弦楽小夜曲

春霞之段


「見たっ、見たっ?!左大臣様っ!もー、お素敵っ、卒倒しそう!」
「卒倒してください、好きなだけ。こっちは急いでるってのに、あんなゆるゆる歩かないで欲しいよ。じゃまくさい。」
「あんた、夢がないわね……。」
「夢で生きてはいけません。私、リアリスト。」
 小袿姿の女房たちの中から、きっぱりと言い放って立ち上がる裳唐衣の娘が一人。関白殿の艶姿に感嘆しきりの女房たちを放って、さっさと唐櫃を持ち上げた。かなり重いのだが、何とか頑張っているらしい。
「じゃあ糸所の皆様ありがとう。折角来たので、ゆっくり関白殿の帰りを待ち伏せするなり東宮閣下を付け狙うなり帝のところに殴り込みをかけるなりしてください。ほんと、急ぎなんで助かったよ。ありがとね。」
「内侍さんが内御書所のお席をいつも貸してくださるんだものっ!!ああっ、関白様を見れて寿命が延びたわ!!」
 きゃーっ、とはしゃぎ合う女房たちであった。しかし誰一人糸所の建物に帰るべく動くつもりはないらしい。じゃあね、と皆様を置き捨てて、唐櫃抱えた裳唐衣の内侍殿はよたよたと回廊を進み始めたのであった。んせ、んせ、と一心不乱に運んでいるが、当然誰かが手伝ってくれるわけもなく、挙句の果てに后妃に仕える女房から、あんた邪魔よ!と当身を食らってよろめいたりもするのである。そういう迷惑な女房に限って、柱の陰から出てきた殿上人の誰彼に会うと猫を四五枚かぶって優雅な歌を詠むのであった。
 浮世ってままならないものねー。
 内侍殿は溜息をつき、また唐櫃をよいせよいせと運ぶのであった。数限りない束帯だの直衣だの小袿だの裳唐衣だのに行き会ったのだが、一々顔など見てはいないのである。
 腰が抜けるかと思いつつ運搬作業を終えた地点は院の御所だった。うーん、と伸びをする。そして。
「いーん、夏装束上がってきましたよ!」
 ひょい、と戸口から顔を出すのだ。仰天なさったのは心長閑に和琴を奏でていらした院であった。思い切り邪魔である。のだが。
「いーん、そこの手。滑ってますよー、指が。自分の世界に浸っちゃってお手元がお留守ですよ。」
 失敬極まりない発言を飛ばしながら、再びのたのたと唐櫃を院の目の前にまで運び終えたのだった。どかっ、と音を立てて置いたのは、腕力の限界に達したからである。かくして院の目の前にはかなり大きな何故か秋草をあしらった風雅な唐櫃が鎮座したのであった。
「…真葛。これは秋の道具ではないのか?」
と院が尋ねたのは正しい。内侍殿真葛はうん、と頷いた。
「院のお道具が間に合わないんですって。何せ春宮に横流しした奴が続出したもんで、帝の調度が衣替えに追いつかない状態らしいんですから。糸所は取りあえず物欲で買収して御衣だけは仕上げてもらったんで、この唐櫃は目立たないところに突っ込んで皆様の目から隠しておいてください。」
「…またお前一人に仕事を押し付けたのか、あの命婦達は……。」
「仕方ないでしょう、五十六十のお婆さんにこれを持てってーのは鬼ですよ。」
 んじゃ、と踵を返す内侍殿を、院は慌てて呼び止めた。
「そういう問題ではなかろう!お前は身分を何だと思っているのだ!それでもお前は、故宮の姫君なのだぞ!」
「間違いじゃありませんけど、皇女でもないのにそれ言っても仕方ありませんって。私は私、故宮は故宮。認知しなかったんだから、仕方なし。」
「そ、それは母親の身分が……。」
「だから、私も身分がなしで結構。内侍のステータスだけで十分便利に世の中渡ってます。」
「お前は私の猶子だろう!」
 ぐったりと脇息にお伏せになる院でいらっしゃるが、内侍の君は平然としたものであった。
「だから院でお勤めさせていただいてるわけですよ。はい。」
「そうではなくだな…私は、お前に人笑われのせぬ婿を迎えて、立派な後見をつけるまで死ねぬではないか……。」
「廃れ宮の王内侍なんてマトモな公達なら鼻も引っ掛けません、このご時勢。私はそういう人々に娯楽を提供してやる親切心はさっぱりないんで、院にもしものことがあったら波斯風抱えて山に籠もって唐の隠者といわれる人々の心境を追体験したいと存じます。」
 自称現実主義者の主張は実も蓋もないものであった。風流も可愛げもない台詞を残して、さっさと内侍の君は院の御前から逃亡したのである。
 院は深く深くため息をついた。
 院と故宮は音曲をたしなむお仲間として親しく交際なさっておられた。故宮はかつて犬宮とも呼ばれた女御を出された仲忠卿の一族であられる。仲忠卿の時代はかなりときめいたご一族であられたのだが、犬宮の女御が亡くなって以来没落してしまわれた御家系となったのであった。代わりにときめいたのがかの六条院の御一族であられ、院もこの流れに属される。
 仲忠卿の御一族は琴の天才としても知られていた。始祖である清原俊蔭殿は唐に渡って琴の秘曲を修められ、天人より十本の名琴を授かって帰朝なさった方である。仲忠卿の母尚侍や卿御本人、御娘の犬宮も名高い天才であられたという。
