弦楽小夜曲

春霞之段


「おい、どうしたよ!」
 壁に張り付いていた東宮が突嗟に叫んだのは当たり前であるが、その向こうからお世辞にもたおやかとはいえない、あいたたた…やっちまった…というぼやきが聞こえたのであった。もっとも、賽振りに夢中の二人には全然この物音が聞こえていないのだから、精神集中とは素晴らしいものである。
「大丈夫か?!」
「あー…唐櫃が五六個雪崩を起こしましたが、とりあえず人間と楽器は無事です…通りすがりのお兄さん、どうもありがとう……。」
 妙にのどかな返答である。馬鹿にしてんのか、と食って掛かろうとした東宮であられたのだが。
 それきり沈黙。
 ごそごそと何かしているらしいのだが、出てくる気配は皆無である。
「…おい。」
「はい?あ、怪我してないから心配しないでくださいな。」
 ごそごそごそ。
「…なら何で出て来ねーんだ?」
「…君は盗人か?」
 思い切り不審そうに言われたのだが、確かに高貴な方の物言いではないのだった。
「だっ、誰が……。」
「物を取りたいなら東宮様のところが狙い目だよ。あそこ物が溢れかえってて、誰も目録取れなくなってるから、いるものだけ貰ってとっとと逃げなさい。人に手出しするんじゃないよ。富の均分。あ、院の御所はうろついてても何もないからね、びんぼーだから。嘘じゃないから、信じられないなら見てみたら。お陰で春のお道具も揃っていないという有様だから。」
 きっぱり盗賊だと決め付けられた上、説教まで食らっているのかそれとも自分のところに乗り込めと犯行を使嗾されているのか、理解不能である。内侍の君にしてみれば、とりあえず無責任なことを言い散らしているだけである。院の御所に物がないのも東宮御所に物が有り余っているのも事実なのだ。
 そして用は済んだとばかりな沈黙、再び。
 実はさすがに体力を消耗した内侍の君は、肩をぱきぱき鳴らしながら搬入していた非常食料の干し芋をかじっていたのだった。壷に水も汲んできているし、落雁もあるし、おにぎりも持ってきているし、幸せ一杯の晩御飯なのである。ちなみに雪崩を起こした唐櫃六つは、侵入者よけバリケード用に扉に積み重ねていただけなので、バリケードの役を果たしている以上整頓されていなくても構わないのだった。
「まさか、院が不如意であらせられるとは……。」
「うん、そうだよ。お兄さん、いい人だねえ。まあお道具がなくても何とかやってるから、別にいいけどさ。人間住むとこと着る物と食べ物があれば何とかなるもんだ。」
 もくもくと干し芋を食べながらのコメントである。おにぎりに手を出さないのは眠くなってきたからである。
「じゃーね、お兄さん、幸せを祈るよ。」
 これで、胡琴を後生大事に抱えて褥に丸まって寝てしまった。もっとも、壁の外ではそんなことわかるはずもない。
「おい、ちょっと待て!てめえ、出て来い!いつまでそこに籠もってる気だ?!」
 ずっと座り込んでいた人に言われたくないものだが、突っ込んでやれそうな面子は双六に夢中になっている。御所に明かりがついているので参上した左近少将と頭中将は双六真剣勝負に気合を入れて観戦している。これまた現れた侍従殿は、仲のよろしい関白殿を応援して声を張り上げていらした。
 のだが、疲れきっている内侍の君は塗籠で熟睡し、それを知らない東宮は何とかして起こそうととにかく必死で声を掛け続けるという不毛なことを続けていたのだった。歌も詠んでみたのだが、無視である。寝ている人間に返歌が作れれば世話はない。そもそも東宮のお人柄自体が優雅に歌を詠むなどとは程遠い。
 まあその内に出てくるだろうと妙な腹をくくり、東宮は再び不毛な持久戦をお始めになったのだった。とはいえ、ここまで内侍の君の演奏に付き合った宮である。最早、あの妙な奴の正体を知ろうという動機よりも、あの聞いたこともない曲の数々と手をマスターしてやる絶対に、というこれまた妙な向学心にかられていたのだった。
