ハリーと千尋

2002年1月14日執筆


遅ればせながら先日、ハリーポッター観てきました。
すでに観た友人全員から「原作を読んでから観に行った方がいい」と忠告をもらっていたんですが、時間・やる気・貧乏等の問題から、結局原作を読まないでの観劇でした。

映画"ハリーポッター"についてはこのフォーラムでも賛否両論ありますが、私の感想は非常に肯定的で、下手をすると絶賛に近いものかもしれません。千と千尋の興行収入記録についても、下手に何年後かにタイタニックのような作品に抜かれるより、いっそこのハリーポッターに抜かれてしまえ!と願ってしまったくらい(^^; 評価しています。
(努めて期待しないようにして観に行ったので、自ずと評価が甘くなってるというのもあるんですが、それを除いても。)

観る前にはこのフォーラムに感想を書こうとは考えていなかったんですが、観終わってみると千と千尋と思わず比べてしまう部分が多く、このように書き込んでます。
ハリー関連のツリーがいくつかあってどれに書こうか迷ったんですが、最古参のこのツリーに書きたいと思います。

先に言っておくと千と千尋をハリーポッターを比べて私が感じたのは、漠然とした敗北感です。”敗北感”などと書くと「こいつは要するに『千と千尋はハリーポッターに劣っている』と言いたいのか!?」という疑念を持たれそうなのですが、そういうわけではありません。ただなんとなく”敗北感”というのが一番しっくりくる気分になってしまったのです。

以下、その気分に関する雑想です。
#ハリーポッターの映画の内容に触れますので、まだ観てない方は以下は読まないで下さいね(^-^

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その一。物語の世界。

”千と千尋”という作品が際立っているのは、千尋が紛れ込んだ油屋の世界の持つ圧倒的なイメージに負うところが大きいのは誰も否定しないでしょう。
異様で俗悪でありながらどこか郷愁を抱かせる風景は、パンフレット中の"この映画のねらい"に書かれた『(日本の伝統的な)民俗的空間―物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術に至るまで―が、どれほど豊かでユニークであるかは、ただ知られていないだけなのである。(中略)伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色あざやかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。」という意図通りの効果を発揮しています。
おそらくこのあたりは私がくどくど説明するまでもなく、薄暗い横丁の食堂からもやっとした影が手まねきしているシーンや、光まばゆい渡し舟から春日大社の神事の面をつけた神さまが降りてくるシーンを思い出しただけで、鳥肌の立つような感覚を覚える人は、このフォーラムにも多いと思います。

さて翻ってハリーポッターを考えると、こちらも物語の舞台となる世界の持つイメージの豊かさに魅了された人は多いでしょう。食堂や教室といった建物から、服装や燭台、食器に至る小物まで、隅から隅までハリーポッターの世界が行き渡ってます。厳しい評価を下しがちな、原作の熱狂的ファンでさえも、描き出された世界の見事さに関しては絶賛する人がほとんどです。

舞台となる架空の世界の持つ 圧倒的なイメージが、映画の魅力を根幹から支えていて、ともすれば観客は、ストーリーよりも、その架空の世界をより楽しんでいるとすら思えてくること。それが”千と千尋””ハリーポッター”と、偶然にも同時期に上映された東西2つのファンタジー映画の大きな共通点だと考えてます。

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さて、その舞台となる世界について、私はなぜだか奇妙な「負けた…」感に苛まれてしまったのです…。何が何に負けたかと云えば、やはり私の中で、”千と千尋”の世界が、”ハリーポッター”の世界に”負けた”としか言いようがありません。もちろん、ハリーポッターと比較して千と千尋をけなしたいわけでは決してないのです。そもそも、「負けた」という言葉を使う時点で、私は無意識のうちに明らかに千と千尋の側に立ってハリーポッターを観ているということですし。
(千と千尋に肩入れするつもりは全くなかったのに)

我ながら、観る前には予想だにしなかった意外な感想を持ってしまったため、帰りの電車の中で、なぜ上に書いたような感覚を持ってしまったのか色々考え込んでしまいました。

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まず真っ先に思いついたのは脱力するほど単純な理由で、これはアニメーションと実写の違いが原因じゃないかということです。

