ヨハネの聖書引用
ここでは、私、ヨハネが楽園の父に掲載を命じられた部分を紹介する場です。
主の仰せにより、現代の状況に合わせて修正してあります。
2002/6/29 コリント12章3節より
ですから、私は、あなたがたに次の事を教えておきます。
神の御霊によって語るものは、誰も、「イエスはのろわれよ」といわず、
逆に、悪魔によるものは、だれも、「イエスは主です」とはいわない。
(注意:転生されれば、名は変わるが、その意味は予言と変わらない。)
さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
奉仕にはいろいろの種類はありますが、主は同じ主です。
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべて人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
(注意:これはこの後出てくる臓器の話しとは別物です。人の体が神聖というのは、拡大解釈です。
でも、このことは人の命を軽んじるものでもありません。)
しかし、皆の益となるために、各々に御霊の現れ与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、他のあるものには同じ御霊にかなう知識の言葉が与えられ、
また、あるものには同じ御霊による信仰が与えられ、あるものには同一の御霊によって、癒しの賜物が与えられ、
あるものには奇跡を行う力、あるものには預言、あるものには霊を見分ける力、
あるものには異言、あるものには異言を解き明かす力が与えられています。
しかし、同一の御霊がこれらすべての事をなさるのであって、
御心のままに、各々にそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
ですから、丁度、からだが一つでも、それに多くの部分があり、体の部分はたとい多くあっても、
その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
なぜなら、私達は皆、どんな国のどんな宗教の民であれ、神の前で一つのからだになるように、
一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御礼をいただくものとされたからです。
確かに、体(世界)は一つでも一つの器官(主義)ではなく多くの異なる器官(主義)からなっています。
例え、足が、「私は手ではないから、体に属しない」といったところで、そんな事で体に属さなくなるわけではありません。
もし、体全部が目であったらどこで聞くのでしょう。
もし、体全体が聞くところであったなら、どこで嗅ぐのでしょう。
しかしこの通り、神は、その御心によって、体の中にそれぞれの器官を供えてくださったのです。
もし、全部が同じただ一つの器官であったら、体は一体どこにあるのでしょうか。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」というようなことは出来ないし、
頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」ということも出来ません。
それどころか、体の中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私達は体の中で比較的に尊くないとみなす器官をことさらの尊びます。
こうして、私達の見栄えしない器官は、ことさらよい格好になりますが、
格好のよい器官にはその必要がありません。
しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、体をこのように調和させてくださったのです。
”それは、体の中に分裂がなく、互いにいたわり合うためです。”
(その人がとんでもなくマゾヒシズムや逆にサディズムでなければ、)
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であって、一人一人は各器官なのです。
2002/6/30 ピリピ2章12節より
そいうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、
私の居ない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立たせ、事を行わせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。
それは、あなたがたが、非難される事のない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代の中であって傷のない神の子供となり、
命の言葉をしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は、自分の努力したことが無駄でなく、苦労したことも無駄でなかったことを、
キリストの日に誇ることが出来ます。
たとえ私が、あなたがたがの信仰の供え物と礼拝と共に、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。
あなたがたすべてと共に喜びます。
あなたがたも同じように喜んでください。
私と一緒に喜んでください。
しかし、私もあなたがたの事を知って励ましを受けたいので、テモテをあなた方のところに送りたいと、
主イエスにあって望んでいます。
テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたの事を心配している者は、
他には誰もいないからです。
誰も皆自分自身の事を求めるだけで、キリストイエスの事を求めてはいません。
しかし、テモテの立派な働きぶりは、あなた方の知っているとおりです。
子が父に仕えるようにして、彼は私と一緒に福音に奉仕してきました。
ですから、私の事がどうなるか分り次第、彼を遣わしたいと望んでいます。
しかし私自身も近い内にいけることを、主にあって確信しています。
しかし、私の兄弟、同労者、戦友、また、
あなたがたの使者として私の窮乏のときにつかえてくれた人エパフロデトは、
あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
彼は、あなたがすべてを慕い求めており、また、
自分の病気の事があなた方に伝わっていることを気にしているからです。
本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼を哀れんでくださいました。
彼ばかりでなく私をも哀れんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
そこで、私は彼を大急ぎで送ります。
あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるからです。
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。
また、彼のような人には敬意を払いなさい。
なぜなら、彼は、キリストの仕事の為に、命の危険を犯して死ぬばかりになったからです。
彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。
2002/6/30 ヨハネ21章25節
イエスが行われたことは、他にも沢山あるが、もしそれらを一々書き記すなら、
世界も、書かれた書物を入れることは出来まい、と私は思う。