

俊蔭は唐土へ渡った時、天人の桐の木の下方を貰って名琴三十本を得たという。あちこちにばらまいて手元に残したものは少ないのだが、その中でも別格の二本があった。あまりの響きの素晴らしさに天女自ら名付けたという、南風、波斯風である。
この二本は人前で弾いてはならないよ。けれど、災いが身に振りかかったならこれをお弾き。きっと天の助けがやってくる。
俊蔭が言い残して愛娘に伝えた二本の内の一本が目の前にある。内侍の君も東宮が物を正しく見分けたことを確認すると、さっと袋に戻してしまった。試されたのだ、と宮がお気づきになったのはその時だ。
宮はもう一つの琴もよく知っていた。
「それ…弾かせてくれないか。」
「駄目。これ、人を選ぶ楽器だから。」
小気味良いくらいきっぱりと却下された。
「父宮でも弾けなかった琴だから、駄目。」
さっさとしまおうとする手を慌てて押さえた。磨いた象牙にも似た、滑らかな手。
「待て!南風を弾けると言っても?」
「…弾いたことあるんですか?」
「あれを伝領してんのは、俺なんだよ!」
内侍の君の瞳が大きくなる。所詮道楽貴族の慰み芸とはなから相手にしていなかったのだ。
「だから、弾かせてくれ。」
きっと、波斯風は拒まないから。
大きな手は、小さな手に重なったまま。男君の視線と女君の視線も重なったまま。
弾かせて、くれるよな。それは昔からの約束事なのだから。
「鳴らせるものなら鳴らしてみて下さい?」
内侍の君の許可は挑戦という形を取る。琴袋が僅かに東宮の膝へと寄せられた。手を離すのも惜しんでおられる宮ではあるが、内侍の君がいつ許可を撤回して琴を奪回するかわからないので、ここは色めいたお気持ちを隠すことになさったらしい。波斯風を出して前になさると、意外なことに白拍子が舞によく使う催馬楽を華やかに装飾して弾き始められたのである。気合を入れて大曲を弾き始められるものと予想していた内侍の君は僅かに目をみはったが、ふ、と口元を綻ばせた。
波斯風は楽しげに、華やかに鳴り渡る。日盛りに咲き誇る満開の桜のように艶やかに堂々と響き渡る。
身を乗り出して目を細める姫君の姿が、桜の下で胡琴を奏でていた人とだぶる。宮は手を尽くしてお弾きになる。花の宴で舞を共に、と誘うように弾む調べに、内侍の君は胡琴へと手を伸ばした。もう一つの音の出現に、宮は少し驚かれたが、目を細めて手を休めずにお弾きになる。
そして重なる二つの旋律は華やかな饗宴への勧誘。
養女の君の様子を案じていらした院は、ものものしく全て下ろされている格子、蔀戸に驚かされた。しかし院の足を止めたのは、全てを圧して響き渡る合奏の音色。
この琴は、誰の手だ?
