

さて。
ほとんどの方々はこの案を妥結して平和を取り戻したのであるが、この展開を一方的に通告されて納まらない方を忘れてはならない。関白殿である。
梨壷に顔を出すなり、内侍の君の前で必死に琴に向かっている東宮を見つけた関白殿は妙な声を上げた。当然である。
「な、ななな、なんであんたがここに……。」
「うるせえ!レッスンの邪魔すんじゃねえっ!」
第三者的には至極当然の関白殿の狼狽を一喝する東宮であった。しかしここで呑まれてしまうようなら、宮とは友達を続けて行けないのである。きりきりと眦を吊り上げた関白殿は、御友人を吊るし上げた。内侍の君は面白そうにしているだけである。何か用なのだろうとばかりに、宮から借り出してきた楽譜を広げて、そっちの世界に行ってしまった。
何かの会議に出ていたと思われる束帯の関白殿が、桜の直衣の宮を締め上げている図を見れば、御所の女性達はこぞって黄色い悲鳴を上げるに違いない。しかし正しく例外に属する人しかここにはいないので、お二人は心ゆくまで掴み合いでも罵り合いでもなされるのである。
「ふん、文句があるかよ。てめーのせいで唐に飛んでやるっつってた約一名を本朝に引き止めてやったのは俺様なんだよ!」
開き直っているとおぼしき東宮であられる。
「誰がお前にそんなこと頼んだんや!余計なお世話やでっ!自分で何とかするわ!」
「できもしねーくせに大口叩くんじゃねえっ!ぴーぴー泣かしてたのはどこのどいつだよっ、ああ?」
「お前だって似たようなもんやろーがっ!俺よりひどいやんか!」
「俺様は琴を習ってるだけだ!」
「よくゆーわ!ほなら何で梨壷に呼びつけるのや、阿呆!院の御所に行けっ!」
「うるせー、てめえが周防を買収してるのなんてとっくに知ってんだよ!」
何か論点が大きく間違っているのは気のせいだろうか。この馬鹿馬鹿しくも不毛な第三者達による口論、いや既に手も出ているのだが、にピリオドを打ったのは、まるで場違いな胡琴の音であった。
宮の手が止まる。ついでに内侍の君の方を振り向かれたのだが、本人は楽譜を前に目を閉じて胡琴を奏でていた。
「おい、坊!」
今度は、うるせえ!と怒鳴らずに無言で関白殿の口に袖を押し当てた宮である。
初見の曲のはずだよな?
流れるのは六条院から伝えられた珍しい春の大曲。かの院の女楽でも奏された、音取りの笛も必要になる四部の旋律がある曲なのだ。
胡琴の弦だけで奏でる四つの旋律。何をどう弾いているのか、全く奏法の見当はつかないが、呆れるほど見事に調和させ、編曲している内侍の君である。更に楽譜を見ていないのだ。全て頭に入っているとしか考えられない。
流麗で軽やかなだけでなく、野性的で躍動する春の曲。
関白殿の小言を右から左に聞き流し、東宮は琴を引き寄せた。南風は内侍の君にだけ見せたが、練習に使うものではないと意見が一致したので、別の名琴である三千年を使っている。タイミングを計りながら。
昔、紫の上が弾いたという旋律に装飾をかけて割り込んだ。即座に胡琴から和琴の旋律が消え、琴の琴と筝の琴、琵琶に笛のパッセージをアレンジして伴奏へ回る。
初見の曲で、割り込まれて、いきなり合奏に応じてきた。元々規格外の内侍の君の度外れたお手並に、東宮は御自分のお手を惜しげもなく披露なさる。宮の華やかな音はそもそも共演に向かないのだが、胡琴は三千年の主旋律を受け止め、あまつさえ対立すらしてみせる。御自分を並ぶ者のない名手と任じておられた東宮を翻弄し、胡琴の音が飛び回る。
格好つけて、と白い目を向けておられた関白殿だが、曲も半ばを過ぎた頃から東宮の余裕のなさにお気がつかれた。昔学問の師についていた頃のように、真剣な表情で弦を操っておられる。普段は余裕綽々といった、右大臣家の一派からは小面憎いとすら思われる態度で文句のつけようのない演奏をいつもなさっている宮が、うっすらと汗すらかいて内侍の君の胡琴についていっているのである。
こいつ、何者だ?!
