弦楽小夜曲

春霞之段


 さすがに見せられる顔の状態ではなかったので檜扇で顔を隠し、ダメージがあまりに大きかったのでのろのろと歩いていると、見事な雪の下の襲とも相俟って立派な姫である。という珍しい状態の内侍の君を従えて、院の御前に乗りこむ前にまずは冷静にさせることが先決だと、東宮は局の方に乗り込んだのだった。先日多々搬入された調度のせいで、以前の冷たい板張りの床で壁代もない状態を知っている人たちからすると大層華やかな部屋になっている。無論、ときめいておられる宮の梨壷には比肩すべくもない間に合わせではあるのだが、座るところが設えてあるのに東宮は心底感謝した。一方の内侍の君は、投げやりになっているのか、床にぺたんと座り込む。
 内侍の君が泣き喚くに至った事情を聞き質したところ、概略が判明した。
 賓客が来るので盛装して御前に控えるようにと指示があった上に襲一式が言付けられてきたので、そのまま着込んだ内侍の君は普段通り気軽に院の御元へ伺候したのであった。すると、珍しく几帳の後ろに座っていろと言われたので、暇潰しにと袖に隠し持っていた『史記』を読みながらおとなしく座っていたのであった。
 賓客というのはよく出現している関白殿だったので、あの勿体のつけ方は何だったのだろうと大層期待外れに思いながら、琴でも弾かされるのだろうかと『史記』を読み続けていた。琴なら素人でも知っていて、別段大したことのない曲をニ三個ストックしてあるので、それで誤魔化してやろうと平素から決意しているのである。というのは、なまじ琴の上手と名前を取ったがために『風雅な貴公子』と称される、とどのつまりは無断侵入者に人生狂わされた姫は昔から枚挙に暇がないので、自己防衛できないなら下手に目立つのは避けようというのが内侍の君のポリシーなのだった。
 このポリシーに東宮が唸ったのは、まことに『色好みの公達』というものの本質を突いていたからに他ならない。無名の美女を開拓するほどの根性は誰もないのだ。ついでにいうなら相乗効果で自分のネームバリューを上げようというあざとい連中も多いので、ますます目立たない人には用がないのである。
 それはともかくとして内侍の君の予感は当ったわけで、院は琴をと仰せられたのだった。備えあれば憂いなしというわけで、誰でも知っている今様を三つほど、メロディーラインだけでぽつぽつと弾いてやったのである。院はあまりの手抜き加減に目をお剥きになったのだが、関白殿は過分の絶賞を寄越したのだった。
「あの人、耳がないんだね……。」
「あいつは音痴だ。気にすんじゃねえ。」
 俺が弾いてるときもいっつも半分寝てやがる、と悪態をつく東宮である。別に内侍の君をリラックスさせようとなさっているのではなく、普段から本気で忌々しく思っておられるのだった。
 それもともかくとして、やはり素人などこの程度のあしらいで十分、と納得し琴を弾き納めた内侍の君は、春の風情がどーだこーだという優雅極まりない話に興味が持てず、再びアクション大河ロマン『史記』は垓下の戦いなどを貪るように読んでいたのだった。
「それはお前のミスだろ。」
「まさかダブルミーニングスだとは夢にも思わず……。」
 つまり、院と関白殿はちゃーんと内侍の君の面前で取引をなさっていたのである。
 まことに素晴らしい春の風情ですわ、院。
 君の家にも春の花はあるだろう。
 あないなもの、全然。まだ遠い春を鶯の音に聞いた心地がしますわ。音だけでもええもんですな。
 音だけではなかろうよ。紅梅一枝、手折って挿頭の花とすればよい。
 いやいや、まだ雪の下に埋もれておりますのや。きっと美しい梅なんでしょうなあ。
 君であれば雪の下から花を咲かせることも出来よう。院の梅を私が許す。真葛、梅を一枝持っておいで。
 ほいほいと気軽に腰を上げる内侍の君の性格がこの時ばかりは仇となった。物好きな、と庭に下りて言いつけ通りにし、戻ってみると院がそそくさと退席しようとしているのである。突嗟に不審を感じて枝を持ったまま、どちらへ、と声を掛けたのは正解だった。
 真葛、お相手をしてお上げ。大層頼もしい公達だよ。
 嘘をつきやがれという心境の内侍の君は、何とかして消えたがっている院と、普段声も掛けてこないくせに今日に限ってやたらに御機嫌麗しい関白殿に警戒レベルを最高度まで引き上げたのだった。そしてお相手ならと、命婦のみなさんを大きな声で召集したのである。
 当然これから二人きりで過ごすものと予定して、あわよくば契りを交わすかもしれないと考えていた偉いお二人が仰天したのはいうまでもない。わらわらと集まってくる命婦が来る前にと、院は内侍の君を叱りつけた。
 失礼ではないか。これから通って下さろうという公達なのだよ!
