政策の盲点4
ビジネスモデル特許
とうとう何の悔い改めもないまま、私の政策を骨抜きにしてしまった。
さてそれで、あなた方は喜んでいるのか?
お前達には何も分かっていないようだな。
お前達以上にアメリカが喜んでいるのだ。創造力の乏しく普通を尊ぶ民族の行く末。そして私も、天の国が近づいてとてもうれしい。科学的根拠の欠如した感情主義の行く末。それが、どれだけ船を加速させているか多少納得するであろう。以下の内容に目を通せ!
・・・かつて豊臣秀吉は、小田原の北条氏を下して全国統一を果たした後、武田信玄や上杉謙信の兵法に対し、「左様に、はかをやらざる小刀利きの武道にては、天下に思いかけることはなかなか、思いも寄らざる事たるべきなり。此の者など、早く相果て、外聞をは失い申さわず候」と批判した。戦闘における武勇の発揮とか、戦いぶりの美学等の固執するのは「小刀利きの武道」であってそうした効率の悪い兵学では、天下平定という大戦略の実現など到底期し難いというのである。(鈴木談:宗教に偏見をもって固執する状態もこれに等しい。)・・・しかし、織田信長や豊臣秀吉が作り上げた上方兵学は、一時の徒花となって姿を消し、近代日本は、伝統的日本兵学とプロシア兵学とを混ぜ合わせた兵学で、つまり『孫子』とは全く逆の発想で、以後の近代戦を戦うこととなる。その結果は史上にも稀な惨敗であった。太平洋戦争末期、沖縄に特攻出撃した戦艦大和の艦上で臼淵大尉は次のように独白し、祖国の敗戦と自己の死の意味を納得しようとした。・・・進歩の無い者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔白や徳義(鈴木談:今の日本人は、私的な自己到達欲や建て前上の公正になっているだけ。)にこだわって本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以上にどうして日本人が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。・・・臼淵大尉は、成功の望みの無い天一号作戦(大和の沖縄特攻)の途上にあって、祖国の新生を願った。だが、その後の日本ははたして彼の願い通りに進歩したであろうか。とてもそうは思えない。・・・日本人は自分が所属する小集団への帰属意識がきわめて強い。そのため、その集団内で孤立して仲間外れになることを、極端に恐れる。会議の席でも、自分の意見を主張し続けて、回りから浮き上がる事態を努めて避けたがる。会議を設定する側も、事前に結論を決めておき、実際の会議はなるべく平穏無事に済むように段取りする。もし予定外に自分の意見を強硬に主張する者が現われたりすると、大変である。その場で相手を論破する自信の無い幹部連中は動揺し、そのバツの悪さから相手を憎む。他の出席者も良い子ぶって大勢に順応し、あいつはやり過ぎだとか、自信過剰なんだよとかいって嘲笑する。(鈴木談:あれは世間を分かっていないという輩もいるね。そういう輩が、勝利の科学を分かっていないのだ。)したがって日本人の会議は討論により正解を見つけ出そうとする場であるよりは、むしろ合意を取り付けるためのセレモニーの性格が強い。何よりも大事なのは、実のある論議ではなく、和やかな雰囲気のうちに終了することなのである。株主総会(国会も同様:鈴木談)の茶番などはその典型である。しかも日本人の作る組織では、天皇制に象徴されるように、トップには実質的な決定権がないことが多い。権力は次々に下位に分散して、実際の決定権は中間の実務担当者に委ねられている。そこでもし失敗した場合には、トップは実際自分でやったのではない、俺は立場上、形式的に責任をとっただけだと内心自己を正当化する。また、中間の実務担当者は、何も自分一人でで決めたわけではない、だいいち自分はトップではないのだから、そんな権限はないと言い訳する。かくしてもたれ合い社会・日本の、巨大な無責任の構図が出来上がる。現在、中央・地方の官庁、企業、学校、政党など、様々な組織・集団に噴出し続けている問題も、その根底には、こうした事情が作用している。孫子は開戦前に冷静な勝敗分析を行うことを説いたが、ひたすら調和を尊んで情緒的に意志を決定し、日本的な意味で立派な人だといわれたがる日本人にとって、『孫子』は以前として最も遠い存在である。・・・(浅野裕一著『「孫子を拒んだ」武士道の美学』より)
それでもって、あなた方は今まで何をやってきた?人の子が来ても、神から預かった戦略を骨抜きにしようとそのことばかりではないか。お前たちは、丁度イエスが裸で十字架を背負ってビロードドーサを歩かれたとき、何もしないうえに、『お前が神の子ならそこから降りてみろ』とばかりに、次の法を破ったのと全く同様である。「汝の神を試みる事勿れ。」
従って、彼等が受けたのと同じもの受けるがいい。獣の国・バビロンの子供達よ!(ユダヤ人は、キリストを殺したため、ヒットラーという悪魔に至るまで迫害され続けたのだ。そして今、彼等の一部は、世界の人々を快楽と欲望の麻薬で麻痺させながら浸食して滅ぼしていくアメリカという悪魔と契約しているのだ。(快楽の度合が大きいほど効果も大きい。)お前達も、このまま何一つ変わらないのであれば、大○○のバビロンと共に神の怒りの杯を受けることとなる。私の政策を展開するに至らなかったが故に、お前達は、集団的救いを放棄したものとみなされるのだ。然り、お前達より先に、取税人や遊女達が天の国に入る。)
