

打倒右近!もいいけれど、他にすることはないのかとぼやきつつ校書殿に入った内侍の君は、院のお名前を使って無事に進入を果たしたのであった。和歌の本や楽律の本に一瞥をくれながらも、真っ直ぐ進んで行ったのは史部の棚である。こういうものを読んでばかりいるから縁遠くなるのだと院はお嘆きになるのだが、内侍の君の御趣味を知るのは院と左近少将程度であった。ごっそりと抱えて自分の局に戻るのが常なのであるが、今まで借りていた部分の続きが気になった内侍の君は立ち読みするべくぱらぱらと頁をめくったのであった。
そしてすっかりはまってしまったのである。
本格的に褥も敷かない板敷きの床に座り込み、垂髪を耳に挟み、真名の世界に没頭してしまった。時々面白いのかくつくつと笑っている。かなりな速度で読み進める内侍の君は、密かに校書殿に出入りする文章生の憧れであったりもするわけなのだが、何しろ殿上人にあらざる身分が手を出せる人ではないので、声を掛けることも憚られているのである。
気さくに挨拶もしてくれて、始終現れ、漢籍の造詣は極めて深いのだが決してひけらかしたことはなく、やたら歌を詠みかけるわけでもない院の内侍は、校書殿ではちょっとした有名人であった。本来なら深窓に住まわれる方で、御簾内から出ない御身分のはずなのだが、宮仕えをしているためにあちこち出没しているので地下の官人達の憧れになってしまった。また本人が身分というものを気にしないので、用があれば堂々と話しかけるのである。しかし調子付いて色めいた歌などを下手に詠みかけた僭越者は返歌一つで見事に秒殺されるので、不埒なことをしようとする者もいないのであった。というのは頭中将や左近少将といった高貴な殿上人とも内侍の君がお付き合いしているのを近くで何度も見ているからで、権門家の御子息たちに睨まれて不用意に自分の出世街道を閉ざすようなことは誰もしたくないからなのだった。
かくして院の内侍は今日も楽しく心のどやかに『史記』などを読んでけらけらと笑っていたのであった。
「…おい。」
何か聞こえたような気がするが、自分には無関係と割り切って内侍の君は頁をめくる。物語は佳境に入っているのである。
「……おい!」
うるさいから誰か対応してやれよ、と内心で思っていたのだが、そんなことは筋のアクロバット的展開にあっさりかき消されてしまった。
「…………お……。」
「そーだっ、さすがは天才張子房!」
ぺんっ、と頁をぶったたいて盛り上がっている内侍の君はついに第三者には意味不明なコメントを発してしまったのだった。そこへばたばたと駆け寄ってきた校書殿職員が、内侍の君を見つけてあわあわと身振り手振りをしている。はい?と自分を指差してようやく現実世界に戻ってきた内侍の君が職員の指示するままに目の前を見ると、膝を抱えてしゃがみこんでしまった公達を一人発見した。ここでようやく先程の声が自分を呼んでいたのかと思い当たる内侍の君も内侍の君である。公達に気づいた様子に安心していなくなる校書殿職員君を慌てて引き止めたくなった内侍の君だった。
公達はどうも自分に用があるらしいのだが、院に用ならこんな所へは来ないわけで、それ以外に用となるとろくな魂胆でないのは消去法ですぐに察知できるところである。というわけで内侍の君は長居無用とばかりにさっさと立ち読みの『史記』を帙に納めて、そそくさと消えようとしたのだった。
「すみませんうるさかったですね失礼しましたお邪魔しました。」
完全に論点をすりかえて棒読みの謝罪と共にさっさと退場しようとしたのだが、失敗した。というのは、
「てめー、何回俺様を無視しやがったと思ってんだ!」
といきなりすごまれたからである。
「いえ…本読んでまして気付きませず…失礼をいたしました。ではさらば……。」
ぺこん、と頭を下げてから関わらないようにしようと顔も見ずにさっさと逃げ出す内侍の君である。
「ちょっと待て、真葛!」
「はい?!」
見ず知らずの他人にいきなり呼び捨てにされた内侍の君はむっとして振り向いた。大体どうして知らない人が本名を知っているのかどうかも謎である。失敬なと食って掛かりたかったが、掛かれなかったのは相手の方が身分が高かったからというだけの理由であった。
