それを『A boy meets a girl』と呼ぶ人はいなかったけれど。


ふああああ。
顔半分を口にして欠伸をしていると、口の中へはらりと桜の花弁が舞い込んだ。ぱくん、と口を閉じた裳唐衣の娘は、しばらく花弁を舌先で転がしてから飲み込んだらしい。そのまま反り返って、万朶の桜を仰ぎ見た。今が盛りの桜の花は、そろそろ絶頂を過ぎてほろほろと散り始めている。清涼殿や周辺の殿舎では連日連夜の夜会が開かれており、興味深い催しも多々行われているようだが、院の御所の奥にまでは管絃も高歌放吟の声も届かない。
かなり以前に退位なさった院は管絃の道に造詣が深く、その方面で朝廷に重きをなしておられた。それも相俟ってか、外れとはいえこのようにして御所の一角に院の御所を構えておられるのだが、花見のような突発的かつ心安い内々の交わりからは遠ざかるのも致し方ないところであった。帝であった頃入内なさっていた方々とも疎遠になられ、今はお一人の暮らしを続けておられるのである。召人になろうと思い上がった女房たちも一人去り二人去りして、今ではほんの僅かな古参女房がお仕えしている限りなのであった。
しかし院の許を訪なう者は少なくなかった。お年のせいか物々しさを感じるといえ、院は管絃にも蹴鞠にも通じた粋人であられたから、昼間お教えを乞いに来る者は多かったのである。朝廷にも院の弟子は多くいて、院は相変らず存在感のおありになる方であられたのだった。
院の御所にしては珍しい若い娘は、膝の上に開いていた『漢書』を閉じた。文章生であっても怖気を振るって逃げ出す者も多い真名だらけの本を読んでいれば、春の陽気と相俟って眠気を催すのも当然である。本を脇に置くと、桜に立てかけていた胡琴をさりげなく手にし、弓を構えた。
流れるような弓の運びに誘われて、外国のもののあわれを知る調べが流れ出る。
その調べに誘われるかのようにして。
−胡琴?−
院の御所へ向かっていた公達が一人、足を止めた。廊を急ぐ足取りも早く、音の出所を見極めようと急ぐ。着慣れた指貫袴の衣ずれの音が人気のない回廊に響く。
妙な手を弾いている。ただ流麗というには力がありすぎる上に、このような技巧を凝らす曲を聞いたことがない。数限りない行事や宴席に出席し、それなりの楽識を自負している公達は、単純に当惑していた。
誰が弾いている?院のお手ではない。
答えは桜の木の下に。
「…って、ダッシュで逃げるか、普通!」
憤懣やるかたない、という体で脇息殴りつけて怒っているのだから、相当腹に据えかねたのであろう。公達とは堪え性のないものなのであった。げらげらと遠慮なく笑っておられるのは、年の頃は同じほど、関白を拝命しておられる若君なのであった。
「本気で嫌がられたなあ。ま、これも日頃の行いが悪いんやから、諦めとき。」
同情のかけらもないおっしゃりようである。公達は目を据えてご友人をお睨みになったわけであるが、こちらはどこ吹く風という有様でいらした。
「俺は単にあの変な曲の出典と弾き方が知りたかっただけだ!」
「お前の顔見てそれを結論するのは無理やろ。」
一刀両断。しかし、るせえ!という罵声しか返らなかったところ、事実を突いているらしい。きらりと関白殿の知的な黒い瞳が不穏に光った。
「で?」
「…で、って?」
「美人さんやったんやろ。お前がそれほど血眼になって探すちゅーのは、絶対に曲だけの騒ぎやあらへん。大体、大抵の曲ならお前、一回聞いたらコピーできるやろ。どんな子やったん?」
上達部の話題はそれしかないのだろうか。然り、そんなところである。
「てめーに日頃の行状云々言われたくねーぞ、俺は。」
恨みがましくおっしゃるのであるが、関白殿は泰然自若と扇を使っておられたのであった。はあ、と溜息一つついた公達は、
「顔なんか覚えてねーよ。そもそもどこの女房か知らねーが、御簾の外で胡琴弾いてるって時点で身分がねー奴だってわかるだろ。俺が聞いてたのは音だけだ。」
「その上、声かけた瞬間にダッシュで逃げられちゃなあ。」
茶化されて面白くない公達は、とても雅とはいえないのだが関白殿を締め上げようとなさったのであるが、あっさりとかわされておしまいになったのだった。不機嫌そのものというご友人に構わず、関白殿は、
「院に聞けばええやんか。」
とご提案をなさる。ご友人の不機嫌が倍になった。
「聞いた。」
「で?」
「『ああ、それは多分真葛だ。』でおしまいだ。」
「それだけ?」
「ああ。」
「院もまた不親切やなあ。まあ、お前の日頃の行状が悪いから詳しいことは伏せられたんちゃうの?名前がわかっただけでもええやんか。どーせ院の御所には日参しとるんやろ。片端から女房洗ってみたらええやん。あそこ人数少ないし。」
「聞いたよ、とっくに。」
「…相変わらず無駄にアクティブやね。で、何をそんなにいらついとるねん。」
「いねーんだよ、院の御所に、真葛なんつー女房は!」
怒りが再燃したのか、哀れな脇息は再びふっ飛ばされたのであった。
「なんちゅーお行儀の悪さや。都一の風流公子の名が泣くで。」
脇息を殴り飛ばすだけに留まらず几帳までも蹴飛ばしかねない公達に、関白殿の苦言が飛んだところで殿上童がやってきた。関白殿が約束していた来客が殿上したのである。今だ憤懣やるかたなき御友人を放り出し、関白殿はあっさりと席を外してしまった。着慣れた濃青の直衣が目にも鮮やかである。
桐壷から清涼殿へ向かう途中、関白殿は一旦足を止めて懐中していた薄葉にさらさらと歌を書き付けた。花に結び付けたそれを殿上童に託して、
「周防の君に渡したってーな。」
と言付けた。
微笑んではいたが、目が笑っていなかった。殿上童は勢いよく頷くと、梨壷へ向かって走っていった。
「さて…と。右近の狸に会ってくるかな。」
関白左大臣は扇で肩を叩きながら、春風駘蕩と回廊を進む。
桜の花弁がはらはらと散り掛かった。御簾の陰から洩れ聞こえる無数の溜息のように。