弦楽小夜曲

春霞之段


 したいことをしないというのはフラストレーションがたまるものである。まして、する気になればいつでもできるというのであれば、自己規制が甘くなるのは人間の常である。
 というわけで、五日間、きっぱりと楽器断ちをしていた内侍の君は不貞腐れるとかいらついているを通り越して爆発寸前であった。あまりの機嫌の悪さに、普段若輩者と侮って仕事を全然しない院の命婦たちが、そそくさと内侍の君の顔色を伺うようにして御用聞きを始めたほどである。別段内侍の君は他人に当り散らす性分でもないし、普段から理不尽なことは言わない上に、腰が軽いのでさまざまな用事を難なくこなしていつも立ち働いているのであるが、今度という今度ばかりは笑顔が怖かったり呼ばれた返事がドスの効いた声だったりしたもので、動かない命婦達もおののいたのである。
 何しろ、あまりに役に立たない上、迷惑気にしている院につきまとい、北の方気取りでいた女房を一発で解雇した前科があるのだ。お役御免にされてはかなわないと命婦達は内侍の君の機嫌を取るのに必死だった。他の大家のように多すぎる人数に埋没することもなく、適度に花の公達たちがうち連れてやってくるのを観賞する楽しみもあり、院も風雅な方であられるとあっては宮仕えの穴場スポットなのである。追い出されて、もっと派手ではあるだろうけれども仕事がハードそうな職場に行くのは誰だって嫌なのだ。もっとも内侍の君は、院が耐えかねて愚痴をおこぼしになったので、日頃から大恩のある院のために一肌脱いだつもりしかない。
 毎日暇さえあれば楽器をいじっていた人が五日間弾かないとなると、禁断症状が出るだけではなく腕がなまるという現実的な問題も発生する。腕を落とす気はさらさらない内侍の君にとって、そちらも問題だった。
 かといって、また誰かに聞かれて変な好奇心をあおり、この間のように髪の毛−幸いにして付け毛だったのだが−を引っ掴まれるなんてスリルは沢山である。仕方ないので、折衷策として塗籠の中で弾くことにした。音がしていても姿が見えないのなら何とかなるという理屈である。万が一しつこい客を無視しなければならなくなった時のために非常食糧までを少々搬入し、円座と褥という休憩用グッズも持ち込み、燭台も持ち込み、中に篭って戸締りを厳重にしたのだった。非常識な人が戸を蹴破ったりしないよう−かの六条院は女御の母御方を手に入れられるため、実際狼藉をなさったことがおありだそうだ−念には念を入れて、扉の前に山と唐櫃を積み上げるという徹底振りである。
 かくして五日ぶりに胡琴を手にした内侍の君はいとも満足そうな表情を浮べて、自分の世界に埋没したのだった。
 故宮という方は院と同じほどの音楽通で名が通っておられたのだが、その上に母女御のお血筋から受け継いだ秘曲や手というものを沢山御存知であった。宮にはお子様が姫君お一人だったので、さして取り得もなく先祖の名を汚すばかりであった自分の恥をすすいでくれるのはこの君よと、全身全霊をかけて御教育になられたのである。姫君は大層物覚えがよく、一度聞けばどのような大曲でも楽々と弾きこなされ、またそれが大層素晴らしいので、お教えになる父宮までもが涙を流されるほどであった。これは犬宮の女御の再来か、いや仲忠卿の再来ですらあるかもしれないと、滅茶苦茶なことまでおっしゃっては喜んでおられたのだから、まして通でない方々は尚更である。一番クールなのは御本人で、内侍の君は、まだまだ精進が足りないから俊蔭卿も渡ったという唐で自分も修業に励みたいと言い出し、故宮や院に必死で説得されて思いとどまっておられたのだった。やりかねないのである。
 他の姫であれば御簾内よりまず出ることはないのであるが、故宮はお手元が不如意だったので召し使う女房なども数少なく、気の利いた者となれば皆無に等しかったので、姫君は立派に自立して育ってしまった。母君は受領の娘とはいえ俗事に疎かったのだが、両親二人が浮世離れしているために家はどんどん傾き、前栽は伸び放題、塀は崩れ放題、床板は外れる雨漏りはするという状態が加速しては黙っていられない姫君だったのだ。かくして立ち上がった姫君は、日々をお嘆きになる宮御夫妻と女房達というものを早々に見限り、手ずから土塀を繕ったり草をむしったり炊女の仕事に手を貸したりと奔走なさっていたのである。無論母宮父宮はおろか、女房から院に至るまでが事あるごとに止めたのだが、
『俊蔭卿伝来の名琴が盗まれたり湿気て駄目になったりして構わないんですか?!』
という姫君の一喝に正統性を見出さざるを得なかったのだった。誰も手伝おうとか援助者を付けようとかしなかったのは余談である。
 昔から楽が絡むと人の変わる姫君ではあったのだが、人前では滅多にお弾きにならない。院は内侍の君のお手を出来れば一の院や帝をはじめ月卿雲客の御前で披露なさりたいのであるが、本人が嫌がって逃げ出すのでどうしようもないのだった。つまり、凡庸の姫君ならば部屋から出ないので心を尽くして説得−膝詰め談判ともいう−なされば根負けしてか心根が素直なためか納得して頂ける場合が多いのであるが、内侍の君の場合は物理的に遁走しているので不可能なのだ。山で父宮と住んでいた時でさえ屋敷中を総点検し、自分の生活を確保して楽器を保護するため奮闘していた内侍の君である。まして出仕して内裏中行かないところはないというまでにまめまめと動き回っている現在、隠れ家だのそれを提供する友人だのには事欠かないのだから、遁走するなという方が無理である。
 体面かなぐり捨てている内侍の君が普通の姫と同じ発想をするわけもなく、そもそも普通の姫は一人で放り出されれば餓死してしまうのがおちなのに、この人は生活能力というどう考えても貴族に不必要なものを持っている事とあいまって、唐留学計画というものも持ち出されるのであろう。身寄りを亡くしておられる本来お心細くあるべき境遇なのだが、係累がないからいっそ唐土の土となっても構わないという、阿部仲麻呂殿が聞けば目を白黒させて卒倒なさりそうな結論に達してしまっているのだ。
 聞く者が聞けば内侍の君の手は国士無双の腕前なのだが、本人が納得していないので無謀な計画も多々出されるものと思われる。
 日頃は胡琴を奏でている内侍の君が琴を弾くのを知っているのは、今や院だけになってしまわれた。その胡琴も院の御所の奥か、今に至っては塗籠で弾いているのだから、名手として名が上がるのは右大臣家の四の姫や桐壷の女御などである。
 その桐壷の女御御自慢のお手を、
『聞くに耐えねー』
と酷評なさる方が、たまたま院をお訪ねになったのであるから、巡り合わせが悪かったとしか思われない。蹴鞠必勝法を仕入れに院の御所へ上がられた東宮は、僅かにではあるが確かに洩れ聞こえる胡琴の音に足を止めた。
 …何の楽器だ?
 琴でもなく筝でもなく琵琶でもない。当然ながら笛でもないので、日頃聞き覚えのある音とは全く違う。違うのだが、しみじみと懐かしく思われる音の調べに、ついふらふらと寄って行かれて、途中で思い出した。
 桜の下で不思議な楽器を弾いていた女房の姿を。



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