当たり前の話ですけど、アニメーションと実写とはその手法自体に優劣がつけられるものではありません。ちょうど「絵画と写真はどちらが優れているか?」という問いに正解がないのと同じことですね。
しかし、それぞれに得手不得手はあります。例えば、次の違いは非常に大きいでしょう。
アニメーションは、描き手が意識して描かないものは当然画面に出てこないから、画面に不必要な情報が入って来ようがないわけです。
ところが、実写はそうはいきません。カメラが捉えるものは全て映ってしまうから、どうしても雑音となる情報が入って来ることになります。
結果として、アニメーションが伝える情報は余分な情報がない分、クリアで純粋なものになります。
その代わり、言うまでもなく情報の絶対量は実写の方がアニメーションよりはるかに多くなります。
どうも抽象的な話になってしまいましたが、例えば千と千尋の関連書籍「The Art of Spirited Away」等に載っている背景画について、この背景をそのままセットとして作って写真に撮ったものがどうなるかを想像して比較すれば、それぞれの長所と短所がどんなものか分かってもらえるでしょう。

ところが、映画”ハリーポッター”は細部まで注意を払って世界が作り込まれているため、実写の持つ膨大な情報がほとんど雑音とならずに、ハリーポッターの世界を形づくる情報として有効に機能しています。つまり実写の情報の多さが持つ良い面だけが現われてます。
そのため、”千と千尋”と”ハリーポッター”を比較すると、”ハリーポッター”の方が一場面でその世界を伝える有効な情報が断然多くなり、それが”ハリーポッター”の背景世界に”千と千尋”が遠く及ばないほどの厚みを与えているんですね。

音楽に喩えると、”千と千尋”がピアノソロだとすると”ハリーポッター”はオーケストラという感じです。「洗練された」「センスのある」という形容がピアノソロに似合うのに対し、オーケストラは「圧倒的な」「迫力のある」ということになるでしょう。
もちろん、ピアノソロとオーケストラ、どちらが演奏法として優れているかという問いがナンセンスなのは言うまでもありませんが、私の場合、ピアノソロの後にオーケストラを聞いて、その音の厚みに度肝を抜かれてしまったわけです。

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というわけで、アニメーションと実写との情報量の圧倒的な違いによって生じる、世界の『厚み』の違い。これがまず最初に考え付いた、敗北感の理由です。

しかし、ここまで長々と読んでいただいた方には申し訳ないんですが(^^;、実はこの理由はまだ表面的なものにすぎなという思いが、考えるにしたがって強くなってきました。たとえ実写で千と千尋の世界を再現したとしても、まだハリーポッターの世界に及ばないのではないか?そんな疑問が湧いて来たのです。

世界の『厚み』に差がついてしまった理由でとくに根深いと感じたのが、西洋ファンタジーと和風ファンタジーの伝統の差です。「和風ファンタジー」という言葉ですら、千と千尋の世界をどうカテゴライズしたものかと苦し紛れに書いたものですから、そんな伝統などないと言ってもいいのかもしれません。さらにつきつめると、自分たちの伝統に対する態度の違い、これが”ハリーポッター”の世界と”千と千尋”の世界の『厚み』の差として露呈してしまってるんじゃないか?とまで思えてきたのです。

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というのは、ハリーポッターの世界は確かに素晴らしいものですが、オリジナリティという点からするとそれほど目新しいものではないんでしょう。私は欧米のファンタジーには詳しくありませんが、それでも例えばハリーポッターに登場した、ゴブリン、ドラゴン、ケルベロス、ケンタウルスなどが欧米のファンタジーではおなじみの生き物だということは知っています。ハリーポッターの世界は、重厚な伝統を持つ欧米ファンタジーの世界にほんの少しの上乗せをしただけなんじゃないかと推測してます。

それに比べて、千と千尋の世界は、ほとんど全てが宮崎駿オリジナルです。
もちろん、色々な日本の伝統的な意匠をベースにしているわけですが、それをファンタジーとして一つの世界にまとめあげたのは初の試みと言っていいんじゃないでしょうか。

さて、それで両者を比べて私が持った印象は単純に言うと…
ハリーポッターの世界は、もともと100点満点で85点あったものを90点に引き上げた感じ。それに対して、千と千尋の世界は、もともと10点くらいしかないものを70点まで引き上げた、そんな感じです。
だから、和風ファンタジーの世界を10点から70点まで一挙に60点も引き上げた宮崎駿監督と武重洋二美術監督の発想の凄さというのは文句なく素晴らしく、おそらく千と千尋はこの意味でファンタジーの歴史に残るんだろうと思います。

しかしその一方、結果だけを見れば、”ハリーポッター”の90点に対して、”千と千尋”は70点でまだ負けているわけです。

”千と千尋”の世界はまだまだ宮崎駿個人のイメージに依存しているから、どうしても違和感のある異物が紛れ込んでいて、統一感を乱している気がします。具体的に言えば、油屋とその周辺の景色、蛙男となめくじ女、釜爺、おくされ様、春日様といったところはしっくり来るんですが、湯婆婆、カオナシ、すすわたりは私にとってかなり微妙です。電車のシーン以降にツッこむのは野暮としても、番台を横切る脇役の神々や、坊ねずみ、ハエドリは完全に違う世界の生き物に見えてしまうのです。
そんな理由で、まだハリーポッターの世界の持つ完成度には及ばないかなあ、と感じてます。

