弦楽小夜曲

夏日之段


 頭弁殿の口から内侍の君礼讃が繰り出されるのは時を待たなかった。真っ先に被害者になったのは右中将殿である。ついでながら頭中将とは別人である。彼は左中将なのだ。それはどうでもいいのだが、結局東宮のレッスンを全部聴講した上に横笛まで取り出して合奏に加わった頭弁殿は、内侍の君の御所へのお使いまで買って出てくれたのであった。というのは、
『帝に持ってくものがあるんだけど担当の命婦さんがおなかこわしてさ。』
という理由であった。本来なら率先して内侍の君が動くべき場面なのだが、華やかなことが大好きな院の女房達が率先してお使いを買って出てくれるのである。というわけで、極力高貴な方々と関わりたくない内侍の君にとっては渡りに舟なのだった。この方針には東宮もいたく賛同なさった。経験則からして色好みの公達の思考パターンを熟知しておられる東宮は、相当利己的な理由から内侍の君を梨壷以外に上がらせたくないのである。まして頭弁殿が、
『あの日以来、主上がたいそう院の君をお気に召したらしく、何かとお呼びになるのですよ。しかし好き心からのお招きというものは賛成できませんね。』
と、お使いを代わってくれたのである。絶対変な動きはブロックしろと焚きつけた東宮なのだった。仕方ないから時々梨壷に来いと譲歩したのは別の話である。それで主上から院宛の書類がいきなり増えたのかと、うんざりの内侍の君だった。
 かくのごとく梨壷の面子−その大半はご存知『左近蹴鞠友の会』−と気脈を通じた頭弁殿は、内侍の君が横笛を絶賛したという話を親友にしたくてしたくてたまらなかったのであった。そして右中将殿は内侍の君の素晴らしさにではなく、堅物で鳴るご友人が明らかに恋に落ちたのを見て面白がっていたのであった。
「院の君ったらあの子じゃろ。時々文箱抱えてぱたぱた走っとるちっちゃい子。女童みたいな……。」
 割に理性的な評価である。本人が聞いたらすかさず納得するところだ。が、いささか理性を侵食されたとおぼしい頭弁殿は、ご友人を吊るし上げた。
「何ということを!どなたが女童です!あの方が琴を爪弾かれた際の臈たけた気高い面差しをご覧になってもいないのによくもそんな暴言が飛ばせましたね!」
「ちゅーより、ふ、普通そんな簡単に見られんのじゃないんか?」
「ええっ!深窓にお育ちになるべき方だというのにかの帥宮がお隠れになられて本意でもない宮仕えをなさることになっただけです!」
「わ、わかった!わかったから俺を吊るすのはやめんかい!」
 常日頃色事に慣れていない奴が暴走するととんでもないことをしよる、と内心で悪態をついたのはまた別の話である。ふー、と一息ついて扇の柄で頭をかりかりやっている右中将殿は、
「どういう風の吹き回しか知らんけど、院の内侍には主上も興味をお持ちじゃね。右大臣的には、こちらに取り込んで入内させてもいいような話をしとったよ?」
 見る間にめげた弁殿であった。と、背後から。
「それは随分勝手な理屈だね。彼女は大臣の血縁でも何でもない。」
 にーっこりと微笑んでおられる大納言殿である。自分の御文が芋焼きに使われているなどとは夢にも御存知ないこの方、せっせこと内侍の君に洒落た文を送り続けておられるのだった。無論一度も返信は無い。
「なくても宮家の姫に思し召しがあったら、かの藤壷女院の前例もあることじゃし、あの子が内裏に上がってもおかしくはないぜ。」
「あの身分じゃ召人がいいところだけれどもね。」
 袖にされているせいか、いささか険のあるご様子である。夜に『御物語を』しようと局に忍び込んだはいいが、残念でしたー!といわんばかりなあしらわれ方をされつづけているので、それなりに腹が立っておられるらしい。どなたも姫君の生態に関しては常識以外の行動を予測おできにならないようである。今では院でさえ、
『真葛がどこに行ったかある程度類推が利くのは梨壷だけだ。』
という御感想を洩らされるほどの規格外っぷりであった。東宮は最初が最初なだけ、ある程度内侍の君の行動パターンを掴んでおられるのである。しかし夜間の行き先はさすがのこの方にもおわかりにならないのだった。
 そんなものに通うほうがそもそも間違っているのだが、ここまで来ると恋というよりはプライドと意地の勝負である。誰もが出し抜かれた姫と契りを結んだとなれば、色好みの世界では勲章ものなのだ。たとえ束の間であっても戦果は戦果である。
 大納言殿も名家のご一族であられ、風采も大層御立派で博学才穎と呼ばれるお方である。趣味の世界にも造詣が深く、見事な散らし書きをなさるかなの第一人者とのいう手蹟をお持ちであられる。恋文どころかのし書きでも欲しいという女房達も後を絶たないのである。芋を焼くのはもってのほかである。
 その方を袖にしたとか(袖にするほど親しくない)、関白殿との御縁を断ったとか(かなり話が穏やかになっている)、東宮の求婚を断ったとか(そんな事実はまだ発生していない)いう風説が流布しているのだ。内侍の君に関する虚像と実像は天文学的な勢いで乖離するばかりである。
「別に構わんじゃろ。あの子にはいざとなったら宮家の姫っちゅー切り札があるしな。宮家の姫を叙位するのは帝にとっちゃ朝飯前じゃ。そのくらいのことは頭に入れても悪くはないぜ、大納言殿。」
 本人がいたら、即刻唐行きの船に乗せろ!と東宮に乗りこみかねない会話である。まことに人の本当の人となりとは奥深いものなのである。
「その帝の御許に伺候しないのが院の君だったよね。まず、歌からお始めになった方が利口だとお伝えしてくれ。」
 かなり失敬であるが、事実である。一方的に事務仕事で呼びつけられているので、ビジネスライクに代理人を立てられても異論の余地がないのが昨今の帝の御振舞なのであった。もっとも内侍の君に歌など無意味である。何か楽器でも鳴らした方が余程利口なように思われる。
「さて、院はどちらに御養女の君を賜るのか…ちょっと面白いことになってきたね。」
 くくっ、と大納言殿がお笑いになる。
「院も、風流というだけではお逃げになれなくなってきたようだね。」
「そのようなことをおっしゃるものではない。内侍の君をあなた方の駆け引きにお使いになるようでしたら、私は断固として阻止するつもりでいることをお忘れなく。」
 憤然とした頭弁殿は、六位蔵人君から呼ばれたのを機に仕事へ戻って行かれた。右中将殿が、にたり、と笑いながら御親友の後を追う。
「俺はあくまでも弁の味方じゃけん、邪魔したらただですまんことは覚えとけ。」
と捨て台詞を残した。ふっ、と微笑んだ大納言殿はただ一言。
「お手並拝見。」


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