

星祭というのは五節句の一つである。乞巧奠ともいう。もっとストレートにいえば七夕である。
かくして、人々は織物だの裁縫だの詩歌だの書道だのの上達を望み、『星に願いを』という方向に走るのであった。無論イベント好きの宮中がこんなイベントを黙過するはずがなく、大々的に執り行うのである。この際、結婚したあと織姫が織物や裁縫を怠けてサボタージュを決め込んだとか、牽牛は牛飼いであって詩歌管弦に秀でていたわけじゃないとかいう話は無視である。
イベントといえば、この方東宮である。座らせておくだけで一座の花形をさらってしまえるのに、琴の達人とあっては星祭にうってつけのお方である。というわけで、東宮を是非見よう、あわよくばお目に留まろうという女房達が今日も御簾の陰にひしめいているのであった。しかし、御本人の機嫌は夏の熱帯低気圧そのものであられる。原因は、涼しいお顔で帝の命婦と色めいたやり取りをなさっておられる関白殿であった。そう、目下東宮は関白殿に監視され、夜ともなれば桐壷に半ば首根っこを引きずられるようにして強制連行されているのである。
『えーか、お前は内侍ちゃんに余計な手出しをしようと目論む前に桐壷を懐妊させろ!やることもやらんで何が東宮や、阿呆!さっさと義務を果たしてから帝になってしまえば、禅譲しよーが出家しよーが院になろーが上皇になろーが俺は文句をつけん!今は絶対許さんで!』
身も蓋もない文句であるが、結果は手段を正当化するという後世のマキアベッリさんとお仲間になれそうな思考パターンの関白殿である。完膚なきまでに東宮を論破し、めげた御友人をずるずると連日桐壷に引きずっているのであった。ついでに内侍の君の所へ顔を出しているのであるが、夜間はいつも所在不明というわけで、ご自分の忠告のあおりを食らっている節もなくはないのである。それはともかく。
関白殿は今も命婦の君とお戯れになりながら、東宮が暴走しないようしっかり見張っておられるのだった。そしてその関白殿が何か失態を仕出かさないかと盃を片手に虎視眈々狙っておられるのが右大臣殿で、延々と続いている歌の披露に顔半分口にして欠伸をなさっているのが恐れ多くも勿体なくも帝であられる。相も変わらず不穏な御前の様子に院は内心で溜息を吐かれ、ちらりと傍らの几帳をご覧になった。
きりりとした二藍の小袿がアクセントの白い単の襲を涼しげに着こなしておられる御養女の君は、相変らず内職用の本を片手に読書にいそしんでいるのだ。ちなみに衣装は東宮に貰ったままを重ねて着ているだけである。ファッションセンスというものに縁のない内侍の君を見かねたのは院の御所にいる女房達で、ここは自分達の頑張りどころだ!と妙な張り切り方をして着付けに色々な手を加えたのであった。しかし歩くときはしっかり檜扇で顔をカバーし、さっさと几帳にもぐりこむという自己保身に徹している内侍の君の全貌は、本日まだ誰も見ていないのである。院が御所でお褒めになっただけである。そして内侍の君の徹底篭城策が東宮の低気圧に拍車をかけているのもまた事実であった。関白殿や右大臣殿が時々会話に加わらせようと声をお掛けになるのだが、これ以上余計な殿上人と知り合いになりたくない内侍の君は簡潔明快な返答であっさりと読書に舞い戻るのであった。
これは一方的に内侍の君が失礼なだけというわけでもなく、簀子のあたりでは御簾の中に虎視眈々という有様だからである。例の大納言殿や、弁殿とお友達、おなじみ左近鞠友の会メンバーズといった面子のみならず、その他諸々の公達も宴に連なっているので、下手にスポットを浴びたくないと決意しても当然なのである。
というわけで、飽きてきた東宮は、音に聞く内侍の君の琴を聴きたいなどと、一座に火種を放りこんだのであられた。それは良いことだ、是非にお願いしたいという一座の賛同に、きりきりと歯ぎしりしている行儀の悪い内侍の君は、携帯用文房具に真名ばかり並べた見せられないメモを院の御前に突き出したのである。
『断固拒否!』
墨痕鮮やかに書くべき台詞でもないような。院は溜息をおつきになりながら、
「どうも気が進まないようだ…気後れしているのかもしれない。」
とフォローをお入れになる。
『気が進まないんじゃない、嫌なんです!!』
