弦楽小夜曲

夏日之段


「誰さ、それ。」
 昨日くらい気合を入れて弾きなよ、と相変わらず俊蔭秘伝の曲伝授にいそしんでいる内侍の君は、きょとんとして東宮を眺めた。
「だからお前に決まってっだろ。唐の珍しい楽器を素晴らしく弾きこなす院御鐘愛のお美しい姫なんだとよ。」
 面白そうにおっしゃるお姿は、ついこの間までなまこか水揚げされた魚かというだらけ方をしていた方とも思われない。みんなどこに目をつけて歩いてるんだ、と逆につぶれたのは内侍の君である。
「参議以上の連中の間では相当話題になってるぜ、お前。」
「それって全然嬉しくないよ…ヒマな色好みグループのひまつぶしにされたってさ。私は清く正しく琴を極めて留学できればいいんだよ……。」
 こんなところで琴なんか絶対弾かないぞ、と妙な決意を固める内侍の君であった。絶対国外に出すもんか、とこれまた妙な決意を固めておられる東宮である。自分がさぼればそれだけ免許皆伝になるのは遅れるわけで、その間に何とかこの君を翻意させてやろうというのが計画のあらましというわけである。
「そういえば、お前って胡琴は弾くけど琴は弾かねーよな。教えるときにさわりを弾くくらいで。」
 さわりだけでも十分自分より才能があると完敗を認めておられるので習っておられるわけなのだが、それとは別にこの君のお手というのを一人で堪能したいというお気持ちがないわけではないのだ。うーむ、と腕を組んだ内侍の君は、
「宮なら弾いてあげてもいいけどさ。過去に宇治で騒動を起こしたことがあるから迂闊に弾きたくないんだよ。」
と真相の一端に触れた。
「…変な地下人でも寄ってきたんじゃねーだろーな……。」
「そんな方向にしか動かないのか、宮の頭は……。」
 呆れられているとはいえ、東宮にとっては死活問題なのである。とはいえ、色好みの公達の心境などに感情移入してやるつもりはさらさらない内侍の君なので、さっさと話題を変えた。
「どっちかといえば逆なんだよ。夏なのに雹は降ってくるわ雷は落ちるわ池の魚が全部飛び出すわで大騒ぎ。やたらと鳥は飛んでくるし、裏山の動物も庭に集結しちゃうし、里の人達が怪奇事件だ、元凶は帥宮邸だってーんで、しばらく寄りついてくれなかったんだよ。お陰で父宮に禁止令出されてさ。まあ別に琴だけ弾いてるわけじゃないから、琴はどーでもいい楽器で隠れて弾いてるかな。胡琴だったらトラブルが起きないから重宝してるんだよ。」
 困った困った、と呑気に呟いている内侍の君であるが、東宮は目をみはってお聞きになっている。
「だからかよ。お前が俊蔭の再来なんて言われ方をしてるのは。」
「俊蔭卿はそんな物騒な事件起こしてないよ。やったのは尚侍と仲忠卿であって、本人じゃない。私だってご近所にトラブルを呼ぶのは嫌だよ。だから唐に行けば、深山幽谷の中に鐘子期みたいな知音がいて、好き勝手弾いても大丈夫そうだし留学したいんだよ。あ、別に片道切符でも構わ……。」
「んなの却下に決まってっだろ!!!」
 目を据えてどえらい剣幕で一喝なさった東宮は、ついつい脇息をひっくり返して立ち上がっておしまいになられた。内侍の君が怯んだのは言うまでもない。
「な、何でそんな勢いで却下されなきゃなんないのさ……。理不尽だよ……。」
 かなりに引きつった表情で抗議され、東宮もはっとお気づきになったらしい。なけなしの理性をかき集めて説得に当たられた。
「お前国費留学しといて行ったきりってのは論外だろ。帰って来て修業の成果をちゃんと本朝に残せよな!」
 まことにごもっともなおっしゃりようであった。
「だからって、そんなにぼこぼこ怒鳴ることないじゃないか……。」
 この反論ももっともである。
「大体まだ俺様に教えきってもいねーくせに留学なんて百年早い!」
「そっ、それは内侍さんのせいじゃなくて、天分があるのにさぼりまくる宮のせいなんじゃ……。」
「とにかくだ!俊蔭の全曲をマスターさせるまでは絶対唐になんか行けねーと覚悟しやがれ!」