 一方、骰子が意地悪をしたのかなかなかに勝負の決まらなかった院と関白殿がそろそろ決着を見ようとしていた。というのは、さっさと負けて差し上げればよいのに、それも癪だと思われたのか院が半端に手強い勝負をするので、関白殿が迷惑したのである。かといって本気で相手をするほどおとなげなくもない関白殿は、適当な勝負運びでちゃんとお勝ちになったのだった。才能とはこういうものなのである。
「ほな、何か下さいませんとな、院。」
 にーっこりと微笑む関白殿に、院も御満足の様子であられた。この方とご縁が出来れば、少なくとも生活苦だけはないであろう。とりあえず人当りは柔らかい方でもある。と院は思っておられるのだが、東宮にはまた別のご意見もありそうである。
「では、そちらの庭の……。」
 白梅一枝、とでも優雅なやり取りが交わされようとしたところ、またもや邪魔が入った。
「内侍さん、内侍さんはおられますか?!」
 ばたばたと飛び込んできた命婦が血相を変えたのは当然である。日頃洒落のめしてすまして応対している若い公達が、およそ華やかな人々と縁のない内侍の君の局に集合しているのである。あのざっくばらんな内侍の君に会うだけだとたかをくくって、着崩した袿に、走り回ってぼうぼうの髪という格好で登場してしまった命婦の恥かしさときたらなかった。
「おい、起きろ。」
 げん、と扉をお蹴飛ばしになる東宮のお姿までありがたいものと思われる命婦の君の常識も相当絶滅の危機に瀕していると思われる。それに人間名前を呼ばれると結構反応するものなのだ。特に職場にいる場合。
 ほいほい、と目をこすりながら起き出した内侍の君だが、塗籠は真っ暗なのである。人を真夜中に叩き起こして、という感想はこの場合相応しくない。それほど時間は経過していないのだ。おまけに暗い中でぼうっと立ち上がったものだから、崩れたバリケードに衝突して、偉大な音と共にこけたのであった。
「だっ…大丈夫か?!」
 東宮をして慌てさせる程度に盛大な物音だったらしい。
「っつあー…あー…これどけなきゃ。周防の君、ちょっと待っててね。近頃変なのが多いから戸締りを厳重にしていてさあ……。」
 『変なの』扱いされている人々は、約一名を除いて周防の君に用事を言い付けるのに夢中であった。酒持って来い、おつまみ持って来い、明かり増やせ、殿上童呼んでこい、と、今までの不便を晴らすが如き扱いであった。日頃のさぼりに物言いたいこともたまっておられる院はついでに説教の嵐をお浴びせになる。なので、ようやく唐櫃五つの撤収に成功した内侍の君が塗籠を開けて登場なさった時、ばったり出くわしたのは妙な根気良さを発揮して粘っていた東宮だけだったのであった。
 …天の岩戸か?
 と思ったのが東宮なら。
 まだ昼だっけ?
 と勘違いしたのが内侍の君である。
「…やっと出てきたじゃねーか。」
 口の端を上げてお笑いになる東宮のお声に、内侍の君の顔は引きつった。現実世界に戻りさえすれば、髢解いて逃走した相手の声なんて忘れるわけがないのである。いくら朗々としていようと張りがあろうとそこはかとなく甘い声だろうと、マイナスの記憶に結び付いていれば逆効果なのである。また、えてして悪事を仕出かされた方はしっかり記憶に残しているのだが、仕出かした方はけろりと忘れているものなのだ。というわけで、ここまで出てくるのを待っていたという誠意を見せたにもかかわらず、何故に思いきり引かれなければならないのかと東宮はきょとんとした。
「すみません、そこどいてください。私は用事がありますので。」
 しっしっ、と言い出さん勢いだったのだが、天上天下唯我独尊の人間にそんな理屈は通用しなかった。
「んな、たかが命婦ごときの用なんざあ……。」
「周防さん、内侍さんに何か用なんでしょ!」
 今度こそ大きな声ではっきりと呼びかけたものだから、その場の全員の注目を一身に浴びる羽目になった。
「あわ…院に少将…ええ?!私、院のお部屋に紛れこんでましたっけ?!」
 激しく狼狽したのは、どう見ても塗籠に篭る前の自分の局といちじるしく様相が異なっているのだから当然である。見たことのない道具がぼこぼこと搬入されているわ、大勢来客が来てあまつさえ酒盛りを始めているわ遊び道具が転がっているわという状態である。これは院の御座所で展開されてきた、いや、これからもされるべき光景であって、間違っても一介の宮廷女官である自分のプライベート空間に侵入すべき光景ではないのである。
