

しかし色好みの双璧たるお方が口にされた事実には相当重い意味がある。ましてや関白殿はただの色好みではなく、数々の恋愛遍歴で培った観察を冷静に政略に応用しておられる方である。その物騒極まりない方が警報を出したのであるから、内侍の君も以前の警戒以上のことを仕出かした。塗籠に篭城している程度なら穏やかな方である。校書殿に篭って徹夜で唐の本を読んでいる、左近少将の宿直場所に顔を出してゲームをしている、木の上で寝ている、台盤所で野菜と一緒に寝ている、といった具合である。お陰で局を不意打ちした公達は全員肩すかしを食らって敗退したのだった。
そうなると、難攻不落の院の内侍を何としてでも我がものに!という、意味不明な競争心を煽られるのが男君という生物である。送りつけられる駄作の量が増え続けるに及び、内侍の君は読むことすら放棄した。何をしたのかというと、仲良しの兵衛佐に手伝ってもらい、院の御所の外れで芋など焼いてみたのである。いくら裏が白いからといえ、駄作とはいえ、恋文の裏を再利用するのは恥さらしにも程がある。だからといって芋焼きの焚きつけに使うのも間違った利用法ではあるのだが。
蹴鞠仲間達がうち連れて院の御所にいらしたときには既に芋は焼き上がり、内侍の君と兵衛佐がほくほくとおやつの時間を楽しんでいたのだった。
「悪かねーな。」
とは、初めて焼き芋なる代物を召しあがった東宮のお言葉である。そして次回焼き芋をするなら御自分のところに来た駄作の数々も提供するとおっしゃるあたり、内侍の君と仲良しになっただけのことはおありのようである。
「そりゃー助かるよ。ありがとね。」
変な感謝をするものではない。誰か止めればよいのだが、変さに慣れている方々なので、それは良い案だ、自分のところのごみも提供しようなどと盛り上がる有様なのだった。
院の御所が盛り上がって面白くないのは、当然ながら内裏におられる女御・更衣の方々である。この方々にとって、自分のお住まいがいかに多くの公達を引きつけるのかが繁栄のバロメーターであられるので、人数的には多くなくとも内侍の君一人の声望で御所でも人気の高い方々と交際しているわけなのだから、心中穏やかならざるどころか休火山の地中の如くに何かぐつぐつと煮えたぎっているという物騒な状態である。ましてこのところ東宮の足が渋りがちの桐壷の方や宣耀殿の御方は、にっこりはんなりのスマイルの下で爆発寸前であられる。女房達はあちこちで小爆発を起こしている。
中傷や悪口が度を越せば即辞職で唐行き決行、の内侍の君は平然とあからさまな嫌味や嫌がらせに対応して相変わらず仕事をてきぱきこなしていたのであるが、ここで妙な威力を発揮したのが今まで長年に渡って培われてきた下級女房ネットワークであった。何しろ掃司の女房や台盤所の女房というところにまで友達がいるのである。今まで愚痴を聞いてくれたり、相談事に乗ってくれたり、危機を救ってくれたりしたした盟友を見捨ててなるものか!と嫌がらせ対策に自発的に名乗りを上げたのだった。大貴族に仕えているわけではなく、身分が低いとはいえ公に仕えているので、開き直ればやることは大胆である。
渡殿を汚しておくとか、前後の局で示し合わせて閉じ込めるという、六条院の時代にもあったいやがらせが繰り出されるたび、『清掃強化月間』なるものを発動した掃司の女房達が悪態をつきながら綺麗にしたり、何かと下級女房同士打ち合わせに駆り出される糸所や台盤所の女房達が通路の鍵をチェックして、閉まっていたら開けてやるという状態が続いた。もっとも内侍の君も善意にばかり甘えていたわけではない。何しろ宇治では邸の修繕の差配を振るっていた前科を持つのである。閉じ込められても三次元空間の利点を存分に生かし、木登りしてから枝づたいに小門の屋根に乗り移り、手近な枝を伸ばしている木まで歩いてから、その木を伝って脱出するというアクロバットを仕出かしたことも何度かある。アクロバット中に見つかったこともある。一度は右大臣殿、一度は東宮である。右大臣殿は内侍の君に声をお掛けになってかくなる仕儀に立ち至った理由を悟るや、梯子を持って来て助けてくださったのであった。東宮は非常識にも、受け止めてやるから飛び降りろなどと叫んだもので、内侍の君はいつも付き添いをしている兵衛佐に再び梯子を持って来てもらったのだった。東宮が不本意そうにしていたのは余談である。
そんな行きがかりもあったため、右大臣殿は内裏で会うと見知り越しの挨拶をなさるようになったのだった。その結果たるや。
情報漏洩である。
