嘘つきません

2001年8月12日執筆


今日ようやく『千尋の大冒険』(別冊COMIC BOX)読みました。まだ全部は読み切ってないんですが、監督のインタビューを読んで感服することしきりです。

10歳の女の子たちに対して「世界がどんなになっても、生まれてきたことを祝福しよう」を軸に、そのために

千尋については「友人の娘そのもの」物語世界については「おじさん嘘つきません」

そして観客に「映画だからできる」という割り切りをしてほしくないと。

すごい作品です。本当に。

ところで上の「嘘つきません」を聞いて、「そうだったのか!」とやっと飲み込めたシーンがいくつかありました。

一番なるほどと思ったのは、巨大化したカオナシが千尋を追っかけるシーン。私としてはあのシーンを観ながら、もちろんドキドキしつつも、心のどこかで「なんとも緊迫感のないシーンやなぁ・・・(´`」と気が抜けてました。
あの場面が緊迫感をなくしている(←私にとって)理由は、あそこでの千尋の恐怖のほどがどれくらいか私には想像できなくなってたこととか、千尋の逃げるときの表情が意外なほど淡白に描かれてる事とかもあるんですが、とりわけ演出面で気になっていたのが、湯バード(小)&坊ネズミに、千尋が逃げるシーンの最中、ずっと千尋の後ろを、プ〜〜〜ンと気の抜けた羽音でくっついて来させてたことです。

あんなファンシーな緊張感のない生物が!!あんな生死を賭けた(?)チェイスシーンで!!?どういう演出してくれとんねん・・・と正直思っていました。あれを避けるのは宮崎監督にとっては簡単で、カオナシが暴走したら坊ネズミ一行を一度はぐれさせて、千尋がカオナシから逃げ切ってタライ船でリンさんと駅へ漕ぎ出すシーンでまた合流させればいいだけの話です。明らかにわざとやってるんですよね。

しかし、なるほど、「嘘つきません」か・・・確かに実際の世界ってそういう風に出来てます。
ものすごい卑近な例えですけど、とある会社で課長さんが「次の人事異動で、自分はリストラされてクビになるかもしれない。これからどうやって家族を養っていこう・・・」と悩んでると。課長にとっては生死を賭けた悩みです。
ところが、その横の机では「今日は千尋フォーラムに何書こうかなぁ?」なんてのほほんと考えてるスチャラカ社員がいる、っていうのが現実なんですよね。

自分がどんなに大変な目にあってようが、世界全体が一緒に大変な目にあってくれるわけじゃなく実に淡々と日常をこなしていく現実。あそこで坊ネズミをはぐれさせるのは実に映画的な配慮であり、今回、映画映画した手法をあえて排除して「嘘つきません」を優先させた監督の意図とは違うってことだった、とそういう風にやっと飲み込めました。

・・・しかし、しかしです。そう解釈してもなお、「ああまでしてそれに拘る必要があったのか?」という疑問は、私の中にぐだぐだとトグロを巻いてます。(-_-;

「光の弾」あるいは「カメハメ波」問題の書き込みにある『「光の弾」のような表現までつかって暗喩をこめることへの疑問』にも、同じような意味で共感してます。

「千と千尋」の作品中には、何でわざわざこう演出したの?」と聞きたくなるシーンが多数あると思います。このフォーラムでも話題になっている、階段暴走、ダクト渡り、カメハメ波、その他諸々、一つ一つには解釈なり言い訳ができるんですけど、全体としてどうもまだ私の中でしっくりと来てません。

うーん、全然うまくまとまりませんが、『千尋の大冒険』読んで、ある意味分かったけど、ある意味ますます分からなったって気がします。どなたか、助け船を・・・。


【2002年10月26日追記】

さて、「ウソのレベル」のツリーとともに、私の中の千と千尋への違和感の理由探求用(^^;として本ツリーを立ててから1ヶ月強も経ってしまいました。なのにあんまり大したことも考えてないんですが、ここら辺でひとまずまとめを書いておきたいと思います。

