

音を頼りに小走りで局に近付いた宮を止めるような殊勝な命婦はいなかった。命婦自体が出払っていたのである。というのは内侍の君が普段している諸所へのお使いを今日という今日は自分達がせねばならず、御所のあちこちで迷子になる者が続出したのである。加えて内侍の君よりも世間知らずに育ったため常識のない者たちも多かったので、あちこちでトラブルが発生していたのだった。院の御前でも粗相の連発で、たまりかねた院は全員叩き出し、お一人で琴をたしなんでおられるのである。
かくして無人の人様の局に侵入しおおせた東宮様は、音源が塗籠の向こうだという所までたどり着いたのであった。しみじみと懐かしい曲が終わって、歌でも読みかけようと息を吸い込んだ途端、容赦なく陽気な曲が始まる。
速い。目まぐるしく上下する音階に、しかしあやしいところは全くない。どうしたらこれほどに色々な音を出せるのかと東宮は呆気に取られる。琴を研究してこられた宮であるが、楽器も得体が知れない上に曲も初耳で、駄目押しのように弾いている技術まで推測不能なのである。
板敷きの床に座り込んだ。
聴衆がいるとは夢にも思わない内侍の君は揚々と弾き続け、院の御所へ参った目的を忘れてしまった東宮は笏で拍子をお取りになる。
一曲弾き終わり、夢から覚めたように手を叩こうとなさった東宮だったのだが。
間合いは最悪で、次の曲が華やかに始まった。内侍の君のフラストレーションは最大限に達していたらしい。その上に、籠もって弾いている間に外界の存在をすっぱり頭から切り落としてしまい、秘曲を弾き散らしているのである。当然ながら耳のすれからしている東宮にも初耳な曲で、論評どころではない宮はただただ口を開けてお聞きになっていたのだった。
一曲、また一曲。故宮の手だけでなく、犬宮や仲忠卿のお手も取り混ぜて弾き続けるのである。音楽の饗宴といってもよい演奏を、塗籠の外で独占するのは坊の宮ただ一人。
さすがに一人で琴をなさるのにお飽きになった院が、養女の君の御様子を気にかけて渡ってこられると、灯火も入っていない暗い局から妙なる曲が流れてくる。覗き込むと、どうやら壁に向かって座りこんでいる公達らしき影がある。色めいたお話もない内侍の君のことなので、院は柱の陰から、公達の姿をお確かめになろうとしたのだが、いかんせん暗すぎた。そのうち公達が歌を詠みかけるだろうとお思いになってお待ちになることにしたのだが、その隙を与えず矢継ぎ早に内侍の君の演奏が続くのだ。このままでは折角物好きにも飛びこんでいらした婿がねが逃げてしまうではないか、と院の発想は相当飛躍なさったのであった。
当然ながら塗籠に篭城中の内侍の君は聴衆がいるだの院が来ているだのということは全く知らずに、好き勝手に弾き散らして芸術を爆発させていた。どうせ命婦は出払っている上に、音楽に興味はないのである。ここに居座ることもないし、となれば今日こそは自分の天下だと意味不明なハイテンションでアドリブまでぼこぼこ入れながら胡琴を見事に弾き散らしていたのだった。
一体、こんな手を持っている姫はどんなお姿なのだろう、おっと女房だった姫じゃねえ、とロマンティックなんだか手が早いだけなのか現実的なのかわからない発想をなさる東宮も東宮なら、久し振りに聞けば見事に上達している、これだけの才能を院に埋めておくのは惜しい!と相当にずれた感慨でお袖をお濡らしになる院も院で、
「あのー…院、灯りも点けんと、何でそないなとこに立ちはっとるんです?」
とげんなりした関白殿が道理を説くまで二人とも固まっていたのだった。まことに素晴らしい内侍の君のお腕前と申すべきであろう。
「おお、灯りを持ってこさせよう。女房は……。」
「散っとりましたで、相変らず。きっと坊の追っかけ…何や、おるやないの。」
