が兵衛佐にお言いつけになって梨壷に強制連行し、見違えるような姫に仕立て上げて御所に戻ってこさせたのであった。梨壷の女房達は内侍の君のことはよく知っている。加えて東宮のお心も薄々気付いているというわけで、髪から衣装から化粧から、最高度に気合を入れた格好で再登場した内侍の君に、一同は感嘆の溜息をついたのであった。衣装と格闘させられて体力を消耗した内侍の君は普段よりおっとりと振舞わざるをえず、そうなると見事な橘の襲ともあいまって、育ちのよい姫という雰囲気を醸し出していたのである。見慣れている東宮が息を飲んだくらいであるから、他の方々は推して知るべしであろう。辛口の右大臣殿にまで、さすがは院の養女の君だけはあるお美しさ、と誉め言葉を言わせたのである。もっとも、言われた本人が御冗談でしょう、と笑いながらやっつけて、何の関係もないはずの東宮が鼻を高くしているのも妙といえば妙なのであった。
 大体美しさなんてものは顔を見ないとわからないのに、大抵は権門の姫=深窓の令嬢=金持ちだが顔は誰も見たことがなきに等しいお育ちであれば『お美しい』と話題になる現状に、所詮美貌とは財産のことだなぞという自説を展開する内侍の君に院は頭をお抱えになったわけであるのだが、同席の方々はそうだそうだと勢いづいてしまわれた。何しろ、日頃から美人の噂と現実のギャップに散々な思いをさせられた経験のある方々である。それでまた、内侍の君が調子に乗って、故事まで気軽に引いてきて軽口というか毒舌を叩くものだから、その『教養』の深さに一同感心してしまったわけである。もっとも、内侍の君が相当なまでの書痴でもあると知っている院と東宮はノーコメントを決めこんだのだった。
 始まりは文でも次は顔を見なければ進展しようがないなどということを、司馬相如駆け落ち事件まで引き合いに出して弁証しようとする内侍の君を院が阻止できなかったのは他でもない。一番興を覚えておられたのが恐れ多くももったいなくも主上であられたからなのであった。御簾内の影が、うんうん、と身を入れて頷いているのをご覧になった院は、心配で胸もつぶれそうであられた。主上は実務に詳しい貴族を好んでお近付けになるのである。ただでさえ姫君としてはない方がよい知識とノウハウの宝庫である内侍の君がお気に入られては、良縁どころか、このまま宮仕えに一生没頭してもおかしくはない。亡き旧友帥宮に顔向けが出来ないではないかと院がご案じなさるのは当然なのである。
 院やその場におられた上達部の皆様はその場に相応しく、というより蹴鞠の勝敗にこだわると一触即発になるので、中立地帯であられる院の姫君のお美しさを讃える歌を粗製乱造なさったわけなのだが、作曲のインスピレーションを与えそうなものが一つもなかったので内侍の君は右から左に聞き流してしまった。なのでここでも省略する。
 几帳の陰でおとなしくしていると思えば、扇で隠しつつ、顔半分を口にして大あくびしている内侍の君が見えた東宮は、その人らしいとうっすらお笑いになった。見つかったと気がついた内侍の君が苦笑する。面白くないのは関白殿であるが、内侍の君の氏素性について根掘り葉掘り聞きたがる帝と右大臣殿にそつなく受け答えをなさる院の援護射撃もしなければならないので、下手な口出しもおできにはならないのである。
 あの坊、いっぺん締めたる。
 物騒な御決意をお固めになったようである。
 宇治の帥宮の忘れ形見で音楽に堪能という能書きから、帝と右大臣殿は何かと優雅なものを連想なさったらしい。期待の眼差しで几帳をご覧になりながら、院が琴でもお命じにならないものかと考えておいでである。院としては折角の機会なので、その気もない様子であくびを連発している内侍の君に何とか演奏させたいのであるが、この君に強制しては脱兎の如く脱走させるだけに終わるので、タイミングを見計らっておられる。
 内侍の君のあくびを止める方法を知っているのは、お一人であった。