と穏やかでないメモが再び出現しているのに気付くはずもない方々は、御前であるからといって恐縮するほどのことはない(そんな殊勝なことははなからしていない)、ここにいるのは気安い面子ばかりである(中立地帯を確保しなければならない不穏なメンバーのどこが気安いというのだ)、何といっても帝も乗り気であられる(権力に物を言わせては逆効果である)と様々にお説きになったのであった。しゃあしゃあと、是非に観蛍の宴の雅音をもう一度、などという台詞を吐いた東宮に、本気で脇息を投げつけてやろうと決意した内侍の君である。几帳の隙間から覗くと、期待一杯、してやったり、という満足げな端正な顔まで見えたので、内侍の君はぶちきれた。
『琴というなら宮でしょうが!あのやる気ない宮に弾かせろ!』
日頃のレッスンの有様を知らない院は、過激極まりないこの文面にあわや昏倒なされるところであった。日頃、せめてもう少し猫をかぶって穏やかに琴を習い習われしているものとお思いであるからこそ、万が一宮と契りを交わすようなことにでもなればという推論も出てこられるのであるが、これでは宣戦布告も同様である。
「いや…宮ほどの弾き手がいてはやはり……。」
けっ!とおっしゃりたいのは東宮であられる。日頃容赦ない駄目出しをして俊蔭の手を伝授している人に言われたくないものである。説得力が皆無である。
しかし援軍は意外なところからやってきた。
「そこまで絶賛されるものであれば私も聴きたく思うのだが。」
帝の御座所からお声がかかり、内侍の君は顔も知らない帝を吊るしてやろうと決意した。が、どんなにくだらなくとも勅命である。手抜きだ、手抜きしてやると決意も固くしていると、几帳の下から差し入れられたのはなんと三千年だった。
「がたがた言わずに弾けよ。オリジナルなら大歓迎だぜ?」
几帳の向こうから小声で囁く声がある。内侍の君も小声で食って掛かった。
「おーぼーえーてーろー、みーやー……。これが済んだら宇治にエスケープ……。」
「上手く弾いたら嵯峨の別荘でバカンスさせてやる。」
一本釣りである。見事釣られた内侍の君は、ほんとか、と弾む声になった。どさくさに紛れて、几帳の下から琴と一緒に差し込まれた手が自分の手を握りしめていることに気付いていない。まことに集中のなせる業と申すべきであろう。
「手抜きするなよ。」
したらバカンス取り消しだ、と脅迫しているはずなのだが、蜂蜜でも垂れているのかというほど甘い声では無意味である。もっともバカンスの期待に燃える内侍の君に甘い声など効果なしである。よっしゃー!と気合を入れたついでに勢いで東宮の手を振り払い(ついでに本人は振り払ったことに気付いていない)、そそくさと三千年を引き寄せた。
何か密談をしていることはわかってもその内容まではお聞き取れにならなかった院は、俄然やる気を出した養女の君が琴を手にするのを見て唖然となさった。恐るべし東宮効果である。関白殿は露骨に東宮をお睨みになった。
が。
人の話は肝に銘じておくものである。
華やかな饗宴で舞いを共に。以前東宮が装飾をかけまくりながら波斯風で弾いた曲を弾き出した内侍の君である。華やかでいながら、東宮にはない清艶の気すら漂わせる超・超絶技巧に一座はうっとりと聴き惚れていたのだが。
最初にお気がつかれたのは院である。何だか外が明るいぞとお思いになり、篝火でも誰かが増やしたのかと、内侍の君にぴったりついている周防の君に外を見てくるようお申しつけになられたのである。が。
うっとり聞き入っている。いや完全にトランスしている。ぴくりとも動きやしないのである。はっとして院が一座を見渡されると、東宮曰く『音痴の集団』までが一様に聞き入っているのである。最早おしゃべりや雑音が一切聞こえない。誰もが微動だにしないのである。
す、と二藍の直衣も涼しげな東宮が、やおら立ち上がるなり御簾をお掲げになった。常に倍して晧晧と輝き渡る晴れた月と、心なしか増えている気もする星の輝きに院は絶句なさった。外をご覧になっている東宮も立ち尽くしておられる。
過去に宇治で『怪奇事件』を引き起こしたという内侍の君の話を思い出した東宮は、珠玉という言葉で括れない、規格外の天上の調べに度肝を抜かれて立ち尽くした。上手いな、と聴いていたのは初めだけである。造詣が深いだけはあり、その規格外っぷりを早くに看破なさった宮は、まさかと思って初めから外の様子に注意しておられたのであった。