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まずは傷ついた白竜と千尋がボイラー室に落ちてくるシーンです。

体を傷だらけにし、口からも苦しげに血を吐いて、我を忘れて暴れる白竜。千尋はやっとのことで、毒消しの効果があるかもしれない苦ダンゴを無理矢理ハクの口に押し込み、その苦しみが解けることを必死に祈る。 そうしてやっとのことでハクが苦しげに吐き出したのは・・・

はぁ? 何??この虫。これが今までハクを殺そうとしてた呪い??踏み潰して「え〜んがちょ」ですか(´ `今まで死ぬ思いでもがき苦しんでたハクの立場は・・? そしてそれを千尋と一緒に真剣に心配してしまった観客の立場は・・・???

観客が安心する前に気が抜けるこの演出意図、宮崎駿監督の言葉の中にその理由を探すなら、こんなのがあります。

「その子たちには嘘がつけない、ということです。『これは僕の知ってる世の中です』というつもりで作ろうと思ったから、映画の常道だと、『ここで伏線を張っておいて、悪役を出してハラハラドキドキさせよう』となる筈ですが、やめました」。[出典:「別冊COMIC BOX 千尋の大冒険」監督ロングインタビュー]

そう、私の知ってる世の中でも、人が生死を賭けて悩んでる問題って実はちょっと視点が変わればあのタタリ虫程度のしょーもなさだったりします。例えがえげつなくなってしまいますが、小中学校でのいじめによる自殺事件でも、目にする度、憤りにかられつつも「そんな学校、転校してしまえば解決したんじゃ?自殺するくらいなら・・」と思う節もあります。

スタジオジブリでも、精神的に追いつめられて辞めていく新人スタッフは随分いるそうですが、監督から言わせるとたかが「狭いスタジオ」なんですよね。 でも、やっぱりその中で生きていくのは本人にとっては命懸けだという。

そういう意味からすると、ハクを殺そうとしてたのがあのタタリ虫っていうのは、実に嘘のない、正直な演出だと理解できます。確かに世の中ってああいうもんです。

もう一つ別のシーンを。銭婆の家。はっきりとターシャ・テューダーの世界、赤毛のアンの世界です。

後づけの疑問ですけど、パンフの「この映画のねらい」を読むと、今回の映画がいかに私たちの根っこである「日本」を重視し、その伝統的意匠を積極的に生かそうとしたか、その意味がとうとうと語られてます。「歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって食らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う」とまで書かれてます。(鈴木プロデューサーが書いた説もありますけど(^^;)

ところが、えええ!!?? 擬洋風ながらも日本を残した油屋を出て、宮沢賢治の汽車で辿り着いたのは、あれ? EnglandかNorth AmericaのCountrysideに到着???我々の「よって立つ場所」って一体・・・。(´ `カオナシもすっかり落ち着いてますが・・・?

でも、分かる気もします。今の日本で「感じのいい素敵な年寄り」を10歳の観客の目にリアルに描こうとしたら、確かに、畳敷きでお茶飲んでる日本の婆ちゃんの図はリアリティを無くしてるんです。銭婆のキャラクターを示すのに、あのカントリー風の舞台は欠かせませんね(^^

あそこで、和服着た銭婆が出て来て、縁側で千尋とカオナシと番茶をすすって羊羹をかじるっていう図は、私なんか好きですけど、やっぱり今の10歳の観客には通じないでしょうね。説得力がないんでしょうね。

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・・・とまあ、まとめを書きたいと言っておいてさっぱりまとまらないんですが(笑)、実はこのまとまらなさこそ「千と千尋」であると最近考えてます。

色々な本や雑誌で「千と千尋」の根っことなった宮崎駿監督の考えを読みとることが出来ます。「10歳の子たちの心的リアリティ」「嘘つきません」「ファンタジーの存在意義」「言葉の力」「日本の民俗的空間」そして「生きる力」。これらの言葉は、今の日本の子供をとりまく社会の抱える問題をタイムリーにとらえてて、相変わらずの宮崎駿監督の時代感覚の鋭さに舌を巻くばかりです。

