政策の盲点



2001/11/17 良く考えろ。
時間が経過すると産業には必ず構造の変化が起きる。
小泉の手法は、構造改革が一度だけのものという前提による所だ。
産業構造の改革は、何年おきと決まったわけではない。
それは、階段のようなものではなく、坂のようなものだ。
従って常に構造は改革されていると言って良い。
そうなると、いちいち構造が改革される度に、失業者を生んで、しかもその失業者は、いつメドが付くともしれない雇用に期待して何年でも待っていなくてはいけない。

(痛みの後に将来が開けるという思想自体、段階を設けていて現実から懸け離れている。
もし構造改革の間に痛みが生じると定義するのであれば、国民は永遠に痛みを受けることになる。
だって、構造の改革は常に起きているのだから。
雇用政策が最も適切な処置だとすれば、国民が明るい将来を感じるには、失業者が全員雇用されるという現実を作らなくてはいけない。
でも高創造型の経済でない社会において、それが不可能なのは誰にでも分かる。
このことは、完全雇用のそれ自体が科学的に不可能な思想であるということの証明である。
でも、私の言っている完全救済ならすぐにでもできる。
それによれば、人々は、何も恐れず自ら産業構造を改革し、仮想である高次産業を次々に創設していくと言う過程の中で初めて雇用対策における技術教育が身を結び次々へと転職して新しいインフラやサービス、商品を提供していく、新しいものが次々にでてくるので需要は常に豊かにあり、緩やかなインフレと共に市民の資産形成が着実に行われる。
アメリカの寡占独占社会では、常に他国の市場を脅し取るぐらいのことでしか経済は進展しない。
つまり、彼等は常に人の犠牲の上に自分達の偏った平和を実現して「夢」だ「夢」だと騒ぎ立てる。
生意気なこと言ういっぱしの政治家なら説明しなくても理解しろ!)

もちろん人間はものを食べなければ生きてはいけないから、何年でも待つと言うことは出来ない。
従ってそういう人は見捨てられて死んでしまう。
そして、延々と続く構造の改革の中で、どんどん人は見捨てられて国の需要は低下していく。
見捨てられる人が比例で増え、貯蓄も比例で増えると、需要は2次関数的に減少する。
こうなれば、もはや、その国は存続できなくなる。
では、何が間違っていたのであろう。
それは、デフレ時期にデフレ化政策を展開したことにある。
その一つが金融公庫廃止による地価のさらなる低下であり、もう一つが弱った国民にむち打つ健康保険行政であり、他の一つが郵政民営化であり、さらなる一つが解雇ルールやリストラの野放しであり、一つが不正雇用の野放しであり、一つが生産性の伴わない軍事行動への協力であり、一つがさらなる農業生産物の輸入であり、一つがこれらの政策をし続ける首相の存在だ。
これほど国益に反する政策を展開するような首相は、政治家としての資質を問われるべきである。
(外相の比ではない。)
私にしか成し得ないことを中途半端に真似をし、国民がそれを支持し、一向に引き返そうとしない。
従ってそれに相応しい結果をあなた方が得るという自然の摂理すなわち神の計略である。
のろわれていると言う意味が少しは分かったか?
同じ間違いを何度もするな!
2001/11/17 森羅万象2
正義と言う言葉を軽々しく使うから不幸があるのではなく、真の正義を隠蔽し、偽の正義を野放しにするから不幸が生じる。
まず、自分達が真の正義を実行せよ。
それが、あなた方が隠蔽し続けている私の存在と、私の政策の実現である。
それを隠蔽する不正を犯しながら平気で自分達は不正を犯してないと言う矛盾こそが、悪の根源である。

イエスはこう言っている。
「エルサレムは天に上げられない。」
重要なのは宗教に関連深い土地ではなく、人の行いであり、それに基づく神の裁きである。
天罰を恐れるものは、そこから離れろ。