 通わないで下さい迷惑です!
 そうして宣言通りだと主張するかのごとく、裾翻して脱兎の勢いで逃げ出したのである。逃げ出してしばらく縁の下に隠れていると、姫君の生態という点では常識をお持ちの関白殿がごくごく普通に回廊を駆け抜けて行かれ、つまりは内侍の君の頭上を通過して行かれたので、本人は憔悴しきって校書殿に篭城しようとよろめき歩いた次第なのだった。
 ちなみに同じ頃、少将御一行も院のお口から同じ事情を聞いており、それは無謀な試みだと進言申し上げていた。
「と、いうわけで唐に行きたい理由は重々承知なさったことと思いますが。」
 どうでもいいが海の向こうはとっくに宋の御代である。本朝では詳しいことはどうでもいいようである。
 意外なことにおとなしく内侍の君の話を最後まで聞いていた東宮は、
「結局関白の奴が通ってこなきゃ内裏にいてもいいんじゃねーかよ。」
と道理にかなった結論を導き出されたのであった。
「第二第三の関白殿が増殖したら困るし、院にも御迷惑みたいだから、いっそここらですっぱりと本朝に見切りをつけて音楽一本で生きてくのもいいかなあと思うわけですよ。言葉が多少厄介だけど、真名書いてりゃ筆談通じそうだし。どーせ変なのに押しかけられて遊ばれて野垂れ死にするんなら、海を渡って命かけて、上手く行ったら俊蔭卿の後を継いで琴を極めるほうがいい。」
 きっぱりはっきりのたまうものである。姫君の常識どころか貴族の常識を覆す発言は取り合えず脇に置き、東宮は目下の要点に焦点を絞った。
「やけに拘ってるが、お前は俊蔭とつながりがあるのか?」
「犬宮の女御が先祖にいましてね。父宮が清原家の秘伝を全て受け継いでたらしいんですよ。」
「故宇治の帥宮かよ…院の師匠がお前の父宮とはな。それでお前がここにいるわけか。…にしても、お前気にならねーのかよ。」
「何が。」
「自分は宮家の姫だとかよ。」
「んなの何とも思ってないでしょーが、宮こそ。で、宮の意見は一般大衆の意見と同じってわけで、私としては宮家というものに大したステイタスを感じてないんですよ。それに母君は播磨守の姫だし。でも、母君は琵琶の天才だったなあ…宮家なんてどーでもいいけど、宮も母君も音楽の天才だったから、私はそれで満足だし、唐に行って琴が弾ければ単純に幸せだと思うし、生活もしていく自信はありますよ?だから、鴻臚館に駆け込ませてもらえば、私としては宮に大感謝する次第なのですよ。」
 溺れる者の掴んだ藁は、取り合えず板切れくらいではあったので、熱心に押してみる内侍の君だった。内侍の君を良く知る院ですら頭ごなしに止める唐行きなのだが、異論も何もなく、普通に聞いている東宮に力を得たらしい。素行の点では全く信用が置けないが、音曲の点では当てになるお方かもしれないと、内侍の君はいささか偏見を修正した。
 一方、東宮は初めて逃げられず締め出されず内侍の君と話をしたわけであるが、あまりの規格外っぷりを今まで盛大に披露されていたので、ここでは最早何を言われても動じなかった。むしろ、女にしちゃあしっかりした物の考え方をしてるじゃねーか、俊蔭の秘伝を守ろうとする辺りは実に潔く殊勝な心がけであるとお思いになる辺り、御本人も規格外と言われて仕方ない御有様である。内侍の君はしっかりはしているだろうが、それ以上に無茶無謀である。
 しかし東宮はやはり色好みの宮であられるわけで、内侍の君が弁舌を振るっている間にもきちんと相手の容貌をじっくり観察なさっておられたのであった。結論は。
 こいつ、下手したら桐壷なんかよりずっと美人じゃねーか。
 尼削ぎの髪は艶やかに光っているが、脂光りはしていない。むしろ軽やかに春の風に時折ふわりと揺れている。余程まめに洗っているのだな、と東宮は感心なさった。後ろの長い髪が付け毛であることを御存知である分、本来の髪との落差が昼の光にはっきり浮かび上がる。脂粉の香りがしないので白粉もつけていないのがすぐわかるのだが、色白の面や袖から覗く指先は珠のように白い上に滑らかな手触りを予感させる肌理の細かさである。美人、と取り沙汰される姫達と何人もお付き合いのある宮は、化粧の威力と現実の落差というものもよく体験しておられるのだ。愛くるしい眼差しとは程遠い、少し権高なものすら含まれる知的な瞳の内侍の君だが、こうして一心に人の話を聞こうとしている時は子猫のようにあどけない表情をすると初めて知った。ふっくらと赤い口元が、