 マスターしたらしたで別な小細工をしようと決意している東宮である。そんな暇があるのならもっとましな方向に頭をお使いになったほうがよいように思われる。
 というのは、やはりというか先の蹴鞠大会の一件が右の御一族を大層刺激してしまったからなのである。ただでさえ華やかな才子として名の通っておられる東宮が、見せつけてやるとばかりに有り余る才能を御披露なさったのだ。無責任な都雀が、早く帝が御位をお譲りにならないかな、などとミーハーゆえの暴走をし、恐ろしいことにそれが第三身分から胥吏賎吏のあたりに波及しそこから下層貴族に飛び火して受領階級に燃え移り中産階級で燃え広がってから殿上人に火の粉が降りかかったら公卿層は目前である。その辺りになると娘を入内させて一発逆転外戚の座を狙うこともできるクラスなので、野望のあまり東宮に投資して帝を引きずり下ろす一派を形成してもおかしくないのだ。事実、今の帝の下で不遇な方々は先日の東宮の英姿に、これぞ次代の希望を託すべきお方と勝手な認識を抱いて妙な動きを始めたのであった。希望という語句の使い方が間違っている。希望と野望は別物である。
 目下の東宮になんか入内したなら最後という予感もなされるのであるが。何しろ宮ときたら何かにつけて内侍の君である。本人は素晴らしい琴仲間が出来たと喜んでおり、東宮もそう思わせているのだが、事実の証するところは全く別だということは周囲の目に明らか過ぎるのであった。
 左近少将の意見。あんなすれきった奴に目をつけられちゃ、書物馬鹿音楽馬鹿の内侍があんまりにも気の毒だ。
 頭中将の意見。宮が楽しそうにしてんならいーんじゃないのー。
 院の御意見。梨壷と縁が出来て、有望な公達との良縁を拾ってくるのなら大歓迎なのだが、宮は駄目だ。宮だけは駄目だ。あまりにも頼りにならなさ過ぎる。桐壷の東宮女御のように万年ヒステリーという状態に姫を置いてなるものか。
 関白左大臣殿の御意見。大体あの姫さんは俺が院にお許しを頂いたもんやろーが!何をあの阿呆、自分のもんみたいに独占しくさって。あいつがちゃっちゃと桐壷に皇子の一人や二人生ませておれば俺もつまみ食いくらいは寛大に見るけど、義務も果たしとらんのに人の女に手え出そうなんて誰が許すかい!
 まともな意見もまともでないものもごちゃごちゃと混じっているのだが、これが目下の朝廷の様子でもあるのである。
 あの素晴らしい唐の楽器をお弾きになったのは、雅な院の御育てになった大層優雅で賢い姫であられる=その姫は内侍として宮仕えをなさっているのだが育ちの良さから内裏でお見かけすることは稀である=是非にお目にかかってみたい、という間違った興味が増幅されているのである。ご存知のように、内侍の君が内裏の偉い人々に用がない限り近付かないのは不必要なトラブルを招かないためであるし、髪の毛もあのように自慢できない有様だからである。なので今日も内裏には命婦を送り込み、自分は比較的暇な午前中を糸所の友達のところで過ごそうかと目論んでいたのだった。
「内侍の君。」
 知らない声に呼び止められる。初秋の趣を漂わせる朝顔の装いで振り返る内侍の君は、たおやかというより清々しさとか凛々しさというものを感じさせる。貰った襲一式着たきりという日常に呆れ果て、何故か内侍の君改造計画に着手した東宮のお陰である。梨壷に行くたび、何かと着せ替えたり押し付けたりする東宮のせいで、等比数列式に衣装持ちになりつつある内侍の君なのだ。
 涼しげな縹の直衣の…全く知らない公達であった。にーっこり笑ってはおられるのであるが、裏面の存在を感じさせるきな臭さに、内侍の君は極めて事務的に何の用かと尋ねたのであった。それも、誰に何をお伝えするのかを簡潔かつ的確に聞くというスピーディーさである。歌どころではない。まずこれは会話というものではないのである。
「君は…この間帝の御前で見事な楽を奏した方だよね?」
と公達氏が確認したのは正しい。もっとも演奏の素晴らしさと常識の有無に相関関係はない。
「そうです。」
