弦楽小夜曲

春霞之段


 局に物がなくなったのは訳がある。勝手に搬入されていたのが下心だらけの関白殿からの差し入れというだけで難色を示していた内侍の君なのだ。それが、通うだの通わないだのという話が持ち上がってしまっては、置いておくだけで恐怖である。いつ何時、やった物の『代金』を回収されるか知れたものではない。
 そもそも寝食に不自由しなければ十分だし、職掌柄強いて顔を隠しても何にもならないので、興味自体が薄いのだ。何としてでもその顔を見たいと思われる深窓の姫君でもあるまいに、常日頃顔をさらして歩いている自分が今更几帳の陰に隠れて何の意味があるというのだ。ごもっともである。
 というわけで、変な恩を着せられるのはまっぴら御免の内侍の君は院に押しつけようとしたら断固拒否されたのである。仕方ないから、仲間達に声を掛けたらみなさんが嬉々として貰ってくれたのだ。持つべきものはお仲間である。
 というわけで片付きすぎている室内から難なく楽譜を発見すると、内侍の君はさっさと踵を返した。そして部屋を出かけたら、出会い頭に息急き切って到着した東宮と遭遇した。供もつけずに全力疾走してきたらしい。相変わらず無駄な脚力を発揮するよな、とは失礼極まりない感想である。
「楽譜ならこれから返しに行くつもりだったから、そんなに急がなくてよかったのに。はい、これ。ありがとね。」
 目の前に太平楽に突き出された琴譜に、東宮が脱力してへたりこんだのは当然である。息切れでもしたのかと背中をさすってやる内侍の君の親切が、ほとんど蛇の生殺し状態になっていると思われる。
「逃げたかと…思ったじゃねーか!」
 多々脱走の前科を持つ内侍の君である。昼間など目の前で平然と席を立っていなくなってしまうのだから、女房の報告を受けた宮が、梨壷に来るのが嫌さに内侍の君がエスケープを計ったと結論付けても何ら不思議はない。
「だって書庫から直で連行しようとすんだもん。宮に夕方これ返しに行くって言ったから、取りに戻ったんだよ。…それはいいけど、水でも飲む?」
 ぜーぜーやっているお姿がさすがに哀れを催したか、内侍の君は再び室内に戻って瓶子に汲み置きしている生温い水を持ってきた。杯に空けない方も空けない方であるが、そのまま一気飲みする方もする方である。
「しっかし、そんなに急ぎの用があったわけ?東宮ともあろうお方が内裏をダッシュするのは感心しませんが。」
 十二単でダッシュするのは感心されるのだろうかと突っ込みたくなった東宮だった。
「急ぎだったんじゃなくて、始終脱走してる奴がいるからだろ!」
 とりあえず突っ込まない方向に進んだらしい。弁解する気もない内侍の君は、
「だって宮といると悪目立ちするんだもん。不必要に近くにいないだけだよ。」
と恐らく隠しておいたほうがいいと思われる本音をあっさり口にしたのであった。
「それでなくても、梨壷に琴教えに行ってるだけで、桐壷の方とか宣耀殿の方付きの女房達に反感買ってるらしいんだから。凡人は凡人らしく地味に棲息していたいだけだよ。宮も最近十指に余る彼女の所にご無沙汰してるっていうじゃないか。駄目だよ、通ってる人はちゃんと大事にしないとさ。恨まれてるよー。」
 むぐぐぐっとお詰まりになった東宮を面白そうに眺めていた内侍の君だった。
「で、ご用件はいかがなものでしょ?」
「…晩飯食いに来いって言いに来ただけだよ。」
 毒気を抜かれた内侍の君である。確かに梨壷ではご馳走が出そうであるが、そんな華々しいところに何故自分が一座しなければならないのか皆目不明である。
 一見色々と考えている様子の内侍の君がまた逃走しないようにとでも思われたのか、東宮は床についていた内侍の君の手をそっと押さえた。?と手に視線を向けてしまう内侍の君である。はらりと横顔にかかる垂髪の艶やかさに、宮はかなりにぐらついた理性を必死にかき集めた。ぐらつくままにしておけば、逃げられる程度ではすまないのは骨身に染みてわかっておられるのだ。本気で唐まで密航など仕出かしかねない相手である。
 やっぱりご馳走でなくていいから晩ご飯はゆっくり食べたいなあと結論した内侍の君は、断り文句を口にしようとした。気配を察した東宮は無意識に押さえていた手を握りしめていた。??と内侍の君の不可解レベルがアップする。
「…頼むから、逃げないでくれ。」
 ずっと、それが言いたかったのだ。
 東宮は、ようやくそこに気がついた。
「宮とご飯なんて、闇討ちされそうだから嫌だなあ…院のところに行くつもりがあるなら付き合うよ?」
「わかった!院の所に支度をさせる!」
 この妙な意気込みに仰天したのは内侍の君である。そこまでして自分を同席させるメリットがこの宮にあるとはどうしても思えない。
「は、はあ…そこまでしたいなら止めはしないが、物好きだねえ……。」
 全くやる気のない台詞である。桐壷や宣耀殿の住人が聞けば卒倒必至と予測される。
 それでも、最初のあしらわれ方がひどいなんてものではすまなかった東宮からしてみれば、これは相当に誘いの水であった。嬉々として顔馴染みの命婦を呼びつけ、梨壷から一切合切持ってこさせようとするのである。院の所になら多少は物があるよと助言する内侍の君の話なんて三分の一も耳に入っておられない御様子である。
 東宮の妙な気合に相当引いている内侍の君だが、理解できないことは追求しないが身のためなので、暇つぶしに胡琴を手に取った。今様に装飾を掛けまくるせいで、何故か超絶技巧になっているのだが、本人には全く自覚がないのである。気高い微笑を浮べながら楽しく弾いている女君に、宮は大層御満足の体であられ、もっとよく御様子を見ようと明かりを持って来させかけたのだが。
 ふと、思いついた。
「おい、琴貸せ。」
 一曲終わったところでのたまって。琴を抱えて内侍の君をお供に席を立つ。薄闇の中を向かったその先は。

 咲き始めだった桜は、最早盛りを過ぎて葉桜になっている。ほろほろと遅れた花弁が散っていた。
「合わせてみねーか?」
 勧誘でもあり、挑戦でもあり。
「ついて来れますか?」
 受諾でもあり、挑発でもあり。
 顔を見合わせて、にっと笑い合う。散りしく花弁も飾りと加え、腰を下ろして始めるは音楽の夜会。打打発止の掛け合いを風雅と見るか、無上と聞くか。
 高欄に出ていらした院は、愛弟子と御猶子を不安げに見守っておられる。

 それを『A boy meets a girl』と呼ぶ人はいなかったけれど。
 答えは桜の木の下に。



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