値下がりしないもの
それは、新聞の料金と税金(公共料金を含む。)である。デフレね。デフレ。
世論と現実のギャップ
一時期騒がれた総会屋事件は何だったのであろうか。我々は当然、総会屋が株主総会に出て荒しまくることは知っていた。それなのに、このことはいかにも初耳のごとく報道されたのだ。しかも逮捕されたのは、総会屋ではなく、彼等に仕方無しお金を渡した人間だ。
このようにマスコミの語る”世論”とは実に形式チックで、現実とはかけ離れている。私には不自然であるが、きっと建て前の好きな人には実に自然なことであろう。形式と建て前が服を来て歩く国が、どのような手だてで平安を保障するのであろうか?疑問は深まるばかりである。
役に立たない野党
”天皇中心の神の国”というのなら、なぜ、「日本の中心は、国民と天皇のどちらであるか?」と聞かないのか。天皇といえば国民を馬鹿にしていることとを認めたことになるし、国民といえば先の言葉を否定することとなる。
そんな交渉事も出来ずにどうして自民党の横暴を防ぐことが出来ようか。これらは皆、コネでしか政治家になれない現実と政治資金がほっといても流れてくる政党という環境とが、貧弱な政治手腕の政治家を生んだことによるのだ。本当に日本のことを考えるのなら、政党政治を一時撤回しろ。それで、選ばれなければ、一からやり直せ。
日本が一からやり直さなくてはいけないのに、お前達のところからいくら棒でつついても届かない。したがって、何も始まらない。なにも解決しない。お前達の考える国民の定義が、社会的地位を有するものだけでないのなら(貧乏人が含まれているのなら)、底辺の人々と共に立ち上がれ。そうすれば、必ず神の赦しを得る。
ところで、問題なのは”天皇中心”であって”神の国”ではないはずだ。彼等は、なぜ「”天皇中心”発言」といえないのか。それは、このホームページを読んだ人ならすぐに理解できるはずだ。彼等が私のホームページを大衆に公開しないあいだは、集団的な観点からして何人も救われない。
(でもあなた方は、このHPの存在を誰にも話してはいけない。それよりも、共に立ち上がって彼等の気付かない間にことを進めよう。貧しい人々に一ヵ月5千円の施しをし、仲間を拡大しよう。まさに、博愛のみが、我々と、我々の子孫と、世界の仲間達を救うのである。)
高いつけ
野党の面々へ。
ア○○カの支持は、国民を担保にする高利貸しと同じだ。
かつて田中角栄は、ア○リカが日本の総理を決めることを痛烈に批判していた。角栄は、健康保険や年金などの経済の基盤となる制度を次々に整え、日本の国民に不敗の地を用意した。
(東西冷戦の要所地であったが故に、経済の発展は約束されていたのだ。従って、その程度の制度で貧困者をも吸収し得たのだ。)
今はもう違う。勝つものは、ますます勝ち、負けるものは、ますます負ける。与党のいう「国民と共に苦しみを分かち合う」というのは、彼等が高い給与を貰っている以上、「低所得の国民よ苦しめ」というのと同じなのだ。彼等がなぜごまかしながらもその政策を堅持し続けるか。それは、彼等を操るア○リカ人が短絡的に戦略を捕えた結果である。(ア○○カ政府の承認の上に立つ政治家ばかり)それは、実に単純で、次のような状況だ。
かつて史上空前の大帝国を作り上げたチンギスハーンの言葉。「私が成功しただけでは完璧ではない。私以外の者が失敗して初めて、私は成功したことになる。」彼等は、単純に”史上空前の大帝国”とこの言葉とを繋ぎ合わせて考えている。だから、どうしても、彼等には打ち叩くことしか考えられない。しかるに彼等と我々とは共存しえなくなるのだ。そしてそれは、日本以外のすべての国にも言えることなのだ。彼等の頭の中には世界を支配することしかない。だから、支配した後のことまで考えられないのだ。
私はチンギスハーンにこういうだろう。「そんなことだから(他の者が皆失敗した結果として)、一気に地方が反乱すると、お前の子供達は、お前の築いた国を維持しきれないのだ。」統治の規模が大きければ大きいほど、鞭が効かなくなる。そのために、未だかつて世界を支配したものはいないのだ。ゆえに”元”もまた、短命の国家となってしまったのだ。
また、いくら世界を支配しても、命を仕損じてはなにも意味が無い。それは、物への執着から来る気の迷いのようなものだ。人間の命には限りがある。生まれ変わって同じ支配者となればいいのだが、それは不可能だ。人間は不自由無く生活して、潔く生を全うすればそれでいいのだ。それが、世界を支配したとしても、或はそうしようとしても、それは、思い直せば、じつにばかばかしいことだ。のんびり飢えることなく、好きな人と寄り添って家族を養えば、それでいい人生のはずである。それ以上求めれば、心がせわしくなり、人を蹴落とし、貴方は、病気や怪我や社会不安等によって家族までも不幸にしてしまう。だから、最善手は、常に、全員がほぼ均等に満たされる社会であるはずだ。
そう考えれば、なにも恐れることはない。お金を溜め込んで備えたところで、不治の病は、不治の病だし、同様にして、有限な命。癌になって長く生きれば、抗癌剤の副作用で骨まで溶ける。どうせ生きるのなら、長く生きるのではなくどのように生きるかを求めよ。ここに書いてあることを子供のように純粋に受け取り、私と共に実践できれば、貴方は、必ず救われるのだ。