 が、だから何か?という不穏な後半を呑みこむ程度が内侍の君の常識である。内心に至っては、ヒマな物好きに捕まってしまって災難だ、である。まことに人の心中とは奥深いものなのである。その上にじろじろ見られているとなったら、強いて顔を隠したりやたらに恥かしがったりすることはないとはいえ、はなはだ不愉快であった。用がないなら消えてやる、とこれまた不穏な決意を固めたところに、知った顔というわけではないが、顔と名前は取りあえず一致する右大臣殿が現れた。
「大納言殿がこのようなところで女房と語らっておられるのは珍しい。」
 食えない笑いが増殖したぞ、とかなり失敬な感想を持った内侍の君である。御用が右大臣殿なら自分はいなくてもいいのだろうと勝手に結論付け、ではこれで、と踵を返したのだから大納言殿が慌てたのは言うまでもない。そもそも用がある人は早く所用を申し付けるのであって、妙な興味を持った色好みの暇つぶしに協力してやる義理はさらさらない内侍の君なのだ。
「待って。まだ何も……。」
「御用がおありなら承りますが。ないなら行きます。これでも忙しいので。」
 ちなみに糸所に転げ込むに当たっては、ちゃんと来シーズンの院の御衣装打ち合わせという立派な理由があるのだった。
「その割に梨壷には日参なさっているみたいだね。」
 刺のあるおっしゃりように内侍の君はうんざりである。そんなことあんたと何の関係があると口には出さなかったのだが、しっかり態度に出しているので右大臣殿が苦笑なさった。そちらへ軽く肩をすくめる。
「貴方は梨壷とはお親しいのか?」
 ごくまともな右大臣殿に、これまた当たり障りのない答えをする内侍の君。
「はい。宮が楽部の持ってる楽譜を写したのを見せて貰いに行ってます。」
 肝心なところが抜け落ちているのだが、右大臣殿は納得なさり、
「もしかして貴方があの日の院の君であられるか?」
と当てておしまいになった。右大臣殿にしてみては、玲瓏の姫君にばかり接しておられるので、内侍の君がまさか院の御養女だとは思われなかったようである。几帳の効能と申すべきであろう。
 あーはい、そーですが、と気のない返事をした内侍の君は、知らない上にヒマそうな人たちに捕まって災難だなどと、女御方や女房達に知られたなら目を剥かれそうなことばかり考えているのだが、意外なところから救援が差し伸べられた。のんびりと下人を従えて歩いておられる関白殿である。
「関白殿ー、お仕事中?」
 右大臣殿がいる以上朝議でないことは確実なので、高欄から身を乗り出して手など振ってみた。先方も笑顔で手を振り返してくれる。
「えらいのと一緒におるなー。お仕事か?」
「いや、違うみたいなんだけど、えと…大臣でなく、こっちの知らない人が用件に入ってくれないので無駄に足止め食らってるんだよ。」
 どうやら大納言殿の顔と名前はまだ一致していないようである。憮然とした大納言殿に、ざまあみろとばかりな笑顔をお向けになる関白殿であった。大納言だ、と右大臣殿が教えてくれたのだが、気のないお礼をしているところからすると覚える気自体がなさそうである。
「今日は坊のところに行かへんの?」
「昼から行こうかと思って、午前中にいろんな野暮用をやっつけるべく働いてたんだよ。あ、そだ。これから糸所に行くつもりだったんだけど、あそこの上総さんと佐渡さんに伝言あったらついでに持ってくよ。」
 藪をつついて蛇を出す。恐るべし、内侍の君の女房ネットワークであった。面白そうな公達お二人に対し、げっそりした体の関白殿は。
「やから、もうあの二人とは切れとるんやって…適当によろしく言っといてーな。」
「いい加減だなあ……。」
「そりゃー今は内侍ちゃん一筋やからね。」
 はっとして公達二人は内侍の君をご覧になったわけである。今度げっそりしたのは内侍の君であった。
「無駄な抵抗はやめようよ…院にも無駄な望みは捨ててくれって何度も釘刺してんだからさー……。」
 院のお名前が出た時点で、これは爆弾発言である。しかし爆弾発言が日常化していると感覚が麻痺して、普通の規準が落ちて行くのである。関白殿と内侍の君が正しく該当している。