「大層でない琴を一つお貸し願えませんか。」
 東宮の声に、即座に振り向いた内侍の君である。お前に弾けとは言ってない!と言いたげな他の方々を黙殺し、東宮は几帳へと声をお掛けになった。
「琴の音が正しく響くか否か、御判定頂きたい。」
 不敵な表情で頷いた内侍の君の表情が院から見えなかったのは不幸中の幸いであった。お陰で、一座の方々は揃って、東宮がいいところをお目に掛けようと張り切っている、とだけ結論したのである。東宮にしてみれば、俺様の本領発揮してやる、たまには誉めろ!というところであり、内侍の君にしてみれば、お手並み拝見、練習サボったせいでレベル落ちしてたら即行宇治にバカンスに行ってやる、という変な気合のこもったものだったのであるが。
 引き出した和音は胡笳十八拍。
 どうせ東宮のアクロバットがまた始まる、という上達部の方々は、わかったような気のない会話を交わしておられたのであるが、内侍の君は脇息に肘をついて、身を乗り出すように聞いていた。しばらく聞いて、宮のいつものお手と全く違う調子であることにお気づきになった院がそちらを覗ってみると、真剣な眼差しで東宮のお手元を凝視している養女の君という珍しいものを発見なさったのである。普段飄々と公達をあしらっている内侍の君が、ここまで真剣な表情を人に向けることは滅多にない。おまけに愛弟子の東宮御本人までも、手遊びどころか真剣勝負でお弾きになっているのである。その結果は。
 夏空に燦然と輝く星の河にも似た、華麗にして哀切な琴の調べが流れ出る。
 内侍の君は、くい、と口の端を引き上げて、脇息で拍子を取っていた。
 院の脳裏に、左近少将と同じ危惧が電光石火で過ぎったのはこの時である。多才でありながら素行不良の公達で有名な東宮なので、まさか内侍の君が転ぶことはあるまいと安心しておられたのであるが、考えてみればどちらもどちらの音楽狂二人である。そもそも唐に留学するしないから付き合いの始まった二人である。接点といえば琴の伝授である。影響し合って深みにはまったついでに、恋の淵にまで突っ込んでもおかしくはないのである。もっとも目下の内侍の君の表情は、全く恋とは無縁なのであるが。
 愛弟子が満更でもなさそうな顔をしているところがすさまじく引っかかる院であられた。関白殿であれば人臣の身、数ある通い所の一つに納まればそこそこに静かな暮らしが待っているが、まかり間違って東宮の後宮にでも上がることになれば即政争の渦中に飛び込むようなものである。それだけはやめさせようと、養女の君のために密かに決意なさった院であられるが、お陰で内侍の君が周防の君に何か耳打ちしていたのを聞き逃してしまわれた。そして、そそくさと周防の君が消えたのに気付いたのは関白殿だけであった。
 東宮の曲など聞いておられない帝や右大臣殿や関白殿は、なけなしの音楽の素養と感受性を総動員して知ったような楽論を展開したわけである。そして几帳の中から応答がないのをいい事に、すっかり内侍の君が感心して聞き惚れているものだと思っていたのだから、顔が見えないというのは多大なメリットをもたらすものである。院の位置からは最早東宮の琴しか眼中にない内侍の君が丸見えなのだ。密かに、上達部のいい加減極まりない楽論を内侍の君が聞いていなくてよかったとお思いになった院である。聞いたが最後、どんなこき下ろし方をするか知れたものではないのだ。しかし、戻ってきた周防の君を見た途端、上達部に対するお気遣いなど吹っ飛んだ。周防の君が抱えてきた包みを受け取った内侍の君が上覆いをさっと取るや、愛用の胡琴が姿を現したのである。
 タイミングも何もあったものではない。弾く気になったのはまことにめでたいのだが、東宮と合奏というのは大層よろしくない。合奏というのは恋の糸口にすればいいのであって、マニア街道まっしぐらのために弾くものではないのである。