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それでも、日本の伝統をベースにここまで楽しいファンタジー世界を作り出すことが出来るのを教えてくれたのは重ね重ね”千と千尋”の大功績だと思います。「子供たちはハイテクにかこまれ、うすっぺらな工業製品の中でますます根を失っている。私たちがどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。(中略)過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまでタマゴを産みつづけるしかなくなるのだと思う」という”この映画のねらい”通り、千と千尋の世界は日本の伝統の豊かさを、私を含めた観客に気づかせてくれたことに感嘆してます。

ところが。 映画”ハリーポッター”の世界を観て『そんなことは欧州では当たり前ですよ』とガツンとやられてしまったのです。 伝統的な意匠をファンタジーに生かすなんて言われるまでもなくとっくの昔からやっていて、そのおかげで”ハリーポッター”も厚みのある背景世界を手に入れています。
「この人たちは、自分たちの伝統のいいところをちゃんと分かってて、それを当たり前のように尊重し、生かしてる」そんな印象が”ハリーポッター”を通じて伝わってきてしまったのです。

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ハリーポッターのおかげで「根を失っている」自分たちをひしひしと実感させられてしまったこと、自分たちの伝統に対するお粗末な認識を思い知らされてしまったこと・・・それが私の感じた敗北感の最大の原因だったんだなぁとしみじみ思ってしまったのでした。

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以上、もやもやとした雑想失礼しました。
おまけとして「その二。キャラクターとストーリー。」というのも考えていたのですが、ハリーポッターを観た当日書こうと思ってた感想が、もう観てから一週間経っているという私の遅筆ぶりから、また今度にしたいと思います(^^;。ではまた。


【2002年2月10日追記(抜粋)】 その二。キャラクターとストーリー

キャラクターとストーリーについては、前回書いた敗北感はなく、そのかわり「千と千尋は難しいなあ」としみじみ考えてしまいました。

キャラクターについては、千尋とハーマイオニーとの比較というネタで書きたいと思います。ハリーポッターと比較するのに何故に主人公のハリーじゃなくてハーマイオニーと比べるのかという理由はただ一つ、ハーマイオニーも千尋と同じように、劇中で"変わる"キャラクターだからです。
千尋は、パンフレットの「この映画のねらい」に書かれている通り「ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つように」なってるし、ハーマイオニーは劇中の「あいつワルになったな」と言うセリフが説明過剰に思えるほど行動も表情も変わってます。"変わる"という点で共通しているわけですね。

しかし、同じ"変わる"にしても、ハーマイオニーの変わり方は千尋の変わり方に比べてはるかに分かりやすいものでした。このあたりをネタに考えてみます。

映画"ハリーポッター"に登場するキャラクターは皆強烈な性格をしていますが、その中でもハーマイオニーは際立ってます。彼女を縛っているのは「自分が一番優秀だと認められなきゃいけない」というとらわれで、それが登場シーンから物語の随所随所に描かれていきます。
物語後半にハーマイオニーがそのとらわれから解放されていることを観客が簡単に気づけるのは、トロール事件以降の彼女の行動に対して「前半のハーマイオニーだったらこんなことはしないはずだ」と言えるまでに物語前半のうちに彼女のキャラクターが観客の中で出来上がっているからですね。

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それに比べて、千尋の場合は難しい・・・。

まず第一に、千尋はハーマイオニーと違って「ふつうの女の子」として描かれているのですが、この「ふつうの」が指す性格が漠然としているから物語前半で千尋のキャラクターがつかみにくくいんです。

冒頭の車の中のシーンで分かるのは、千尋のぶうたれっぷりから「トトロのサツキのような"いい子"タイプじゃなくて、よくいるふつうの子かなあ」、転校を嫌がっていることから「少なくとも、いじめられっ子とかではないみたいだなあ」程度です。例えば"ハリーポッター"のハリーやハーマイオニーのように出だしからキャラクターを決定づける情報はありません。
その後、小川を渡るのに一苦労してるところから「運動神経は鈍そう」、しかし油屋の前の橋の上のシーンでは意外にすばやい動きで橋の欄干から身を乗り出して電車を見ているところから「かといってそれほど消極的で鈍重なキャラではない」程度は分かりますが、やっぱり千尋のキャラクターは立っていません。