「なー、行状改めてるやろー。そろそろ院のお望みを果たしてくれる気になったら嬉しいんやけどなあ。」
「悪いけど目下例の件以外眼中にない。ごめんね。」
「あんのマニアめ…なんちゅーことを吹き込んでくれたんや……。」
「吹き込んだんじゃないよ、宮仕えする前から、そもそもの野望だったんだよ。で、関白殿から逃げてたときにかくかくしかじかと直訴したら、一口乗ってくれるというわけでさー。ありがたいありがたい。」
「まさか坊にほだされたなんて言わんよな?」
 部外者お二人も興味津々である。からからと笑い飛ばした内侍の君を万が一東宮がご覧になっていれば、ご機嫌斜めは必至であると思われる。
「言わない言わない。宮なんて関白殿以上に日頃の行い悪いじゃないか。あれは愉快な音楽仲間であって、それ以外の何だというんだ。」
「ならええけど。そしたら、いい加減仲良しの俺ともっと仲良くなったってええやんか。」
「んなこと言ってたら六位蔵人君だの少将だの、片端から結婚しなきゃなんなくなるじゃないか。自分が何人いても足りないよ。それ。駄目、断固却下。真葛さんは清く正しく芸の道に精進します。」
「んな…あんたは姫さんやろーが。姫の幸せちゅーもんも少し考えちゃどーや……。」
「あれだけ周りの被害報告聞かされて今更何を。やはりここは楽の道に精進することが私の天命だと心底感じるよ、うん。」
 『院の姫君』というものに対する無益な幻想をがらがらと崩しながら、内侍の君はさりげなく階を降りた。そしていかにも自然に関白殿の近くまで移動したのだった。トーンダウンした声で。
「関白殿、ヒマ?」
「ヒマちゅーほどやないけど、内侍ちゃんに付き合う時間ならあるで。」
「あの二人がどうも不穏でさ…糸所に行く途中まで付き合ってくれたら嬉しいんだけど。」
「途中なんてしみったれたこと言わんといて。内侍ちゃんの顔立てて糸所まで行ったるわ。俺もちょっと真面目に話しときたいことがあるし、ええ機会やろ。心配せんでも、院のお話のことやないで。」
「そんなら一口乗るよ。」
 珍しくビジネスライクな口調の関白殿に、内侍の君も納得したらしい。じゃーね、と右大臣殿に手を振ってから、関白殿と並んで歩き始めたのだった。その後姿を見送る羽目になった大納言殿は、頭痛寸前である。
「あれが…院の君?」
「何とも…先日の才長けた方とも思えなかったが…しかし左大臣と打ち解けているということはあの君に違いあるまい。関白は先日もあの調子で物を言っていたからな。」
「関白とあの君をお近づけになったのは、君も院だと思う?」
「ほぼ間違いなく。」
 蝙蝠を懐からお出しになった右大臣殿は、口元を隠すと、くくっとお笑いになった。
「なるほど、院は左の贔屓であられたか。しかし主上の御意向は、院とてもお見過ごしになさることは出来まいな。」
「主上に何がおできになると?君ならいざ知らず。」
「正確な推論だ、大納言。」
「ま、僕としては梨壷に一泡吹かせてやればいいんだよ。内大臣も止めはすまいさ。」
「左の家が勢力を持つのは内大臣にとっても面白くはあるまい。」
「君は関白になりたい、僕は梨壷が嫌い、内大臣は均衡を崩したくない。院の君を僕が通い所に加えてしまえば、さすがの院も梨壷に差し上げることも関白の北の方にすることも無理だろう。いいところで関白の通い所の一つってとこかな。」
「相変らず冷たいな。」
「君に言われたくはないよ、右大臣。さて、じゃあ歌でも届けるとするかな。」
「せいぜい頑張ることだな。」
 悠然と梅壷の方角に向かった大納言殿をしばし見送った右大臣殿は、出てきたばかりの清涼殿に引き返した。
 好き勝手し放題の左右の大臣に、唯一歯止めをかけられる内大臣殿に出てこられては迷惑極まりないのである。何としてでも帝に上奏して物事を一気に片付けたい右大臣殿なのであった。
 内侍の君でなくとも、迷惑な思考法である。



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