

昼日中から関白殿が糸所などに顔を出すなど椿事である。そもそも内侍の君が気軽に出入りしていること自体おかしいのだが、変なことにみんなが慣れてしまうと、それは普通に昇格してしまうのが不安定な世の習いである。
上総さんと佐渡さんからは泣いて感謝された内侍の君であるが、本人は二年近くも御無沙汰していた人たちに如才なく接しておられる関白殿の話術を感心して聞いていたのだった。はったりもあそこまで行けば一種の芸術である。
院の御料や命婦達の秋衣装の配分や染めや仕立てについて実務レベルの交渉をしてから、帰ると一声かけると関白殿も立ち上がった。ちなみに双方が関白殿を通わせていた時期があると知った上総さんと佐渡さんが、恋人と友達が消えた後に掴み合いを仕出かしたのは余談である。
渡殿を通って院に帰りながら、関白殿は御用件を切り出した。
「内侍ちゃんな。坊と仲良くなるのは構へんけど、通わせるのは絶対にやめてくれへんか。」
一見突拍子もない御提案に、立ち止まりかけた内侍の君であったが、歩き続けるように関白殿が促した。
「ええか。俺のするのは『大したことない話』やからな。あんまり大仰に驚かれたら困るで。」
「わ…わかったけど…真面目な話なんだよね…宮の素行なんて宮中で知らない人がいないじゃん……。」
「俺は坊の素行に口出す意志はないけど、御位に関わることなら話は別や。梨壷のバックにいるのは俺、ちゅーより死んだ前の左大臣とその貯め込んだ財ちゅーのは知っとるよな。」
これも有名な話である。宮腹の梨壷東宮は後見役がなかったところ、左大臣家の北の方が叔母君に当たられるので有力な後ろ盾を得られたのであった。一の院の梨壷の女御は五の宮と七の宮をお生みになった後早世なさったので、二人の宮は左大臣家で養育なされたようなものである。左大臣家から入内しておられた弘徽殿の女御は女宮を御出産の折にはかなくなってしまわれたので、左大臣殿には北の方の御縁から大層御立派な男宮がお二人も得られたことを喜んでおられたのである。かつての源氏の君もこれほどではなかったであろうと思われる傅きをなさり、結果現在の梨壷東宮がおられるわけである。
というわけで、関白殿とは兄弟同然にお育ちになっている東宮なのだ。
「甘やかされた子は増長するってほんとだね。」
とは容赦ないコメントである。
「一の院は坊と兵部卿を猫可愛がりしておられるからな。前右大臣殿が坊を嫌ったんはもっともやで。中宮所生の三の宮蹴落とすところやったんやから。」
つまり今上であられる。太后は今も一の院の御所にお住みである。蛇足ながら一の宮と二の宮は死んでいる。
「まあ…色々と目立つからねえ…宮は。」
「そ。でもって三の宮が鈍くさいからますますもって一の院の勝手な御贔屓が右大臣家を刺激したわけや。その上三の宮本人がナーバスになったからな。同じ年やし。」
「宮の素行不良は父院譲りか……。四の宮も同じ年なんでしょ。そこから推すに。」
「宮とは呼ばれへんのやけどね。女房に生ませた男御子やから。」
「なんとゆー……。」
「三の宮も馬鹿やないけど、坊がとにかく光源氏の再来だっちゅーほどに何でもこなす奴なのがまずい。とにかく長幼の序と中宮の御身分に物を言わせて右大臣家は三の宮を東宮にしたわけや。けど、うちの狸親父と院で、坊を東宮に立てない限り譲位してやらんちゅー条件を出したもんやから渋々納得して今の状態に落ち着いただけや。妥協の産物以外の何物でもない。前左大臣は何とかして今上を退位させたろーと狙うし、前右大臣は早く梅壷に御子を生ませて坊を葬り去ろうとするし、和やかそーにしながらろくなことしてへんかったで、あいつらは。」
「人に同情なんかする気はないけど、帝も宮もとばっちりを食らってないか?」
「皇子になんか生まれた奴の宿命やろ。御位に就いて栄えるか、でなきゃその周りにすり寄って『それなりの』宮家で過ごすかや。けど『それなり』なんか存在せん。通う女を間違った場合は、特にな。」
にこやかだが、さらりと言い放った関白殿に、内侍の君はうなだれた。
「…色好みの関白殿の台詞とも思えない……。」
「内侍ちゃんは聡明やから、俺も下手な隠し事はせん。特に、あの坊が珍しく気を許した相手や。内侍ちゃんかて、宮家の姫ならわかるやろ。没落した宮っちゅーのがどんだけ哀れなもんかってのをな。」
