

しげしげと局に人が出没するのは、人気のある女房の証である。客の中に有名人が含まれていれば、女房まで一気に時の人である。
かくして桐壷や宣耀殿、帝の女御がおられる弘徽殿や梅壷や仁寿殿の女房達は競って出世株の公達の足を止めるべく、美貌や才気に磨きをかけるのだった。が、そういうものをあちこちで見ていると感性が磨滅するのは当然なので、人並みの教養程度の美人には誰も振り向かないのである。それなら侍従殿の無意味に華々しい空中放れ技を観賞している方が数段面白い催しである。
左近蹴鞠特訓の会はしつこく続いていて、相変わらず校書殿に出入りしている内侍の君は行きがけに友達と喋ったり混じったりしているわけである。混じるといっても、戦力になるはずがない。面白そうだねえ、と洩らしたら、ウォーミングアップをしていた一同が混ぜてくれたのである。適度な体操は健康に良いのである。かくして裳唐衣を脱ぎ捨てた袿姿の内侍の君は元気にみなさんと走り回ったりすることもあるのである。無論院の御所の中であるから部外秘でいられるのだが。
御友人を絞ってやるとの決意に燃えている今日も物騒な東宮であるが、院の御前に伺った『ついで』に内侍の君の局へも顔を出した。
無用心にも開け放しである。覗き込むと、反対側の回廊が見える。つまり視界を遮る障害物がないのだ。先日関白殿の搬入していた几帳や円座や畳はどこへ消えたのだと我が目を疑った東宮である。脇息もなくなっているし燭台もない。
あり合わせの布を掛けられている胡琴が、壁代に寄せて置いてあった。
…いねーのかよ。
そこはかとなく不機嫌である。ずかずかと進んで行かれると、突拍子もない方向へ高く蹴り上げられた鞠が見えた。
「弾正のノーコン!」
「すっ、すみませんっ、少将殿!」
「おー、侍従殿ナイスフォローだーっ!」
蔵人所まで急行すると、良く知ったメンバーに混じって、簀子に座った内侍の君が足をぶらぶらさせながら無責任な応援を飛ばしていた。
「いやあ、侍従殿の華麗な空中ニ回転半は見るたびに寿命が伸びるねー。」
けらけらと笑い転げる内侍の君には全く屈託がない。院が姫として育てるのではなく宮仕えをさせたのは正しかったようである。こぼれるような黄色の山吹の襲がよく似合っている。
「おー、来た来た、宮。」
少将も屈託なく手を振る。ったく、とそちらへ寄って内侍の君の隣に座り込もうとした途端、相手は立ち上がったのだった。
「んじゃ特訓頑張ってねー。私はこれから読書にいそしむよ。」
「おー。また暇になったらウォーミングアップなら入れてやるぜ。」
「少将のお陰で運動不足が解消したよ。ありがとね。じゃーね、みなさま。」
すたすたすた。
「おい、真葛、どこ行くんだよ。」
「校書殿。あ、宮、昨日借りた琴譜は夕方くらいに返しに行くよ。」
あくまでもマイペースの内侍の君は、そのまま東宮を置き去りにするつもりである。現に振り向きもせずに中庭を突っ切り、勝手知ったる校書殿に吸い込まれて行ったのである。顔見知りの六位蔵人君が何やら話し掛けていたのだが、けらけら笑って、ぺちん、と頭を扇で叩かれてしまった。建物に吸い込まれた山吹襲を未練がましく見送る六位蔵人君である。
が、もっと面白くない人がこちらにもいらしたようである。
「何やの、坊…えらい低気圧やな……。」
合流しに来た関白殿は、見てはいけないものを見てしまったとばかりにそそくさと中庭へ下りた。仲良しの侍従殿は、新たに開発した新技を見せたくてたまらないので、関白殿の他に宮も大声でお呼びになる。宮の陰に忠実に従っている兵衛佐も中庭へ下りた。
そんな宮の特訓に付き合わされる方は当然迷惑である。普段の二割増、無駄に気合を入れたテクニックを御披露なさるので、この輪の中に入っているだけで十分大変である。東宮の性根の悪さが如実に現れた一幕である。
…ったく、何なんだよ、あの六位風情はよっ!