東宮相手に罵声を浴びせて院に迷惑かけられない。
内侍の君にも一応自制心というものはあったのだった。が、あくまでも東宮だと気付かなかったことにしようと結論した辺り、十分失礼である。
「お前、どーして俺様が声掛けたらいっつも逃げんだよ。とっくり説明してもらおうじゃねーか。」
碧眼紫髯、という単語を内侍の君が思い出してしまったのは、東宮様が見事な碧眼だったからである。なおお若いので当たり前だが髯など生えていない。その代わり柔らかそうな亜麻色の髪の毛をお持ちで、当代の美意識とは相当かけ離れていながらも端正なお顔立ちと相俟って、これこそ輝く日の皇子と大層美男として名高い風流公子を極めておられるのだった。お陰で帝の影が霞んでいるのである。
しかし人間容貌が良ければオールオッケーというわけでは当たり前だがないのであった。
大体いきなり喧嘩売ってくるような女たらしに出くわしたら、揉め事に巻き込まれないうちに逃げるのが当然じゃないかと内心で悪態をついた内侍の君である。伊達に身分の低い女房友達が何人もこの宮に泣かされてきたのではないのである。俄然反抗心が勃々と沸き起こってきても仕方ないのである。
「お手間は取らせません。東宮様のような御身分の高い方と私では住む世界が違うので下手に関わりたくないというだけです。以上。」
ばっさりやられて固まった東宮様だった。拒否するにしてももう少し婉曲とか歌とかいうものがあろうに、率直もここまで来ては喧嘩を売っていると同義である。
「おい。俺様にそんな口叩いて、内裏にいられなくなってもいいのかよ。」
「願ったりですから、どうぞ御随意に。」
辛うじて脅し文句を口にしたのだが、執着のなさとはなんとも怖いものである。再び固まった東宮様の目の前を、帙を抱えた内侍の君がすたすたと通り過ぎた。かと見えた。
慌てて突嗟に内侍の君の長い髪の毛を掴んだ東宮は、にやりと口元を綻ばせた。
「逃げられると思ってんのかよ。」
さてどう料理してやろう、とは早まった油断である。こちらもにやりと笑った内侍の君は、さっと首の後ろに手をやって、袖を掴まれるより前に元結を解いた。
「!」
東宮の手の中に、ばさりと長い髪の毛が落ちる。自分が手にしていた長い髪が髢だったと知って呆然とした東宮を尻目に、尼削ぎの髪の毛を誇らしげに揺らしながら内侍の君は振り返らずに駆け去った。
「あ、待て!」
待てと言われて待つ人がいるわけないのである。東宮は手の中に残された黒髪をぼんやりと見つめた。
衣だけを残して逃げる空蝉ならばいざ知らず。
髪を切り捨てて逃げたのは、かの藤壺の宮。
「俺が一体、何をした……?」
呟いた東宮は、その場にへたり込んだ。
桜の下で胡琴を奏でていた音色の珍しさに、曲の説明を聞きたかっただけだというのに。色めいた心が皆無だったとは言わないが。
哀調を主とする胡琴にしては珍しく、咲き誇る桜に相応しい陽気で華やかな旋律だった。思い出すままに琴で再現しようとして、見事に失敗したのだ。院の御所で見かけたので院ならば御存知かと質問しに行ったら空振りで終わったのは前述の通りである。
東宮を救ってくれたのは御友人の左近少将だった。蹴鞠会にまで低気圧のまま現れた東宮に叩き起こされた頭中将が、どうして怒ってるのさー、なぞと尋ねた結果、関白殿に相談したら散々笑われた顛末をお披露目になったのである。すると左近少将が、
『真葛?そりゃ院の内侍だろ。』
とあっさり教えてくださったのだった。持つべきものは御友人である。
『お前、知ってんのか!』
『知ってるも何も…古い付き合いだし。変人だということは良く知って……。』
掴みかからん剣幕で食いついた東宮に、左近少将殿は相当引いたのだが、侍従殿が、
『あ、院の内侍だったらさっき校書殿に行ったぞ。』
と余計な情報を教えて差し上げたために、東宮閣下はぐるり反転、校書殿に駆け込んだのであった。左近少将が内侍の君にいたく同情したのは別の話である。
院の御所には散々参上している東宮なのだが、一度も内侍の君に会ったことがないのを考えると、避けられているという結論に達するのも無理はない。加えて。
あの若さで、どうして尼姿のまま御所勤めをしているのだ?
手に残された髢は新たな謎を置いていっただけである。