院の御所におられる君は、かの琴の上手と呼ばれた清原俊蔭の末裔であられ、犬宮の女御の血を受けたかの宇治の帥宮の姫君である。帥宮と刎頚を契られた院が、宮の亡き後大層慈しんで御育てになった姫である。権門の出ではあられないので内侍という立場に甘んじておられるのだが、才芸やお気立て共に申し分のない方で、清々しい美人である。
という情報が主に右近衛府を中心として広がっていることを知った頭中将は絶句した。打ち合わせに同席なさった頭弁殿から聞いたのである。これでは何やら楚々とした几帳の奥でまったり日々を過ごしておられる姫君の描写ではないか。間違ってはいないが、運動不足になると左近蹴鞠友の会のウォーミングアップに時々混ざっている上に、水干姿で現れたり髢を外していたりして飛び回っている上に、回廊を疾走したり唐留学計画を練っている人と同じ人だとは思えない。
「あの日の胡琴はまさに優雅で、唐の楽器がこれほど嫋々と鳴るものかと驚いたのですよ。中将はいつもお聞きになっていらっしゃるそうですが、羨ましいことですね。」
ようやくまともな殿上人を紹介できて書き手としても嬉しいのであるが、弁殿は文官である。蔵人所の武官の元締めは頭中将なのだが、文官の元締めはこの方なのである。飽きると昼寝している中将に比べて、刻苦精励、温順清雅、という四字熟語が大層お似合いになる、まさに官吏の鑑として名をはせておられる公達なのだった。そういえばこの人、何か笛が得意だったよなー、と思いだした頭中将であるが、笛の区別が全然ついていないので追求を諦めた。
「マニアだよ、内侍ちゃんはー。」
こき下ろしているつもりではない。ただ事実を述べているだけである。しかしちょっと怯んだ弁殿である。
「だって宮に付き合って半日エンドレスで弾いてる時あるもん。いーかげんにしろーって少将は逃げ出すし、侍従も気がついたらいなくなってる時あるしさー。俺が一寝入りして起きても、まだやってんだよ。ま、楽しければいーんだけどさー。」
「東宮と御一緒なさる技量というのは、並大抵のものではありませんよ。」
「でも俺、音楽詳しくないしー。弁殿好きだもんねー。」
「あ、あの!中将、お願いがあるのですが!」
意気込んで身を乗り出す弁殿という、珍しいものを見てしまった頭中将が、この右方ではあっても話せるし仕事も手伝ってくれる頼もしいパートナーに親切気を出したのは無理もない。
「なーにー?こないだの供奉の算定代わってくれたからできることならやったげるよー。」
情けは人のためならず。
「お美しい内侍の君のお手を、一度聞かせて頂きたいのです!」
いーよ、梨壷においでよ、と、人の許諾も取らずに勝手にオーケーした頭中将である。
というわけで、二人揃って梨壷に現れたのをご覧になった東宮は、完全に勘違いなさったのだった。
「何だよ、臨時の朝議でも開催か?」
「ううん、遊びに来ただけー。」
頭中将ならまだわかる。が、穏やかかつ生真面目な顔をして立っている弁殿が梨壷に出現するということ自体が東宮の理解を越えていた。
「弁殿が、混ぜて欲しいって言ったから連れてきちゃったー。」
あちこちに散っている琴譜の数々を面白そうに眺めている弁殿に、しばらく納得の行かない東宮である。頭中将の温厚な同僚という程度の知識はお持ちだが、謹厳実直という典型的優等生の弁殿が、才色兼備の花々公子たる東宮と交際するはずがないのだ。何に混ぜるんだ、としばらく考えて。
「この譜は六条院のお手になるものですか。」
と質問されて我に返る。紙屋紙の料紙に丁寧に写された譜を手にして読んでおられる弁殿は、この暑さでも一分の隙もないいでたちであられる。それでいて清々しい雰囲気をお持ちなのであるから、ライフスタイルというのは人を作るものなのであろう。そーだ、と気のない御返事の東宮である。勝手知ったる頭中将は、おやつを物色しているのだが、発見できなかったので女房を呼びつけた。
肝心の頭中将が連れてきた割に友人を放置しているので、仕方なく頭弁殿の質問に答えておられる東宮であるが、意外とこの右系統の公達が音楽に造詣の深いことを知って、それなりに六条院と舞楽の話などをなさって場を持たせられた。頭弁殿はそれなりに知られた笛の名手でもあるので、東宮と会話が成立するのである。ちなみに古馴染みの頭中将は冷えた甘葛が届くなり、そちらを幸せそうにむさぼり食っておられる。音痴は放っておこう、と決めた東宮だった。
折角なので笛を所望なさる東宮に応えて頭弁殿が小曲を一くさり吹く。内侍の君が登場したのは、曲の余韻がようやく消えたかという頃合だった。
拍手の音に方々が振り返ると、御簾を上げている女房の後ろで白の単重姿の内侍の君が手を叩いていた。後ろには胡琴を持ってついて来ている周防の君がいる。こちらはうっとり放心状態であった。