そうやって観客が千尋のキャラクターを手探りで探しているうちに、画面では千尋が、釜爺・湯婆婆に対して相当な頑張りを見せ、さらにおくされ様を根性で入浴させていま す。
そうすると観客としてはこの頑張りをどうとらえればいいのか?この辺りから難しくなるわけです。
「ああ、千尋はこういうキャラなのか。結構根性ある子なんだな」とここまでのシーンと同じように千尋のイメージを作り上げていけばいいのか、それとも「おお、あんなにひ弱だった千尋が、頑張れるようになったなあ」と千尋がこれまでとは変わったと見るべきなのか。。。後者とするにはまだ「あの千尋が・・・」と言えるほど千尋のキャラクターは確立されていないし、かといって前者だとすると、同じような分からなさをラストまで引きずって「『こういう女の子だったのか』という過去形的な感想の持ち方でいいのか・・・」と作画監督の安藤さんが語った割り切れなさを感じることになります。

油屋にまぎれこんだ最初の頃と、油屋を去る頃では、千尋の行動も表情も変わっていることは確かなんですが、じゃあどこでどう変わったのかという点になると、さしものこのフォーラム内ですら見解が割れているくらいです。
"ふつうの女の子"というのはハーマイオニーのような極端な性格に比べキャラクターが立ちにくく、それゆえに"変わる"前の基盤が確立しづらい、それがハリーポッターと比較して千と千尋は難しいと感じてしまう第一の理由です。

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さらに、千尋が変わる理由もハーマイオニーに比較して難しいものになっています。

ハーマイオニーの場合、先に書いたように「自分が一番優秀だと認められなきゃいけない」というとらわれに縛られていて、それが過度な負けず嫌いにつながり級友たちから避けられています。トロール事件をきっかけに彼女がそのとらわれから解放され「私は勉強ができるだけ」と言えるまでに変化している、ということもよく分かります。

ところが、千尋の場合は複雑です。
「現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果敢な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえている事に気づくはずだ」とパンフレットに"正解"が書いてあるのですが、これをパンフ無しで映画のみから読み取るのはかなり難しいことです。

これを読み取るには、まず普通の子の中に「本人も気づかなかった適応力・忍耐力・判断力・行動力が眠っていること」を前提として受け入れ、かつそれが千尋の中で目覚めたことを画面から読み取る必要があります。
ところが、「眠っている力」については、むしろ子供時代にそういう力が獲得できないのが現代の子育ての問題なんじゃないかと監督自身ですら思っている節があり、前提として受け入れるにはあまり一般的でない考え方です。「目覚めた」ことに気づく難しさについては前段で書いた通りです。

千尋は一体何から解放されて、あるいは何がきっかけで、眠っていた力を覚醒させて"変わる"ことに至ったのか?また眠っていた力とは何なのか?それが"ハリーポッター"のハーマイオニーの場合に比べてはるかに難しいわけです。

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ちょっとだけ書くつもりがまたかなりの長文になってしまいました。
#しかし千尋の変身については今回色々思うところが出て来たので、改めて別ツリーに書きたいと思います。いつになるか分かりませんが(^^;

ストーリーについてまだ全く触れていないので一言だけ。
ストーリーの表面のプロットについては、実は"千と千尋"と"ハリーポッター"は似ていると思います。
異世界に入り込む→小活躍(千尋の場合:おくされ様、ハリーの場合:トロールと球技(名前失念))→その世界を救うような大活躍。という展開は、千と千尋に少なからぬ影響を与えている「霧のむこうのふしぎな町」よりもはるかに似ています。

ところが同じように活躍をしていても、ハリーは入学を待ち望まれていた天才であるのに対し、千尋は招かれざる客であり"ふつうの女の子"です。そうすると、ハリーの場合は大活躍してもそれは天才だからであり、そのうえ周囲のサポートもあるからだとすんなり納得できるのですが、千尋の場合は「ふつうの女の子が逆境なのに大活躍」というこれまた難しさを感じてしまうわけです。このフォーラムでも「千尋は本当に「普通の十歳」なのか?」という問いかけが何回かなされてますよね。

キャラクター面では"ふつうの女の子"にこだわりつつ、ストーリー面ではそうそうふつうの女の子には出来ない活躍を見せているところがまた「難しいなあ」と感じてしまう所以です。

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以上、キャラクターとストーリーに関する雑感でした。
実はまだハリーポッターの原作を読んでいないので、もしかしたら赤面ものの勘違いをしでかしているかもしれませんが、そのあたりはご笑読下さい。


■ ハリポタに衝撃を受けて書いたもの。 まったくノーレスポンスだった。
某相方からは「『ふ〜ん』って感じ」との感想をいただいた。
【2002年7月13日】