 という院のお心など知ったものかと、内侍の君は物も言わずに弓を動かした。胡琴の音に、ちらと几帳の内をご覧になった東宮は、さっと主旋律を内侍の君に譲った。朗々と歌う胡琴の調べは、或いは東宮の琴すらも圧して艶やかに鳴り響く。余計なお喋りをしていた方々は、呆気に取られて几帳を見つめた。ざまあみろ、と何故か嬉しそうなのは東宮で、院は養女の君の信じられない暴走に固まっておられる。簀子の辺りで食べたり飲んだりしながら楽しんでいた左近少将は、始まった…とばかりにめげていた。
「暗いよー、少将。もっと飲むー?」
「それより、あの浮かれきって暴走してる宮を誰か止めろ!俺には無理だ!!」
「俺だって無理だもーん。」
「あ、俺もパスね。」
 無責任な頭中将と侍従殿である。弾正宮に至っては、また怒鳴られるのではないかと縮まっておられる有様であられる。
「あいつはどこ行ったー、兵部卿は!兵部卿呼んで来いっ、あの仏頂面の弟宮しか止められる奴はいない!」
 床を叩いて苦悩する左近少将であった。
 仏頂面の弟宮、と呼ばれた兵部卿宮ではあられるが、別段不機嫌をまき散らして歩いておられるわけではない。何かと華々しい兄東宮に呆れ果てておしまいなのか、単に愛想が全くないだけである。その代わり常識はしっかりとお持ちなので、派閥争いにも巻き込まれず淡々と過ごしておられるのだが、これでも一応左近の方々とは淡白な御交際があるのだった。
「兵部卿宮は一の院に呼ばれてあちらへ参ったそうですよ。」
 弾正宮の一言は結構なとどめで、そのまま床につぶれてしまった左近少将だった。かわらけを手になさった頭中将が、
「いいじゃん、宮が珍しくマトモに張り切ってるなんて。見守ってあげようよ。」
とのんびりのたまった。
「これのどこがマトモなんだよ……。」
「少なくとも関白と恋人の数争いしているよりマトモじゃない?」
 マトモの規準が地に落ちている。そんなものに更に被害者を巻きこんでお前は楽しいのか、と御友人を吊るしてしまった少将である。しかし中将のコメントは、
「んー、内侍の君は大丈夫だと思うよー。だって宮より強いもん。」
だった。
「そりゃー変さではいい勝負だけど、宮の方が腕力権力財力において強いだろ。実際問題。」
「でも宮には好きになった弱みがあるからねー。」
 さらっと爆弾発言をして、絶句した御友人たちを後目にかまぼこなどつついてみる頭中将であった。ますます華やかになる合奏の調べを、詳しいことはわからないけれども楽しくていいなあなどとのどかに聞いておられるのは一種の才能かもしれない。
 とはいえそのような感想を持ったのは頭中将一人ではなく、日頃から東宮の琴は聞き慣れている殿上人や女房も、今宵のお手はいつにもたち勝って素晴らしい、しみじみと心に染みる風情であることよと袖を濡らしていたのである。楽しさの中にも切なさが漂うのは胡笳という曲の性質でもあろう。心に染みる懐かしさが琴の音であるならば、肺腑をえぐるかとも思われる物狂おしさや激しさを奏でる胡琴の音はさながら誰かの独白か。
 音が消えてもしばらくは静寂が続いた。虫の音にふと我に返った誰かの絶賛の声で、皆が我を取り戻したのである。
 古い世では物の音の素晴らしさに雷が落ちたり泉が湧いたりしたそうであるが、この度の演奏も決して引けを取りはすまいと皆が語り合ったものである。そして更にグレードアップした東宮のお手はさることながら、それに一歩も譲らず、更に優れた胡琴を見事に弾きこなした院の養女の君に注目は集まったのだった。しかし、どれだけ注目されようと内侍の君は内侍の君である。不必要に目立ちたくないという自説の通り、院が御所にお帰りになるのに従って、帝が引き止めるのにも一切耳を貸さずにさっさと引き取ってしまったのだった。
 しかし賽は投げられた。内侍の君は十分以上に目立ってしまっていたのである。



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