「…あれ、今の宮じゃなかったんだ。」
てっきり東宮しかいないと思いこんでいた内侍の君は、笑って誤魔化せを決め込むことにした。
「宮も吹けるけど大したことないよー。」
余計な突っ込みはしないでほしいものである。遠慮なく笑った内侍の君に、いささかご機嫌斜めの東宮であった。ところが、
「お客さんでお邪魔だったら出直すよ。来たついでに御所に用もあるし。」
と引き返そうとするのである。んなら用は片付けて来い、という東宮はとにかく、慌てたのは頭弁殿である。話が違うとばかりに頭中将をまじまじと見つめる。これに気がついたのが、肝心の中将でなく東宮だったりしたのであるから、何故いきなり弁殿が梨壷に登場したのかまで了解なさってしまった。当然ながら面白くないので、御所の用はとっとと片付けろと内侍の君をけしかける。ほいほい、と消えかけた内侍の君のみならず全員をお固めになったのは、相変らずはた迷惑なマイペースの頭中将だった。
「出直さなくてもいーよー。だって弁殿、内侍ちゃんの胡琴聞きたいって言ったから連れて来たんだもん。」
真っ赤になってわたわたと固まる頭弁殿の当惑も、余計なことをばらしやがったと低気圧を発生させている東宮も意に介さないとは、大変腹の据わったお方であられる。はー…と頭を二三度掻いた内侍の君は、
「そういうことは先に言いなよ、宮。弁殿に失礼するとこだったじゃないか。」
と苦言を呈し、よっこらせ、と申し訳程度に置いてある几帳の脇に陣取ったのであった。
というのは、一応内侍の君は几帳を介して人と応対する身分であるわけなので、レディーに対するエチケット程度は東宮も守るのである。というより、東宮が重んじていない人は梨壷の女房達がその資格もないのになめてかかるということを熟知しておられるので、内侍の君に関してはやたらにマナー遵守の東宮なのだった。お陰で、来るたびに何かと贈りつけていることもあり、梨壷の女房達は内侍の君に相当な敬意を払っている次第である。
しかし礼節は礼節として、内侍の君の顔を見られないのは我慢おできにならない東宮であられる。加えて雑談をしに来ているわけではなく琴を教えに来ている内侍の君なので、手元や腕使いを隠す几帳は邪魔なのだった。というわけで、設置されているだけで使用されていないという始末である。もっとも不意の招かれざる客が来たときに東宮がその奥に押し込んだことは何度かある。関白殿曰く、
『いつから几帳はシェルターになったんや……。』
ということである。
「弁殿は中将の友達なの?」
楽譜をごそごそ出しながら尋ねてみる。
「うん。蔵人所で一緒だもん。」
「あー、そういえばそうか。弁殿、私は宮に用があるんで、聞きたいのあったら今弾きますよ?宮にかかったら時間食うし。」
にこ、と笑いかける内侍の君に、はいっ!とやたら気合を入れたご返事をなさる頭弁殿であった。一方の東宮は覚えていろとばかりに御友人を睨んでおられるのであるが、御本人は甘葛を食べるのに夢中でいらっしゃる。不機嫌に扇で脇息を叩いていらっしゃると、ふ、と柔らかい手が重なった。
「やめなよー、むやみに低気圧発生させるの。脇息に罪はないよ。」
そっと手を押さえた内侍の君に、心拍数が跳ね上がられた東宮であった。男君とは現金な生物である。しかし内侍の君としては脇息がぶたれなければそれでいいので、あっさりと手を放して胡琴の調弦を始めた。名残惜しそうに自分の手をご覧になっておられる東宮であられる。
頭弁殿が何でもいいというので、内侍の君は六条院が須磨で手遊びに作曲なさったという涼しげな曲を弾き始められた。見たことのない海というものの広がりを感じさせる曲ではあるが、時々心に染み入るもののあわれが色濃く滲み出る。頭弁殿は身を入れて真面目に聞いていらっしゃる。そして、曲が終わると息をついた。
「…先日にも勝って見事なお手です。」
「見事っつーより、凄愴じゃねーか。絶海の孤島に放り出されたって風情だぜ。」
「そういう曲だと思うよ、私は。孤立無縁で須磨に行った作曲者なんだし。」
「…んな不吉な曲、弾くんじゃねーよ。」
「宮ってわがままだねー。気にしちゃ駄目だよ、弁殿。いっつもこーだもん。」
梨壷の日常についてあることないこと吹きこんでいる頭中将を後目に、内侍の君は胡琴から弓を放した。
東宮の言うことはもっともだ。どうしてあの膨大な曲数のある六条院の曲の中から、自分はあれを選んだのだろう。
嫌な予感を振り払うように、内侍の君は東宮のレッスンを始めた。それも、とりわけ華やかな大曲を選んで。