ところが、監督のインタビューの中では齟齬なく噛み合うこれらのキーワードも、映画の演出という形にかみ砕く段になって「あちらを立てればこちらが立たず」状態で衝突。しかもそれを監督が客観的に制御することが出来ていない。 だから、各シーンシーンでの演出意図はキチンと用意されているものの、全体として見たら整合性がとれていない。 重視しているものが場面によって違う。作品の幹が何本もあって、それらがあっちこっち違う方向を向いてしまっている。各シーン毎に色々考えを巡らすたび、そんな印象が強くなって来ています。

例えるなら、クリスマスツリーだと思って観ていたものが、いつの間にかモミの木は笹へ、ジンジャーブレッドは短冊に変わっていて、「ん??今日はクリスマスじゃなくって七夕だったっけ?」・・不思議に思ってもう一度視線を戻すと門松が立ってた。

もちろん、モミの木も笹も門松も豪華にセンスよく飾りつけられていて観る者を圧倒するし、クリスマスと七夕と正月がいっぺんに来たような楽しい気分になったけど、頭の方は「で、結局なんなの? このお祭りは??」という居心地の悪さを覚えている。そんな感じです。

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しかしその一方で、そういう作品である原因は、○もののけ姫の前から「年齢的にこれが最後」と思って今持ってる全てを作品に注ぎたいと いう監督の情熱だったり、○未来少年コナンの頃とは違って自分の映画を何百万人という観客が観ることになるという、 背負わされてしまった役割への自覚だったり、○「結果が分かってることはやりたくない」「今までと同じことはやりたくない」という 監督の挑戦的な姿勢だったりすると推測できます。

困ったことに、少なくとも私にとっては、宮崎駿監督のこういう部分こそ尊敬に値するし、これを無くしてしまったらもはや宮崎駿は宮崎駿でなくなってしまうとも思ってます。そう考えたら、「千と千尋」の抱える混乱は不可避なのかもしれません。

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しかし、不可避と分かってもなお、そして映画が記録的な盛況となっていてもなお、「まあ、こういうのもありだよね」と納得することは私には出来ません(^^;

一言で表現するなら、矛盾と混乱を抱えた宮崎駿をそのまんま出してしまった作品。 それが「千と千尋の神隠し」だと思います。

それはそれで私のようなもうすっかり歳をとった人間にとっては面白いんですが そんなことは全然重要じゃなくて、一番気がかりなのは結局『10歳の観客に監督からのメッセージはちゃんと届いたのか?』という一点に尽きます。 #色々考えても、結局映画観た当日に書いた感想と同じところに戻ってきてしまうところが#我ながら全く成長してなくて困るんですが(笑)

「一生懸命やれば、何かやるくらいの余白はこの世界に残っている」と言ってあげること。もともと子供が持っている、元気に生きたいという気持ちをかきたてること。この辺りが子供の観客に対するこの作品の一番太い幹だと思ってます。でも、まるで油屋のような混沌とした枝葉と装飾を持つ「千と千尋の神隠し」から、その幹まで辿り着けた子供はどれだけいるんだろう? そういう不安です。

子供は大人以上に物事の本質をズバリと見抜く鋭さを持っていることについては疑問を挟みませんが、作る方が、または大人が、それを免罪符にしたら駄目だと思うんです。

ってなんだかだんだんこの書込みまで混乱してきてしまった・・・このあたりまでが「嘘つきません」に関する現在のところの私のまとめです。長文にめげずここまで読んでくださった方々、ありがとうございました(^^


■ 千と千尋「これでいいのか??」投稿第3弾。
某ま氏より
> 「俺は解ったけど、10歳の子はメッセージを理解できたのかな?」
> 「いや、解らないんじゃない?」
> っていう会話を難しく議論しただけのような気がするのですが、どうでしょう?
という鋭い指摘を受けた。
【2002年7月13日】