御友人が早まったことをしていないかと局へ同行した左近少将が、
「琴を弾けるったら宮じゃねーの?」
と手の違いがわからないばかりに、琴を弾ける=知り合いでは東宮だけ=きっと宮だ、という正解にたどり着いた。
「でもあいつら、ってーか内侍が一方的に毛嫌いしてたよなあ……。」
「何が起こったんだろう……。」
侍従殿と二人で首をひねっておられたわけである。
溺れる者の掴んだ藁は、取りあえず小舟程度ではあったようだ。
東宮のお住まい梨壷に内侍の君を移動させる計画は、院と左近少将の猛烈な反対で実現しなかった。やはり日頃の行いはいざという時に物を言うのである。珍しく人助けに手を貸そうとお思いだった東宮は不機嫌の坂を雪崩落ちて行かれたのであるが、
「お前の素行と関白の素行は同じくらい当てにならねーし、女絡みの口約束なんて守ったことないじゃねーか!」
という少将の率直な糾弾に反論の余地はなかったのだった。
「じゃあ書面にしておこう。」
と、ほいほい立ち上がって院の硯箱を失敬し、念書を書かせた内侍の君である。口約束よりはましだろうという発想なのだが、黙って夜逃げしかねない内侍の君を留めておくためにも契約書は有効だと考えた東宮は案外すんなりと納得して署名なさった。その隣に署名した内侍の君の草書があまりに見事だったので、再度感心なさったのは余談である。自分が読めないので少将殿が、お前、字汚いんだな、と勘違いしたのも余談である。
「うん、私、字は得意じゃないんだよ。で、血判でも押した方がいいのかな。」
そんな物に血判を使うものではない。
「クーデターでもするのかよ…たかが琴を教えるのにどうして念書を交わすんだ、お前らは…それも血染めの念書にする理由がどこにある!」
常識的な少将殿の存在は大層貴重なようである。
関白殿との結婚を激烈に拒否した内侍の君のすさまじさを、少将と侍従殿から聞かされていた院は、一つ合奏が終わってからがたがたと格子を開けた内侍の君に御安心なさった。しかし、局の中で琴を神妙に袋に入れておられる東宮という珍奇な見世物を発見しては、普通こう思うのが筋なのだ。
『真葛、まさかお前、み、宮と思い交わして……。』
『宮と取引して唐土に留学することになりました!』
ばんざーい、と喜色満面報告申し上げた御猶子に、院は目眩をお覚えになった。というより、愛弟子に、
『宮、何ということを請け合ってくれたのだ!』
と叱責を浴びせられたのである。折角人がまともな人生を歩ませるべく婿取りまで計画した矢先に不穏極まりない。いきなり結論に飛んだ内侍の君に代わって、事ここに至った詳細を院にお知らせになる東宮である。とにかく宮が内侍の君の逃亡を食い止めたことを理解なさった院は大層弟子をお誉めになったのであるが、かといって関白殿の代わりに宮を婿取りしようとでも言い出せば先程の逃亡劇が再現されることは想像に難くないので、万事東宮の采配に任せることになさったのである。ただし、御自分のお膝下から離すと梨壷に多々群れる色好みの公達との間に間違いなくトラブルが生じることを見越し、内裏への移転は許可なさらなかったのだった。関白殿には騙されておられても、宮の御気性は知り抜いて警戒しておられる院ならではのお心配りである。
かくして宮と内侍の君の奇妙な連判状の保管者に擬されておしまいになった院は、それを薄をあしらった蒔絵の文筥にお納めになったのだった。
「それは秋の御道具では……。」
「それしかないんだもん、仕方ないじゃありませんか。みんなして宮んとこに横流しして献上してるんだもん。まあ、入ればいいから逼迫はしてないし。」
御丁寧な解説を加える内侍の君はあっけらかんとしたものだった。
「そのようなことに気付きませず、失礼を致しました。後程東宮大夫を差し向けますので、不如意なことがおありであればお申し付け下さい。」
いつも来ているのに気が付かないなんて、権門の後見のある宮とはいい御身分だとクールなのは内侍の君である。左近少将と侍従殿は、前代未聞の御友人の発言に肝を飛ばしたのだった。頭中将がにこにこと、
「宮って面倒見がいいもんねー。」
と誉めている。
「否定はしねーが、こいつが世話焼く時は吐き散らす暴言のせいで効果半減してるじゃねーかよ……。」
いや、時々は効果全滅してすらしているぞ、と御友人の体面を慮って内心だけで付け加えた少将だった。というのは、豹変の理由がどう考えても内侍の君しか思い当たらないからなのである。
原因は同じでも理由は少将の考えとは相当違っている。
少将→口説き落とそうと思ったんだが内侍があまりに変なので東宮が物欲で釣ろうとしている
東宮→通う女の里方に援助の手を伸べるのは当然
人の考えというのはわからないものである。大体内侍の君は琴を教えると言っただけで宮を通わせるとは一言も言っていないし念書にも契約されていない。
内侍の君本人は、棚からぼた餅で院の不如意が解消されて良かったなあ、としか感想を抱いていない。まことにのほほんとした表情で侍従の君と空中技の開発と実際について盛り上がっている。それを見ながら、ほのぼのと懐かしい気持ちにおなりの東宮は口元を綻ばせ、それを見て左近少将は、嵐の前の何とやらじゃねーかと、人知れず戦慄していたのだった。