東宮が内侍の君に対する認識を改めておられるのは誰も知るよしがない。
これは…あかんな。
関白殿はさすがに内侍の君の美貌に気がついた。着物が華やかでないのと、部外秘ではあるが髪が長くないのと、化粧気がないのとはあるが、こちらも伊達に遊び回ってはいないのである。となると、自分よりも音楽に造詣の深い東宮が初めて相手の演奏についていくのに苦戦しているとあっては、自分ですら一目置いた才気のある姫君に思い入れるのも無理はない。何事につけても人より抜きん出ておられた東宮は、自慢の鼻を叩き折られたことがおありにならないのだ。
けど、その姫さんは俺が院から許されたもんやで。
ぱら、と扇を開いて口元を隠す。関白殿は冷徹な視線を内侍の君に送った。
お前は桐壺に皇子を産ませればええのや。
桐壺の女御が懐妊しない内に東宮の御寵愛がとんでもない方向へ向かっては、関白殿の計算丸つぶれである。つぶれるだけなら構わないが、その間に右大臣殿の女御に皇子が生まれては、東宮は間違いなく廃位になろうし、そうすれば政権は敵の手に握られるわけである。
じょーだんやないぞ、俺は!色恋を咎めはせんけど、俺の計画を邪魔するなや!
どんな手段を使ってでも東宮と内侍の君の間は裂いてやる、というわけで、強硬手段に訴えてでも内侍の君を数ある通い所に加えてやると固く決意した関白殿である。
一つだけ誤算があった。
値踏みするような視線に気づいた内侍の君が、胡琴を激しく鳴らしたまま、きっと関白殿に鋭い一瞥を投げたのである。思わず関白殿が怯むほどの強い一睨みである。
この子、坊の同類か!
こちらは一心不乱に琴を操っておられる、東宮の端正だがきつい美貌に目を戻す。普段穏やかで、ほのぼのとしている、という内侍の君に対する世評を心底疑った。
見慣れない東宮に、様々な思いを喚起された関白殿はしばらく演奏が終わったのにも気付かなかった。気がついたのは東宮が、
「お前、一度見ただけで六条院の譜を諳んじたのか?」
とお訊ねになっていたからである。
「一度見れば大体構成はわかるしね。それにしても宮、さすがに南風を伝領してるだけはあるね。すごく上手かったよ。」
爽快だ!といわんばかりの内侍の君は、そういえば伝授の途中だったっけ、と話を戻そうとした。戻そうとして、御簾の向こうが黄昏色に染まっているのに気がついた。行き交う下人の影も長く伸びている。
「あ、長居しちゃった。時間だから院の御所に戻ります。」
未練もなく立ち上がり、いい加減にありあわせの布で包んだ胡琴を手にして、さっさと梨壷を出ようとした。送る、と東宮が立ち上がる。からからと内侍の君は笑い飛ばした。
「春宮を供奉にしたら、私、院から雷落とされるよ。じゃあね、二人とも。」
「待ち。俺が送ったるから。」
「やだ。関白殿と院が結託するとろくな展開が待っていなさそう。」
「何やの、それは!」
「関白殿が根っから悪い人じゃないってのは、あれから少将と侍従殿に聞いたけどさ。けど、内侍さんは婿取りするつもり、ないから。ごめんなさい。宮に琴を教えることになったのは、唐に留学するためなんで、勘違いしないでね。」
じゃあね、とすたすた退出した。ちらりと横目で窺った東宮は口の端を噛んでいた。
温度差か。
微かに関白殿は口の端を吊り上げた。