気がつけば簀子の人々も、御簾内の后妃女房も、しんと静まり返っている。空へ明るく清らかに立ち上る琴の音色に誘われるように池や遣水の水面が輝きを増したかと思うと、金銀の鱗をきらめかせて魚達が舞い踊り、飛びはねる。
これこそが、天上の舞踏への勧誘。
東宮は毒気を抜かれて、顔の見えない几帳の奥をじっと見詰めた。
−だから弾かないんだよ。
その一言が、華やかな音色の中に声もなく降り注ぐ。
−だから唐に行かないと知音がないんだよ。
目を閉じれば、琴を抱えて唐天竺にまでも行きかねない内侍の君の姿が浮かび上がる。
「…んなこと、ねーだろ……。」
無意識に流れ出た述懐は力強い音色にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。院ですらお心を御養女の君の琴に持って行かれた現在、ある意味正気なのは東宮だけである。
華やかな和音で曲が終わってからも、衣ずれの音一つしなかった。なので心配になったのは内侍の君である。本人は、バカンスだバカンスだ嬉しーな、という喜びの赴くままに好き放題弾いていただけなのである。せめて何とか誰か言ってくれ、と、ぽこ、と几帳の隙間から顔を覗かせたのであった。そして、じっと自分を見詰めている東宮とばっちり目が合ったのである。
何故か相当うろたえておられる東宮に、宮、と呼びかけると、金縛りのとけた反動か、今度はすっ飛んできた。
「顔出すんじゃねえっ!おーまーえーはー、不用意に誰かに食われてーのかっ!」
「あがが、だっていきなり静まり返ってるんだもん…何かまずいことしたか?」
「…逆だよ。」
ご自分が半身几帳に入り込んでひそひそ話をしている宮は、何故か得意の絶頂であった。よーしよし、と頭を乱暴に撫でているので、内侍の君は苦笑気味に保証されたバカンスへの期待を募らせている。
「魚が踊って跳ねてたぜ。」
「げ…やったのか……。」
「やってた。俺も初めてあんなのは見た。」
「嬉しくない……。」
うわー、と頭を抱えた拍子に、動いた袖が弦を弾いた。そこで鳴った調子外れの音が人々の夢を覚まし、ついでながら真正面でご自分の許嫁と目される姫の几帳に上半身突っ込んでお語らいになっている東宮の背中を見た関白殿の逆鱗まで刺激したらしい。ものすごい勢いで立ち上がった関白殿は、東宮の御衣をむんずとひっ掴むと、電光石火で引きずり出したのである。かくして右大臣殿や院が我をお取り戻しになったときには、低気圧の東宮の隣でにこやかな関白殿が座っておられる図をご覧になることとなったのだった。まことにポーカーフェイスの効用といえよう。
嵐のように襲いかかる絶賛と、御簾の外でますます盛り上がりまくる宴に、脱力気味の内侍の君である。これなら東宮に、よーしよし、と撫でられている方が余程和む。
と思った時に、何か妙だな、と微かな違和感を感じたのだが、気に留めている暇はなかった。
感動は程々がよいのである。
「院、これほどの素晴らしい方を後宮へ上げては頂けませんか。」
帝の御座所から聞こえる綸言に愕然としたのは内侍の君だけではない。
「いや、姫はもう既に……。」
「悪いんですが、俺とお話が出来てますのや。」
見事な師弟コンビネーションであった。東宮もあえて突っ込まず、異議を唱えかけた内侍の君を目で制止なさったのであった。こちらも息の合った師弟コンビネーションである。色々思うところもおありの右大臣殿も、
「君王たる者、無理強いはよくない。」
とお言葉を挟まれた。うう、と御座所から呻き声が洩れた。何が、うーだよ、と悪態が几帳から洩れているので、院ははらはらとなさっておられる。お優しいお方なのである。
「しかし後宮に才媛があってこそ、一国の栄えとも申すもの。」
国事にすり変えやがったな、と歯ぎしりしたのは東宮ではない。内侍の君である。
「しかし、姫はそのような……。」
「私も院の君のような方に皇子を生んで頂きたいものだ。」
「じょ……。」
冗談じゃねえ!と爆発寸前の東宮であられたが、几帳の中は爆発した。がたん!と派手な音と共に脇息をひっくり返した内侍の君は、憤然と几帳の中から姿を現したのである。
「軽々な叙爵は名君のなさるべきことにあらず!ましてこれだけの賢臣の抗議をお聞き流しになさるおつもりですか!」
御簾内が、本日再び静まり返った。
群鶏の一鶴、雲を払って現れた十五夜の月。