状況を判断する能力が後天的なものだとしても、相手を思い遣ろうという本能(困った人を可哀想だと考える本能)は後天的に与えられたものではなく、もともと備わっていることだ。
同時に自己中心的な思想も先天的に与えられたものだ。
いっぱしの人の中では、その2つが戦っている。
でも、人の行動には、どちらかに決定付けられた思考から発生する。
前者を多く持ち出すには、後者を押し殺す習慣が必要である。
いざと言う時、後者を押さえきれないものは、どれだけ良い行いをしていても地獄に落ちてしまう。

彼の言っている相手の信条を理解するといっているその”信条”は、信条と言うより状況判断だ。
(子供が演劇を見て判断したものは、ものがどちらかの箱には言っているかと言う事実であって、一般的に共感と言うものとは異なるものであることは明らかだ。)
論理の摺り替えに気をつけろ。

何も考えないで実験するということ自体非常に難しく誤差が大きいことに気付くべきだ。

共感をもたないものが教養を持ち合わせていないと言うのであれば、
正しい意見を正しいと受け入れないのもまた、”教養”から離れたことだ。
だって、私の言う正しいということは、全員の平和に関わることであるのだから、それを否むものは共感を持ち合わせていないと言うことだ。
つまり、わたしの正義を受け入れないものは教養を持ち合わせていないということだ。
どうやら、脳の共感の機能は理解しても、本当に困っている人たちの心までは理解できてないようだ。(笑)
それを否定するには、私の政策を本気で実行することだ。

人は人を食う動物ではない。
動物と人とは違うのだ。
人を殺すと言う手法は、できる限り避けるべきだ。

私自身が幻と言うことはない。
私は記憶によって起こされるものではなく、実際に存在するものである。
また、錯角と幻覚とは違う。
直接結び付けるのは、誤差が多きすぎて科学からは離れてしまう可能性を知るべきである。
例えば、一つの映画を1000人が見ても、せいぜい数十の映画にしかならないだろう。
これを1000通りとする理論自体が、概念論がもたらす極論世界である。

臨死体験が神を見る瞬間とは限らない。
あなた方は多重人格や臨死状態でなくても、私と目的を一致させることで、神の存在を知ることができる。

なくなった人やイエスを見たのが記憶の機能としても、治療を受ける自分の姿を正面から見ると言うのは脳の機能とは言い切れない。
なぜなら、自分が治療を受けている姿を正面から見ることは出来ないからだ。
臨死体験によって神を見たからといって神が存在しない証明にはならない。
神ぞ存在に関わらず記憶にある。
これは、別問題なのだ。
例えば、山奥の原住民が空を飛ぶ飛行機の写真乗った雑誌を見た時、飛行機の像は記憶に残る。
その記憶をいつしか再生したとき、飛行機は記憶に入っていたから存在しないものという理論は間違っている。
記憶に入っているかどうかが、神の存在を証明するのではないことは明らかだ。
そして、記憶に神の存在が記録されているから、神は存在しないと言うのもまた、概念論から来る極論の為せる技である。
科学者はよくこの手の間違いに陥るのだ。

うちの母の癌治療で問題になったのは、効かない抗癌剤によって癌が急激に増大することにあった。
数日間の効果によってその後来る怒濤の増殖は、現代医療の限界を知らしめることであった。
患難は、天に入るための苦行である。
それが、断食や禁欲を忘れた社会に与えられた天国への道である。
それが嫌なら、緑豊かな社会へと変革させろ。
人は自然を離れては決して幸福とは言えない。
ホスピスに入れてやればいいのに。
その体制を国が作り上げてやれば良いのに。
あなた方は具体性に乏しい。
あまり強い抗癌剤は、肝臓を壊して死に至らしめる。
それは治療と言うより殺人に限り無く近い。
健康な人たちは、現実を知らな過ぎる。

救いえる命をできる限り救うというのが、人間にかせられた使命である。
それを実現するにはあなた方には問題が多すぎる。
私はそれを解決しに来た。
なぜ、それを受け入れようとしないのか、自分の行いを自分で省みよ。