教えてあげない


東海の徐則は天台に隠居して、断穀して養生してた。したら太極真人の徐君が降臨して、こうさ。
「お前さんの年が八十を越したなら、まさに王者の師となるじゃろう。してその後に道を得るじゃろう。」
晋王広がその名前を聞いてその辺りに来たんで召し出したわけ。則は門人に言ったんだ。
「我が年八十になって招聘が来たのだ、徐君の言葉は信ずべきであろうぞ。」
というわけで揚州に行ったのね。晋王は道学のハウツーを受講したいと頼んだんだけどさ。日時がよろしくないからって断ったんだ。その後数日して死んだんだけど、体は生きてるみたいでさ、徐則が歩いて帰ってんのを道路でみんなが見てさ、言うんだ。
「お役御免になって山に帰るんだね。」
古巣に戻ると、経書を取って弟子に形見分けして去っていった。とっくに死んじゃってるのにそこまでたどり着いたんだよね。だから僕は徐生が俗世からすっかり超越しちゃった人だっていうのさ。義は煬帝に汚されることもなく、だからその道を伝えることを承諾せずにおいとましたんだよ。徐君の言葉は恐らくちょっとばかし災難を避けただけさ。なんで言うことなすことにびくびくして逃げ出す種族になるっての?違うってさ、煬帝のやったことってのは鬼でも唾をぺぺっと吐くようなシロモノなんだから、まして太極真人がまともに取り合うかって言うのさ!


ご飯を食べながら。電車で少し読んでたので割にスムーズにいきました。徐則さんは隋書と北史の列伝「隠逸」に載ってました。文章は似たようなもんです。周弘正に師事したらしいのですが、師匠がどれだけ偉いのか私にはわかりません。(笑)声名が高かったのですがそれがうっとーしいと縉雲山にこもってしまった時に太極真人と会ったそーです。それからしばらーく経ちまして、晋王広こと後の煬帝が揚州に駐屯したんで、手ずからお手紙を出して呼んだそうな。この年、隋書では八十一になってます。享年は八十二。隋書では形見分けしてから部屋の掃除もしています。まめです。煬帝は余程この人が気に入ったのか、死んでからも徐則に捧げる文章を書いていて、隋書に載ってました。
煬帝ってあっちでは暴君の代名詞なんですね。(『画本実語教』では政君と一緒に登場していたり。どういう扱いかわかるでしょう)こっちでは「聖徳太子が(ビジネスマナーを無視した)手紙を送りつけて(当たり前ながら)激怒した皇帝」程度の認識なんですけどね。