 かの六条院の御手も満座が落涙なされるほどのものであったそうだが、院は唐渡の手には新しい趣があるかもしれないと思い立たれ、楽部別当をなされていた帥宮をお訪ねになったのが春宮であられた頃であった。帥宮は皇位にも出世にも感心のない方で、面白い曲を書かれたり琴の秘伝を書に残されたりと楽律の研究に専念なさっておられた変わった方であった。院とは大層意気投合なされ、若くして亡くなる前に忘れ形見の姫君を託して行かれたのである。
 故宮にもそれなりに通うところはおありだったのだが、いかなる縁か見事な琵琶を弾いていた播磨守の姫と深い仲になり、姫君を一人儲けたのであった。しかし北の方とするにはあまりにも御身分がなかったので、召人のようにしてお傍に置いておられたのだが、流行病で亡くしてしまわれたのである。端は取り立てて素晴らしいとお見受けする方ではなかったのだが、優しく愛嬌のあるよい妻であったと宮のお悲しみは大変なものだった。その後を追うようにして一年後、宮もはかなくなってしまわれたのである。
 院は引き取ってきた姫君を大層にお育てすることもお考えになったのだが、何しろ母君の身分が低いので、かえって宮仕えに出し、確固とした身分を与えてから殿上でよい貴公子に巡り会ってもらいたいと願って内侍となさり、ご自分のお世話をさせておられた。姫君は父宮のご友人であられた院をおじさまと慕っておられたので、本当の娘のように気安くかいがいしくお世話をなさり、心隔てのないお話もなさるので、院のお一人住まいも楽しいものとなったのであった。
 しかしあまりに伸び伸びと育ててしまったせいか、内侍の君には全く色めいた話が浮上しないのである。院の御用以外に内裏を出歩いたりしないせいでもあるし、院の御来客の時は部屋に籠もって出てこないためでもある。せめて傍に控えていれば、ご自分の元に訪れる風流な公子達に紹介するのもやぶさかではないと院は考えておられるのだが、そういう時に限ってしゃしゃり出てくるのは枯薄のような容貌の年増の命婦たちばかりで、闊達な内侍の君は文倉か部屋か楽房に閉じこもっているのだった。
 院の御許に伺候なさる公達の中でも左近少将殿は内侍の君と仲良しで、よく前栽の前で立ち話をしておられる。権勢はないが名家の御子息だし、努力家でもある少将殿であれば、養女の姫を差し上げようとも思われる院なのだが、当人たちはそのようなご関係では全くなかったのであった。
 院の御前から逃亡中の内侍の君は、蔵人所の前庭で蹴鞠をしている左近少将を発見して声を掛けた。おーい、と手を振っている内侍の君に気がついた左近少将はひときわ高く鞠を蹴り上げると仲間の輪を抜けて高欄の辺りに寄って来た。
「頭中将が主催の蹴鞠会なの?」
 いとも気安く尋ねる内侍の君に、うんと頷く左近少将である。これを優雅なお貴族の暇つぶしと思ってはいけなかったりした。
「東宮命令の特訓中なんだ。右近の連中に負けてたまるか!」
 勢い込んでいるのだが、肝心の頭中将君が桜の木の下で太平楽に昼寝を決め込んでいるので効果半減であった。
「特訓してんのは少将と侍従殿だけじゃんよ……。」
 お、内侍、と手を振りながら、空中二回転を決めて華麗な足技を披露している侍従殿にも手を振る。他にも公達がおられるのだが、内侍の君には知った顔ではないのであっさり無視である。
「へえ、それにしても近衛府の左と右で争ってんだ。でまた院の御指導を仰いだわけ?」
「そういうわけ。院の御指示を東宮が聞いてきて、目下俺らをしごきにしごきまくっているとそんなとこ。」
「…無意味に熱い争いだねえ。」
「そーゆーなよ。こうして日々精進しているからこそ新しい技を開発できんだぜ!」
 精進するところが完全に間違っているような少将殿の発言ではある。別にいいよ、そんなの開発しなくたって、とはシビアな内侍の君である。
「近衛府も無駄に雅だなあ…だから武官組織が形骸化してるとか、地下の東男に滝口の武士が負けるとかいう話が広がるんだぞ。本業に精を出すのだ、本業に。」
「それをやったら殿上人じゃねーだろうが……。」
 左近少将の言うことはもっともで、内侍の君も納得せざるを得なかった。
「んで、お前はどーしたの?」
「いや、院に説教くらいそうになったから校書殿に駆け込もうと企んだら君たちを見つけたわけですよ。」
「相変らずお前もマニアックだよなあ……。」
「マニアック上等。このままお局様として居座って后宮に『白氏文集』を御講義申し上げてもいい。」
 ふん、と威張っている。少将は頭を抱えてしまった。が、内侍の君が院の御所に上がってからの古い馴染の筒井筒でもあるので、諦めたらしい。
「んじゃ、とっとと行けば、校書殿。その内関白か東宮かが現れるぞ、間違いなく。お前、嫌いだろ。」
「おーさ。あっちこっちから被害報告を受けている真葛さんの身にもなってくれたまえ。ああいう風流な人々は純情可憐な世間知らずの女房に手を出さずにいてくれと心底願うよ。お陰で宮廷女房辞職する羽目になった人は十指で足りないんだ。だから、君はまっとーな姫に通って、まっとーな生活を送ってくれたまえ、左近少将君。」
「俺のことより自分の頭の上の蝿を追えよ……。」
 呆れ返った少将だが、内侍の君が陽気に手を振って校書殿の方へ消えるとまた蹴鞠特訓を再開なされたのであった。


まえのおはなし / つづきのおはなし
とびらぺーじにもどる