「安心しな、お前の局だぜ。」
 保証されても正直嬉しくない。硬直している内侍の君を気の毒に思ったか、少将が、
「院のお話を伺おうとしてきたら、こっちだって言われてさ。お前の局ってここだったのかー。結構綺麗じゃん。」
と話を変えようとしたのだが逆効果であった。
「いや、篭っている間に何故か改装されている……。」
「あーそれ。不便だったから色々運びこませてもらったで。」
 目眩のしてきた内侍の君だった。
「…いーんー……。」
 げほんげほんとわざとらしく咳払いをなさるお姿も御立派である。
「周防、真葛に話があったのでは?」
とわざとらしい逃げを打つお姿も落ち着いておられる。が、通用するかどうかは別である。
「さっさと不肖の弟子ども連れて撤収してください!どうして人の部屋に宴会場をセッティングするんですか!」
「いや、セッティングしようとしたわけでは……。」
「結果的にしてるでしょーが!」
 あくまでもどこまでも強気の内侍の君の物言いに、違和感を持たない公達はいなかった。たかだか内侍の御身分で平気で院に楯突いているのである。そして院が小さくなっておられるのである。道理で自分にも強気な対応をしたはずだと東宮は一人御納得なされた。
 一方の内侍の君は憤然として小袿を翻し、東宮の目の前を素通りして周防の君の前にいらした。
「で、用事って?」
「こ、これを六位蔵人様から……。」
 縹色の薄様にしたためられたとおぼしい結び文である。興味もなさそうに袖の中へ放りこんだ無造作加減に公達一同のみならず院までも肝を飛ばしてたまげられた。
「ま、真葛、せめて文くらい見ておやり……。」
「作曲のネタに詰まったら見ます。ではみなさまごきげんよう。」
 茫然とした一同を振り向きもせず、憤然としたまま御簾の外へ出てしまった。ようやく我に返った院が、多々人物に難はあるにしてもこの集団からせめていい加減に手を打って婿がねを決めて欲しいという願いから内侍の君を引きとめようとなさったのであるが。
 こういうことはやはり場数を踏んだ人が強い。
「あかなくも まだきも月の」
 すぱん、と詠み掛けた東宮の勝ちである。返歌をせずに馬鹿にされるのはたまらないというよりは、売られた喧嘩は買う主義の内侍の君の足が見事に止まった。ついでに東宮も露骨に挑戦的である。
 つーより、顔さらして歩いて院に喧嘩売る人間に尋常な手段が通じるわけねーだろ!
 ごもっともである。
 内侍の君は一度足を止めたが、振り返りはしなかった。
「そこでほだされうつほに十年。やなこった。」
 とんでもない返り討ちに、院は脇息へとよろめいた。東宮はあまりの切り捨て方に二の句が継げず、継げない間に内侍の君はすたすたといなくなっていたのだった。
「おい、ちょっと、待て!」
 そこで立ち上がって回廊をダッシュする東宮も東宮なのであるが。
「…院、あないに綺麗な姫さんがなしてああも規格外なんです?」
 双六の賞品を取りそびれた関白殿が茫然と呟いた。綺麗か?と日頃から親しくししている少将と侍従殿は顔を見合わせたのであるが、美的感覚なんて時と場合と思いこみに左右されるものなのだから仕方ないのである。
「…だからせめて婿だけは私が取ってやらねばならんのだ……。」
 ごもっともなおっしゃりようであった。
「いや、無理にと押しつけるつもりは全くない。多分双方のためにならんと思うのでな。」
「無理にどころか喜んで頂きますで。」
 にーっこり。の関白殿の宣言に、少将殿は笏を取り落としてご友人の頭を深刻に心配なさったのであった。院がほっとなさっても、関白殿の本性と内侍の君の本性、どちらも良く知る少将は、ろくな結末を想像できないのである。
 よ、喜べねー……。
 黄昏た少将殿を見て、正確な理由を類推できたのは侍従殿だけであった。


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