

一方、無駄な脚力に物を言わせて内侍の君に追いついた東宮は、何とか院の御所を出る前に捕獲に成功した。内侍の君にとっては大層迷惑な話であるが、さすがに腕を掴まれてはどうしようもない。腕は取り外しがきかないのである。
「ちょっと、待て!」
それも袖を引いて引きとめる公達に、扇で隠した顔を背ける姫君などという優雅なものではない。検非違使が犯人逮捕した瞬間である。呼吸困難で返事もままならない内侍の君は全力で暴れているし、必然的に東宮も手加減なしに押さえ込む羽目になるのである。
何こいつ、ほんっとーに規格外!
「そこまでして俺様から逃げ回るには何か理由があるんだろーな!?」
日頃の行い以外どこに理由が必要なんだ。
「御自分の胸に手を当ててよーく考えてくださいっ!」
ぜーぜー言いながら突っぱねる内侍の君である。袿の裾を広げてその場にへたってしまったので、東宮はきょとんとして文字通り胸に手を当ててお考えになったのだった。何も出てこない。
「何にもないぞ?」
俺様は潔白だ!と言わんばかりに胸を張っている始末である。と、油断していたらじわじわと匍匐前進している内侍の君に気が付いて、今度こそ袿の裾をお踏みになったのであった。べたりと再びへたる内侍の君である。
「だーから、御用があるなら簡潔に要点を述べてください。院に回しますから!」
自分で言えよ。というのが内侍の君の本音である。二日と空けず顔を付き合わせているのであるから、取次ぎが入るより余程早いではないか。
が。
「要点その一。お前さっき弾いてた楽器、あれは何だ。」
東宮まで内侍の君に影響されている御様子である。
「胡琴というもんですが。掘り出せば宮中の倉にもあるはずですよ。」
と、故宮が言っていたぞ、と内心で付け加える。何はともあれ、事務的極まりない質問に安心したらしい。
「そのニ。さっき弾き散らしていた曲、あれは本朝の曲じゃねえだろ。高麗楽か、唐楽か?」
うっ鋭い。と内侍の君がやや引いた。あの院ですら俊蔭卿の作曲と勘違いなさっていた時期があるのだ。その思い込みを是正するため故宮がいかに苦心して曲の来歴をお説きになったか、内侍の君はまだ覚えていた。
「…どっちだと思います?」
にーっこり。と口だけで笑っているのだから、喧嘩を売っているとほぼ同義なのだが、東宮はあっさりと、
「高麗というよりは唐だな。」
などと正解なさってしまわれたのだった。
「当りです。」
「内教坊にも伝わっていない曲を、どうしてお前が知ってんだ。ってより、あれはどういう由来の曲なんだ。」
「さーあー。探せば譜があるかもしれませんよ、内教坊。」
「ねーよ。」
断言した東宮の次の言葉に、内侍の君は仰天した。
「あそこの譜は全部写した。」
…この人、マニアだっ!
自分のことを棚に上げて、よくもまあ考えるものである。いよいよ逃げが打てなくなった内侍の君は、渋々真相を暴露した。
「…御名答。御存知かどーか知りませんけど、清原俊蔭卿が唐から学んで伝えた曲ですよ。」
「何でお前が俊蔭の秘曲を知ってるんだ!」
ひー、と無駄な抵抗で逃げようとした内侍の君だが、しっかり袿は踏まれていたのだった。犯人確保しておいたのはやはり正解だった、と変な感想をお持ちになる東宮である。
東宮が御無体を働くのではないかと飛び出してきた義理人情に熱い少将殿であるが、端から見ても恋の口説と拒否というよりは犯人取調べ尋問と脱走というシーン展開に、割り込むタイミングを掴めず棒立ちになっている。
「私が何を知ってたって関係ないじゃないですかーっ!」
吐け吐くんだなんて締め上げてるんじゃあるまいな、と青くなった少将殿は正しい。
「お前、ただの内侍じゃねーだろ!絶対そうだ、たかが内侍風情が院に盾突いてるだけで十分おかしいが、俊蔭の秘曲を伝えられてるって、お前、何者−。」
「…故宇治の帥宮の姫君で院の御猶子、やな?」
身上調査は完璧だといわんばかりの関白殿が少将殿の背後から声を掛ける。まじまじと内侍の君を見つめ直した東宮など知ったことではない本人は、
「私は凡人だーっ!」
と無意味な叫び声を上げて再度脱走を試み。
無理矢理に袿を引き抜いた反動で回廊と正面衝突を仕出かしたのだった。