「だから宮、できればエスケープを許していただけないでしょうかね?」
と相変らずとんでもないことを言う。
「条件がある。」
 本当は許す気などさらさらない東宮であるが、今までの話し合いから内侍の君の決定的な弱点を掴んでおられた。きりりとした面差しが宮を見つめる。想定外にたじろいでおしまいになった宮である。
「俊蔭は遣唐使で唐土に行ったが、そこで習得してきた曲は滅多に弾いてねーし、まして秘曲の類は家にだけ伝えて朝廷に残してねえ。お前がそれを俺に伝授できるってんなら、全部教えた暁には鴻臚館に特別待遇で船に乗せるよう交渉してやっていい。ついでに俺は高麗人とも唐人とも通訳なしで話せる。」
 俊蔭卿の御手は膨大な数に上るはずだと睨んでの御提案である。事実その通りで、内侍の君は深く考え込んだ。自分は幼少の頃から故宮に親しんで習い覚えたものであるのに、人に騒がれてはいるがどれほどの御手を持つとも知れない東宮に真面目に伝授などしたら、百年でも軽くかかるのではないかと危惧したのである。しかし、直接VIP待遇を交渉してくれるという誘惑は大きかった。そこへ東宮は駄目押しをかける。
「俺は俊蔭の琴譜が欲しいんであってお前には興味ねーよ。梨壷にいれば身の安全は保証してやるぜ?」
 三分の一ばかり嘘が混じっているのだが、院と関白殿を既に敵に回している内侍の君には十分な誘いの水である。
「…わかりました。宮のついてこられる限りはお教えします。」
 悪気はないのだが、東宮はこれに少々むっとなさった。自分の琴がとにかくこの上ないものと思い上がっておられるので、譜面と弾き方だけ教わればすぐに完璧マスターだと確信しておられたのだった。
「ふん。そういうお前のお手並み聞かせてもらおうじゃねーか。胡琴しか聴いたことねーぞ。」
 内侍の君は返事をせずに、すたすたと塗籠へ向かった。また閉じ篭るのではないかと急いで後を追った東宮は、むさくるしい上に埃っぽい塗籠にしばしおむせになった。慣れている内侍の君は、その一番奥で古びた布を掛けられている塗りのはげた流行遅れの型の唐櫃へ近寄った。上覆いを取って、渾身の力で蓋を開けているので、まさか入るのではないだろうなと案じた東宮はついお手伝いになってしまった。
「あ、宮、ありがとね。」
 愕然。
 こいつ、文句なく美人だ!
 室内の方角から差し込む光に照らされた内侍の君の笑顔は、人懐こく、心和むものだったのである。油断した拍子に手を離しかけ、東宮は危うく唐櫃の蓋に手をお挟みになるところだった。東宮を動揺させるつもりなど全くない内侍の君は、櫃の中から、今度はかなり上等な唐織の錦の包みを取り出した。
 唐土で珍重されるという牡丹をあしらった華やかながら上品な紅の袋に、見事な光沢を持つ濃紫の紐がかかっている。贅沢にお育ちになって目が肥えておられる東宮から見ても、相当なお品であることがわかる。それを両腕に大事そうに抱き、部屋の方へと内侍の君が促した。宮が文句も言わずに従ったのは、約束した先から条件を反故にしそうな自分に気付いたからである。反故にしたが最後、関白殿の二の轍を踏むと肝に銘じて、何食わぬ顔の東宮は局へと引き返した。
 引き返すと内侍の君は局を厳重に戸締りしたので、さてはこの君も自分に心を動かしたのかと早速自慢の鼻が高くなる東宮であられたのだが、繊手が紫の紐を解き、錦の袋の中身を取り出した辺りで良からぬ心は吹っ飛んだ。中から出てきた長い包みは黒かと見紛う濃藍である。美しい金の紐が掛けられているその包みを見て、東宮はすぐに中身が琴だとわかった。それもかなりな名琴であろう。色めいた心とは全く別に、音曲の道には造詣の深い宮である。どれ程の琴なのか一目見たいと、内侍の君のお手元に目が吸い寄せられた。
 するりと金色の紐が解ける。濃藍の袋から出てきた琴を目にして、東宮は思わず声を上げて後ずさった。
「お前、波斯風を持っていたのか……!」
 神妙に今まで琴を扱っていた内侍の君は、不敵な微笑みで、真っ直ぐに東宮を見据えた。
「宮、合格です。貴方に俊蔭の曲をお伝えいたしましょう。」



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