「父宮は貧しかったかもしれないけど、どこも哀れじゃなかったよ。あの人は好きなだけ音楽をして好きな人に通って、楽しく生きていたからね。むしろ私は宮のほうが哀れに見える。」
「けれど宮は今の境遇から落ちぶれて我慢できるほどのしたたかさはないで。」
「…そだね。」
「坊は帝になるべくして生まれてきたようなもんや。徳はともかく、坊の才能と人望は今上に勝る。俺は必ず、坊を帝に押し上げる。そのためなら、どんなことでもしたるで。…あんたと無理矢理に契りを結ぶことでもな。」
「そんな必要はないよ。私は唐に行く人だから。」
関白殿は足をお止めになった。内侍の君は、笑いを消した真顔の関白殿をしみじみと見つめた。お笑いになっているときよりも、むしろお優しいお人柄に見受けられる。
「桐壷に通って、子を産ませて、左大臣家の後見を盤若にするのは坊の義務や。坊が男皇子さえ上げてしまえば俺は何も言わん。坊の私生活に興味あらへんからな。金倉を背にした桐壷がおらんかったら坊は帝位なんか踏めん。やから俺は坊の首根っこ引きずってでも桐壷に連れて行く、それだけの話や。」
「桐壷の方も可哀想だよ、その言い方……。」
「あんな品のない女、必要でもなかったら誰が宮仕えになんか上げるかい。」
宮中きっての優雅な才媛と評される方に思い切った御発言である。いくら腹違いの兄君とはいえ、言っていいことと悪いことはあるのである。
「お兄さんなんだから関白殿が教えてあげればいいじゃないか。そんな切り捨て方されちゃ桐壷の方だって立つ瀬がないよ。桐壷の方は真面目すぎて、宮とか関白殿みたいな、いい人だけど変わり者に対応できないだけかもしれないじゃない。」
「俺は気が合わないとは言っとらん。品がない、ちゅーたんや。」
ただ静かに。
「中身がない、ちゅーてるんや。あんたに備わっとる天性の気品が、全然ない。女房レベルで噂話をする、教養は詰め込み式、感性はどこかの本の引き写し、気に食わないとヒステリーや。坊には悪いが、あれでもうちの家系では一番ましな代物なんで我慢してもらわなあかんな。」
桐壷の女房達には根も葉もない疑いをかけられて嫌味攻撃を受けているせいもあり、あまりいい感情を持っていない内侍の君でもさすがにあちらへ同情した。関白殿はあまりにもクールである。世の中には暗黙の了解で葬り去ってしまうほうがどなたにも望ましい場合が多々あるのである。尾篭なものには蓋をした方が良いのである。
「関白殿は宮のことがほんとに大事なんだね。」
「俺はキングメーカーになりたいだけや。で、左大臣家が栄えればそれでええ。坊はちょうどええ駒やからな。」
それだけじゃ、ないだろうな。
にっ、といつものようにお笑いになる関白殿を見直した内侍の君である。
「私のことなら心配しなくてもいいよ。どうせ唐に行く人だし婿取りするつもりもないし。私にできることだったら協力するね。」
「なら俺のことお試ししてみんか?」
「…それは慎んでご遠慮いたします。」
「内侍ちゃん、俺の与太話に付き合ってくれたお礼に忠告したる。寝る時には戸締りをしっかりした方がええで。」
意外と言えば意外な関白殿の台詞に、呆れた内侍の君であった。しかし関白殿は、院の御座所に向けてまた歩くよう促しながら、女房も信用するなと付け加えたのである。
「評判の院の君が左と親しくしていて面白くない連中が、腹いせにあんたをスキャンダルに巻きこもうと狙っててもおかしくないやろ。院の御所の命婦達なんてそれでなくとも買収に弱いしな。」
「ありがとう。今まで以上に警戒するよ。」
「俺で力になれることがあったらいつでも利用したらええ。…院からお許しを受けた仲やからね。」
「『大したことない』話なんだよね?そーゆーことは内侍さん、大したことに分類してるからおしまいにしようよ。」
「そーやな。『大したことない』話やから、坊に言うほどのことでもないで。」
「そんなヒマがあったら六条院の琴譜見せてもらうよ。」
院の御所に到着した二人連れは、左近蹴鞠友の会のメンバーが葛饅頭をむさぼり食っている現場に到着したのであった。加えて、来た『ついで』に局に顔を出したらもぬけの空だったのに低気圧を発生させた東宮の御機嫌が一気に台風レベルに達したのは余談である。
あんな奴に気を許すなと、説得力の薄い説教を矢継ぎ早に浴びせられて縮んでいる内侍の君を見ながら、溜息をおつきになる院だった。