ばこっ。
「…宮もノーコン……。」
「るせえ!俺様は集中してても外しやがる弾正じゃねえ!」
集中していないと自白したに等しい。そのついでに人を罵っているのだから大した口の悪さである。藪をつついて蛇を出した侍従殿はそそくさと撤退し、弾正宮の恨めしそうな視線から逃げ出した。もっとも弾正宮は、兄貴と慕う左近少将が、俺達はあのおかしい宮と違って凡人なんだから真面目に練習に励めばいいんだ、などと激励してくれたのですっかり立ち直ってしまったようである。
「それにしても何が不満なんだよ…あの馬鹿は。」
素直というのはTPOを弁えた場合にのみ美徳である。正直極まりない感想をお漏らしになった東宮の言わんとしていることを何となく察知した左近少将は、
「あー、あいつ、悪目立ちしたくない奴だからお前が出入りするのは嬉しくないぞ、基本的に。」
と気安くお答えなさった。童殿上の頃から遊んでいた仲なので遠慮会釈というものがないのである。元服しているのだからもう少し遠慮してもよいのである。でも誰も気にしないのである。まことに運動の効能と呼ぶべきであろう。
「何なんだ、あの規格外は!」
「知らねーよ、あいつは女の皮をかぶった男だって侍従と意見の一致を見たぜ。」
それ以前に君達は近衛府や弾正台のお仕事をしたらどうなのだ。
もっとも近衛府が形骸化して役に立っていないから、各所で武装勢力が発生するという物騒なご時勢になっているのも事実である。僧兵という本業がどっちなのか不明な人々もいるし、院の中には御所で独自に護衛下請け武士というものを抱えている人々もおられるようである。
こちらの院も例外ではないのだが、何しろ風流で鳴らしておられる以上、あまり御公表には及んでおられないのである。単に温存しているだけともいう。何事にも隠し玉は必要なものなのである。
しかし院としては養女の君に不用意にもろうがわしい話をお聞かせになりたくなくて隠しておられるつもりであった。事実、ただでさえ高貴な姫らしからぬ内侍の君をこれ以上実務家にしては、ただでさえ困難を極めておられる婿取りが更に難易度を増すというものである。
というわけで、六位蔵人君の恋文を相変わらず作曲のネタと断じ去って、ネタ提供に感謝するなどと見当違いに謝辞を述べている内侍の君は何も知らないのだった。勿論蔵人君は内侍の君の途方もない見当違いを是正したわけなのだが、あっさりと一笑に付されてしまった次第である。別段内侍の君は日頃から何くれとなく書庫で話しかけてくる蔵人君を嫌っているわけではない。しかし今の内侍の君に男女交際を持ちかけるのはタイミングの選び方を完全に誤ったというほかない。何しろ、予想外に飲み込みの良い東宮に気を良くした内侍の君は、これでさほど時を掛けずに念願の唐留学が叶うと希望に燃えているのである。当然ながら音楽以外のことは頭から蒸発しているのである。時々こうして趣味に走るため書庫で真名本を読みに来るくらいである。まことに院の危惧はごもっともなのである。
唐の大層仲の良い友達同士が戦で敵味方になるのだが、お互いに助け合うというまことに感動的な話を読みながら内侍の君はけらけら笑っていた。その片割れの図々しさといったら本朝ではなかなかお目にかかれないのである。甲は絶えず乙のサポートをしてやるのである。乙が計画を立てても出資するのは甲なのである。ついには甲が乙に宰相まで譲ってしまうのである。
「やりすぎだよー、鮑叔さーん。」
誰もいないので相変わらずけらけらと笑いながら読みふけっていた内侍の君は、暗くなってきたのでようやく立ち上がった。また帙を一つ分借り出して書庫を出ようとすると、着馴らした桜の見事な袿の女房が入口で控えていた。というのは声を掛けてきたので判明したのである。
「内侍の君、宮からのお言伝でございます。」
道理でいいものを着ているわけだ、と変な感心をした内侍の君だった。この間院から一式押し付けられた雪の下の襲をほぼ連日着続けている内侍の君より余程お洒落である。
「この後で梨壷に上がられますよう。お供させて頂きます。」
琴譜持って来てないぞと突嗟に思った内侍の君は、
「宮のところに行くならこれ置いてきて、ついでに持ってく物もあるから一旦院の御所に戻ります。すぐ参上しますとお伝え下さい。」
といつもの伝でてきぱきやっつけてしまった。宮の日頃の行いと御所の人々の反応から、当然宮と内侍の君の間柄をはなはだしく誤解していた女房は、
「いえ、そのように仰せられず……。」
などと悠長に口上を述べている間、まんまと内侍の君に逃げられた。内侍の君としてはこれでも東宮が楽譜を返して欲しがっているのに待たせては悪いだろうと気を利かせていたのである。かくして雪の下の内侍は局まで回廊をひた走ったわけだった。