弦楽小夜曲

春霞之段


 長い付き合いにもかかわらず内侍の君が宮の姫だったということすら知らなかった左近少将は、
「お前ってすごかったんだなー。」
と意味不明な感心をしていた。
「すごくない。宮腹がごろごろしてて、石を投げれば宮腹に当るってなこのご時勢に、んなことで感心しないでよ。」
とやり返す内侍の君は、完全に不貞腐れ、やさぐれていた。
 蔵人所である。例によって例のごとき『左近蹴鞠友の会』の無駄に熱い特訓が続いているのである。みんな暇なのである。頭中将はまたしても日なたで寝ている。山吹の重の直衣がぽかぽか陽気とよく似合っている。もっとも、気合を入れて爽やかな汗を流している人々からは完全に浮いている。先程まで左近少将も掛け声も勇ましくスポーツにいそしんでいたのだが、インターバルを入れたところ、ふらふらと虚脱状態でさまよっている院の内侍を発見したのであった。
 珍しく雪の下の襲をきちんと着こんで、いつもより華やかな様子なのであるが、目が虚ろなままふらふらと校書殿の方へ吸い込まれて行きかけたので、ぎょっとした少将が呼び止めたのだった。というわけで、蔵人所の簀子に二人並んで腰掛けて、竹筒の水を飲みながら侍従殿が新たな空中技を開発するのを面白がって眺めていたのだった。葉桜の狩衣の袖を抜いて腕まくりまでしている少将は、取り合えず先日の災難に同情したのだが、再起不能なまでに落ち込んでいる内侍の君は復活しなかった。挙句の果てに、
「少将んちですら忘れられているど田舎の荘園に別荘なんて持ってて、貸してくれたりなんかしない?」
なぞという相談を持ちかけるのである。
「…普通京に荘園はねーだろ……。」
「出るさ!京の都を!」
 まともな貴族は口にしない台詞である。ましてや姫君の頭には浮かびすらしない発想である。はずである。
 のだが、自分の筒井筒は都脱出を真剣に考えているらしく、君が持っていなかったら知り合いで持っている人を知らないか、などと真面目に質問してくるのであった。
「んなのは宮か関白の奴に聞いて……。」
 どうもその辺が原因らしいと気付いたのは、内侍の君が高速で頭を振ったからであった。おまけに襟首を引っ掴むのである。心底迷惑である。
「ど、どーした、首を絞めるなっ、暴れるな!」
「暴れずにいられるかっ、院がっ、院が、院が……。」
 そのまま固形化した内侍の君に不審を持った少将が振り返ると、別に化け物でもなんでもなく友達の関白殿が立っていた。それも相当息を切らせている。
「…何も、ダッシュで逃げることないやろ…宮が辟易しとったわけや……。」
「おい、お前何仕出かしたんだよ…あ、こら、どこ行くんだ?!」
「少将、関白殿を足止めしてくれっ、友達だろ!」
 裳唐衣翻して、簀子から地面に飛び降り、暴走開始である。本当は走れるような衣装ではないのだが、追い詰められたときの人間は怖いのだ。
「あれ、内侍どーしたの?」
 侍従の君が呼び止めたのだが、最早返事をする余力の残っていない内侍の君は後凉殿の方角へ向けて突進していった。その後を親友の関白殿がものすごい追い上げで追いかけているので、侍従殿はついつい鞠を背中めがけて蹴り飛ばしてしまった。ぼこっ、といい音がしたのだが、関白殿は無視である。
 何があったんだ、と二人の公達は顔を見合わせた。およそ関白殿は物に動じない方なのだ。それが本気で走っているとなると何かとんでもないことが起きているとしか思えない。
「…院の所、行く?」
と侍従殿が提案し、少将も黙って頷いた。寝ていた頭中将を叩き起こしてかくかくしかじかと誘うと、飛び起きた。ところが、
「宮に知らせてあげないと!」
などと火に油を注ぐようなことを言い出すので、二人がかりで抱えて運搬することにした。いくら宮や関白殿が大切な友達とはいえ、この場合弱者の内侍の君にあまりにもすまないと思ったものである。
 内侍の君は陰明門から飛び出したついでに内裏も脱出し、釆女町にあまたいる知り合いの誰彼の局に飛び込む予定だった。が、あまりに目立つ格好と重い装束のお陰で、門を出たところで関白殿に捕獲されたのであった。
 裳唐衣で全力疾走する女房など前代未聞である。まして内侍という役職、一応従五位という侍従殿と同じレベルの身分なのである。一応殿上人の端くれなのだ。それが人目も憚らずに逃げ回っていて、追いかけているのが関白左大臣ともなればちょっとした、いや相当な見世物である。
「頼む、落ち着いて、待って!」
「!?☆○△□%#&〒♪◎※!!」
 最早内侍の君の絶叫は意味不明である。しかし宮廷人というのは冷たいので、関白殿のご機嫌を損ねて左遷されたくないから見て見ない振りをして、皆さんそそくさと逃げてしまったのだった。
「何もそんなに嫌がらんでも…たかが婿取りやで?!」
