弦楽小夜曲

春霞之段


 何はともあれ、迷惑をこうむったのは院であられた。というのは、戻ってきた内侍の君は宿下がりの許可をいきなり申請したのである。おまけに尼削ぎの正体を現しているという状態だったので、危うく昏倒なされかけた。口うるさい命婦達を遠ざけて琴をなさっていたのがせめてもの幸いである。
 宿下がりといっても、故宮の屋敷は宇治の山奥だった上に、召し使う者もなくなったまま荒れ果てているところなので、院は一言で却下なさったのだった。おさまらないのは内侍の君である。
「大体人の髪の毛いきなり引っ掴みます?!あの色ボケ宮の被害報告は耳が腐るほど聞いてましたけど、まさか自分に被害が及ぶとは考えたことがありませんでしたね!あの人は裳裾引いてれば誰でもいいんですか?業平気取りか平中気取りか知りませんけど、至極健全な私には迷惑なんで、ほとぼり冷めるまで宇治に蟄居させてください!」
 髢を解いて逃げ出したんだ、と力説する内侍の君に迂闊な反論もできず、院は取りあえず宇治行きを止めさせようと説得をお尽くしになられた。
「しかしお前もあの長い髪を惜しげもなく故宮の亡くなった折に切り捨ててしまうものだから、このようなときに馬脚を現すのだぞ。」
「出家大いに結構。髢でなかったら、あの不良東宮に捕まって締め上げられてます。命拾いをしましたよ、全く。」
「お前、どこかで東宮に会ったのか?」
 院の素朴な質問に、断固首を振る内侍の君だった。
「そうか?先日東宮が、こちらに胡琴を見事に弾く女房がいるはずだが、教えてもらいたいと尋ねていたぞ。」
「ぐわ!あの時いた物好き、まさか東宮だったんですか!」
 頭を抱えてへたりこむ内侍の君だった。
「っちゃー…内裏の関係者には私が楽器弾くってことは知られたくないのに……。」
 よりにも寄って東宮か、と毒づいた。当代和琴を弾かせればこの方の右に出る者はないと誉めそやされているお方なのである。それならば探しに来た理由も何となくわかった。琴譜の研究もなさる宮なので、唐の秘曲に気付いたのであろう。
 内侍の君は父宮に教わった秘曲を迂闊に外で弾いていたことを痛烈に後悔した。今までは外で弾いていても命婦達や左近少将や侍従殿が全く無関心なので、そんなものだと安心しきって院の御所ではのびのびと弾いていたのである。
「やっぱり俊蔭卿伝来の大曲は迂闊に弾くのをよそう……。」
「だから、そろそろ内侍という身分を大事にして、私の見繕う婿を取ってだな……。」
「内侍なんて身分が何のガードになるんですかっ!けっ女房風情が喧嘩売ってんじゃねーよと言いたげなあの傲慢不遜な東宮が押しかけてきたら何の役にも立ちません!唯一の解決はエスケープ!」
 さしもの院も東宮に対するフォローのお言葉が見つからないようである。音曲や蹴鞠に関して一番弟子であられる東宮は院御鍾愛の宮なのだが、下々に対する高飛車な物言いと口の悪さはどうにもおできにならないのだった。加えてあまりに何でもおできになる上風采もご立派のために、色好みの名をほしいままになさっているので、さしもの院も内侍の君に関して詳細をお知らせするのを躊躇なさったのである。というのは、東宮の御寵愛が一月以上続いたためしがないからなのだ。
「あれだけ荒れた山荘なら、かえって危険だろう。駄目だ。院の御所にいなさい。」
 盗賊も出るし野生動物も出没するし下人共が入り込んでいる可能性もあると諭され、ようやく内侍の君は諦めた。そしてとぼとぼと御自分の局に帰っていったのだった。
 しばらくして院の御所が賑やかになった。また院に華やかな来客があったのだろうと、面白くも何ともない内侍の君は襖をかぶって不貞寝してしまった。

 東宮様が恋に落ちたらしい。
 どうやら今度は相当らしい。
 御所内を一瀉千里の勢いで駆け巡った噂に、お相手は誰だと女房始めお妃方まで黄色い悲鳴を上げた。ただでさえ歩くたびに黄色い歓声と溜息が乱発される宮だというのに、こうなってしまっては期待と落胆で収拾がつけられない状態と化している。
 お親しい関白殿はあちこちで捕まって情報提供を求められたわけなのだが、
「教えてくれへんのや。けちんぼさんやからなあ。」
と相変らずのらりくらりとかわしておいでになる。
 論を待たずしてそんなのははったり以外の何物でもなく、関白殿は東宮の捜しておられたのが内侍の君だということから氏素性までをきちんと調べ上げておいでになったのだった。というわけで御自分も一目見てみようと目論んでおられるのだが、校書殿の一件以来世をはかなんでいるというよりは不貞腐れている内侍の君は院の御用に立ち歩くこともなかったので出会わないのである。色好みの関白殿のことであるから当然調べ上げた内侍の君の局に勝手に押しかけて、あまつさえ篭絡した命婦の一人に手引きまでさせたわけなのであるが、相手が悪すぎたというほかはない。警戒を怠らない内侍の君は、毎晩寝る場所を変えた上に徹夜して過ごし、睡眠は昼にゆっくり局で取っていらしたのである。
 宮が恋に落ちたっちゅーのは語弊があるで?
 関白殿は唸っていた。何よりも、宮は『院の御所にいる変な奴』に好奇心というものをすさまじくそそられたらしいのである。面と向かって喧嘩を売られただけに留まらず、尼削ぎを髢で誤魔化していたというくだりでは関白殿も絶句したほどである。尼姿の人間が宮中うろうろしとったらまずいやろ、とおっしゃる関白殿に、そんなのをあの院が隠しているのも妙だろう、と東宮様は応じられたのであった。
「おや、関白殿。」
 呼び止められて、足を止めた。束帯姿の食えない微笑みの上達部が笏を手に立っておられる。
「なんや…右大臣殿やあらへんか。どないしはったん。」
「麗景殿女御のご機嫌伺いに寄った帰りでな。帝の御様子を拝見してから退出しようと考えている。」
「まめなこっちゃな。感心するで。」
「何の。氏の長者である貴公ほどではない。」
 口の端を引き上げる関白殿である。
「麗景殿女御…ああ、あんたの妹さん、お元気やった?」
 鼻で笑ったのは、麗景殿様にまだ男皇子がお生まれになっていないからである。悠然と扇をお使いになる関白殿に、右大臣殿は、
「ああ。面倒でも血は水より濃いと言うからな。しかし関白殿も変わった趣味をお持ちだ。直系でもない五の宮に肩入れをして、何が楽しい?…ああ、先帝の登花殿女御は産まず女であられたからな。」
とやり返した。そーやねー、とにっこり笑う関白殿である。
「まま、お従兄弟殿にお会いするべくお急ぎの右大臣殿の足を止めてまって、悪かったな。」
「いやいや、こちらこそ御多忙の関白殿を引き留めて悪かった。そうそう、たまには帝の御許に伺候なされたが良い。貴公の顔が見えぬと時折御不興であられるぞ。」
「よしなに取り成したってな、右大臣殿。」
 飄々と立ち去る関白殿であった。が、腹の中まで飄々というわけには行かないのである。
「あいつ、一回しばいたる……。」



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