范蜀公が死んだらば……


李方叔がさ。
「范蜀公が亡くなってから数日たったらさ、髪の毛から鬚から全部黒々しちゃって、絵みたいに格好良かったなあ。公ってさ、普段からわだかまりもなく気を養ってたから寿命がきて死んじゃっても血気が衰えないで、外に現れちゃったりしたんじゃないかな?」
でもさ、范家の人達は四乳の人が多かったりして、元から人と違ってんだよ。公はまたこんな風に徳があったから、死ぬときも他の諸々と同じじゃないのさ。きっとはかり知れないことなんだよ。元符四年四月五日。


…あの、それより誰も引かなかったんでしょうか?(笑)
さて、この范蜀公に心当たりがあったので珍しく調べてみたらば当たりでした。本名は范鎮さんといいまして、成都出身。蜀郡公になっています。『資治通鑑』の作者、司馬光の親友です。まともすぎて泣けてくるような人だ……。さすがは司馬光の友人だけあって王安石と激烈な喧嘩を仕出かし、当然ながらとばされて(笑)リタイアしたこともあります。それを絶賛するとーば(笑)もとーばなら、まともな説教をぶつ范鎮さんも范鎮さん。ちなみに子瞻さん、筆禍事件で牢屋にぶち込まれたとき、この方にSOSを出したらしく、范鎮さんの上書で助かっております。司馬光の墓碑銘を起草してまして、遺族はそれを子瞻さんに書いて欲しかったらしいのだが、
「僕はいいけど、三家の幸せに影が差しそうで怖くてさあ……。」
と当人が辞退。結局その後とーばは流刑になって中国南部を渡り歩きつつこんなエッセイを書き散らす羽目になるのですから、彼の勘は当たったのでしょう。
『宋史』の列伝96に出てきてますが、さすがにこのあやしい最期の記事は載っていません。(正史にんなネタ載せるなって?載ってたほうが面白いじゃないのさ)最後の子瞻コメントは、范鎮さんの兄上のこと。で、兄上は子供なしで死んじゃったんだけど、『どうも隠し子がいたらしい』という噂を聞いて范鎮さんが探し回り、二年かかって感動のご対面を果たした決定的証拠が。
「兄上の体には四乳があった!きっとこの子にもあるはずだ!」
甥御さんもめでたく(?)四乳で、二人はその後も仲良く暮らしたのでありましたとさ。というしかし、このエピソードが正史に載ってるというのも、一種すごいものがあるなあ。(笑)