「出家してやるー!!」
「あほなことゆーなや!」
 暴れても男君の腕力というものにはかなわず、半ばうんざりという関白殿の小脇に抱えられて内裏の中へと回収される内侍の君だった。
「ちゃんと心を込めてお世話したるから、そない嫌がらんと、な?俺もいい加減傷つくで?」
「傷つけっ!」
 この罵声にはさすがの関白殿もむっとなさったようではあるが、鬼気迫る表情の内侍の君は、
「若狭さんも小侍従も小宰相も丹後さんも常陸さんにも言ったってねー、その台詞…若狭さんは出家したし、小侍従は辞職して行方不明だし、小宰相は自殺未遂起こしたし……。」
と底冷えのするような暗い声で列挙し始めたのである。
「ちょっと、待てや!」
 狼狽した関白殿というのはかなり珍しい。今まで遊んできて、当然捨ててきた身分の低い女房リストがここで暴露されようとは予想外の展開である。内侍の君は既に目を据えていた。
「丹後さんはやけ結婚して陸奥に行って病死したし、常陸さんは……。」
「やめっ、頼む、やめてくれ!」
「少しくらい思い知れっ、みんな私の友達だったんだ、この極悪非道の人非人!」
 ぼろぼろと泣かれて、さすがの関白殿がフリーズした。よよと泣き崩れるはかない姫君などという生易しいものではない。そういうものなら、手練手管の見せ所で、甘言の数々と優しい笑顔で篭絡と、何だかんだと自分の土俵に持ち込んで掌中に納めるというお方である。が。
「そんな奴を婿取りなんてさせられるくらいなら宇治に籠もって虎に食われて死んでやるー!」
 本気で大声上げて泣き喚くのである。
「お、落ち着いてーな、頼むから…あのな、ゆっくり話し合おう…話せばわかる……。」
「問答無用!」
「な、いい子だから取り合えず落ち着いて……。」
「退出させてください!出家します!丸刈りにして唐に行かせてください!!」
「…おい、うるせーぞ、お前ら……。」
 運良くというか、悪くというか、放鷹から帰って来た東宮御一行と出くわした。先払いを当然させていたのだが、聞き覚えのある声が泣き喚いているわ、必死になってなだめている声は親友のものだわというわけで、それをやめさせた東宮は先頭に立って現場に乗り込まれたのである。至極ばつの悪そうな関白殿と、密航して唐に行ってやると泣き喚く内侍の君が二人だけという信じられないシチュエーションに目を疑った東宮であった。放鷹から帰ったら、蹴鞠特訓に顔を出して下手な仲間をしごいてやる気満々だったため、日頃使わない陰明門からいきなり入ってきたのが吉と出るか凶と出るかは微妙な部分である。
 お付の者を解散させてから、しゃがみこんでえぐえぐと泣いている内侍の君に向かって取り合えずしゃがみこみ、
「おい、無礼者の強心臓がどーして泣かされてんだ?言ってみやがれ、聞いてやっから。」
と、わしわし尼削ぎの頭を撫ぜた。
「泣かしたんやない、院が俺を婿に取ることにしたから通わせろゆーたら、坊の言ってた勢いでダッシュで逃げられて、捕まえたらこの有様や。」
「そりゃー泣くだろ。」
 素で言われた関白殿のお立場はどうなるのであろう。
「お前に言われたくないわ。」
「うるせー、おい、てめーもいつまでも泣いてんじゃねえ!院に掛け合ってやっからよ。な?」
 前門の東宮、後門の関白殿という、どこも喜べない状態である。
「おい…怯えきってるじゃねーかよ。お前、また官職使って脅しただろ!」
 さりげなくご友人の悪行をばらしておいでになる宮であった。しかし今回ばかりは潔白な関白殿は、ぶんぶんぶんと高速で首を振る。
「唐に行くー……。」
「な、それはやめような?わざわざ海を渡ってあないな危ないところに行ってもええことないで?」
「お前、どうしてそんなに唐に行きてーんだよ。おい、言ってみろ。事と次第によっちゃ、高麗人に掛け合ってやるぜ?」
と言いながら掛け合う気は全くない東宮である。これはあくまでも内侍の君の話を引き出すためのレトリックなのだ。が、溺れる者は藁をも掴むのである。
「…琴。」
「琴?」
 楽律研究家でもある宮の片眉が上がった。
「俊蔭卿の、琴……。」
「俊蔭の琴がどーしたよ!まさか、お前、留学するってんじゃねーだろうな!」
「おい、坊…姫さんは女やで……。」
 かなり引いた関白殿だが、さすがに音楽狂い同士は呼吸が同じだったようである。うん、と内侍の君は頷いた。ず、と鼻をすすり上げて、
「おじさまといられないなら、唐に行く……。」
の一点張りである。
「おい、その話、もっとちゃんとしろ。関白、後から呼ぶからついてくんな。おい、兵衛佐、ついて来い!」
 乳母子の兵衛佐を従えて、東宮は内侍の君を連れて行った。行く先は院の御所である。



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