タイミングよく紙燭をお持ちだった関白殿は、壁と睨み合って微動だにしない東宮を発見したのだった。というわけで院は、内侍の君婿取り計画を早々に断念なさったのだった。何しろ相手は御寵愛が一月持たない花々公子というわけで、桐壺の御方は絶えずヒステリー気味だというのは内裏中の人々が知っているのである。それでもいいから構ってほしいという後先考えない女房や姫も後を絶たないので、東宮様御乱行は最早内裏の名物、優雅な恋の貴公子といえばこの人というブランドになってしまっていたのだった。ちなみに関白殿もご同類であるが、ちゃっかり御友人の華々しさを盛り上げる側に回っているので、この人の名前はあまり取り沙汰されないのである。本性を知るのは東宮だけであった。
「…夕方からずっと、根が生えたようにあそこに座っているのだ、宮は……。」
「…それは楽が目当てですか、姫が目当てですか?」
「…わからん…私が来たときは既に腰を据えていた……。」
「で、姫さんはいつからおこもりに?」
「知らない…ずっと弾いている……。」
「…あほやんか、どっちもどっちやで。」
やってられんと、関白殿は院に食べ物を要求なさり、蹴鞠の弟子の言葉に院も空腹を思い出されたのだった。というわけで関白殿は殿上童を呼び寄せて酒肴の支度を言いつけたのである。目一杯人様の局にである。その上、調度が足りないからといって几帳だの脇息だのを勝手に運び込ませるのだから、住居乗っ取りと騒がれても仕方ない。それを黙認する院も院なのだが、几帳の一つもない内侍の君の局には呆れ果てたものと見え、どうも関白殿にたかろうとする魂胆が透けていたりする。
かくして散々騒いでいる上に灯りをこれでもかと点けたものなのだが、そんなことは元々真っ暗な塗籠にいる内侍の君の知ったことではないわけで、文字通り時間も寝食も忘れた内侍の君はエンドレスライブを続行中なのだった。というより、既に胡琴の音しか耳に入っていない、一種のトランス状態である。
「おーい、坊、晩飯食わんのー?」
「うるせえっ、静かにしやがれっ!」
自分のほうが騒音公害のような大声で怒鳴る東宮様である。めっずらしー、とだけコメントした現実肌の関白殿はさっさとお食事に取り掛かってしまった。勧められるまま、院もお膳に手をつけた。
何しろ負けん気の強いといえば聞こえはいいが、天上天下唯我独尊、いつか帝を追い落として俺様が帝になってやるぜのとんでもないお方である。どいつもこいつも聞けたもんじゃねえ琴を上手そうに弾き散らしやがって、ばーか、という大層失礼な感想をあちこちでご披露なさりながら歩いていたそのプライドを、木っ端微塵にへし折られかねない危機に直面なさっておいでなのだった。なまじっか文武両道でお姿も大層めでたいので、誰も増長を押さえる者がいなかったものと思われる。
蹴鞠の話をなさいながら、もくもくぱくぱくと夕食を食べている院と関白殿が普通なら、壁越しリサイタルを昼間から続けている内侍の君と、聞いている東宮は間違いなくおかしい人たちであった。案外類は友を呼んでいるのでは、と不吉な予感を覚えた院である。
結局、塗籠から音が消えたのは、お膳が下げられて関白殿と院が双六勝負に夢中になっている最中のことであった。というのは、折角のチャンスなので、
『双六で負けた賭物として内侍の君を関白殿に賜れば、多分数ある妻の一つとして通ってもらえて生活保障をしてくれるだろう→だから押し付けよう』
という院の思惑があったからである。色事に関しては実は東宮に引けを取らない美貌の関白殿は院の思惑をしっかり見抜き、東宮を出し抜き新しい恋人が手に入るというチャンスを無駄にしないよう、せっせせっせと勝ちに行っていたのだった。
が。
胡琴が途切れたと思ったら、次に鳴り響いたのはすさまじい落下音だったのである。