真宗と仁宗の御信任 |
真宗の時、ある人が梅詢を推薦して、
「使ってやってください!」
ってったのね。すると陛下ののたまわく。
「李が、あいつは君子じゃないって言ってたぞ。」
さんの死んだ時から二十余年経ってた頃かなあ。欧陽文忠公が、かつて蘇子容に向かってさ。
「宰相が没して二十年になるのに、主君にずっと自分の言葉を信じてもらえるなんて、どうしてだろうね?」
子容が言うにはね。
「無心に申し上げるからですよ。」
軾もその意見に賛成だね。ついでにね、
「陳執中は俗吏のくせ、特別に公になってからもなお主上に信頼されたじゃないですか。ましてや李公の才識の上に無心でなさるのですからね!」
時は元祐三年の興龍節、尚書省の賜宴でこれを論じてたんだ。この日ね、また王鞏がお父上の仲儀さんの言ってた話をしてさ。
「陳執中が宰相を辞める時、仁宗が、
『誰が貴方に代わるべき者か?』
とお尋ねになったんだ。執中は呉育を挙げたんで、上はすぐ宮城に来るようにってお召しになった。そしたら乾元節の宴に行っててさ、たまたま酔ってて座って寝てたんだよ。たちまち面食らって牀をぶっ叩いて従者を呼ぶのさ。上は愕然としちゃって、即行西京留台になさったね。」
こんなの見るとさ、執中は俗吏っていっても、また賢い人だったんだよ。育さんが宰相にならなかったのは天命だね、こりゃ。でも、晩年は心の病があったっていうから、大きな仕事は難しかったのかな。仁宗は人材を捨てちゃうような主じゃなかったんだよ。
何だか北宋有名人の内輪談義のようでして、私は永叔と子容しかわかりません。永叔は欧陽脩。唐宋八大家にランクインしている割に影の薄い人ですが、同時代の文集に出張ること出張ること。北宋士大夫連のエッセイを眺めだしてからぎょーてんしました。子容先生は本名蘇頌。本蔵書編纂したり、水力駆動式時計塔造ったり、暦学談議してるのでてっきり理系一直線だと信じていたら、なんと『宋名臣言行録』にさりげなく出没していてこれまたびっくりさせられたお人です。子容さん書きたいのになかなか書けませんねえ。
ほかの人も検索かければ出てくるんだろうが、やる気なし。気になったらリンクから中央研究院あたりに飛んで自力で探してくださいまし。