バトル・ロワイヤル

著者:高見 広春
作者は何が言いたいのか
人の命の大切さを逆説的に伝えているのか
友情や愛情が真実だと訴えているのか
軽々しいヒューマニズムを否定しているのか
現代社会へのアイロニーなのか
少年たちへの希望なのか
死を身近に感じた人間の狂気なのか
人を信じることの大切さなのか
人間の価値なのか
次々と殺戮が繰り広げられ、累々と無残な死体が転がる
その光景描写に慣れてゆくのがイヤで、
私の頭は必死に思考していた
アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」に、よく似ている、と
思いながら読んでいた。
人を信じられなくなる心理描写や信じたい気持ちや、追い詰められた人間の狂気などが
克明に描かれた超有名ミステリー小説だ。
しかしいつしか、転がる死体のあまりの多さに「ちょっと待てよ」と焦る自分がいた。
「そして誰も…」(←この中では10人死んだ)どころじゃない。
結局、中学生が40人、大人が10人ほど死んだ。
上下巻合わせて974頁の中で。息つく暇もなく。
何かただごとじゃない、と感じた。
ここまで次々と人が死ぬことの意味。
そんなもの、意味なんてもの、ないのかもしれない、と思わずにはいられなかった。
人の命についてとか、そういうことを考える小説じゃないのだ、多分。
どうしても、何かの意味や意図を読み取ろうとしてしまう。
そういうことを否定するには、ハンパな設定じゃだめだ。
「意味のない死」「意味のない勝利」「不必要な殺戮」「必要以上に残酷な死に方」…

私には(私たちには、と言ってもいいのかもしれないけど)、
何か、そこに意味を見出したくなる癖がある。
「あぁ、これはこういう意味があるんだな」と思えば安心するし納得する。
少し距離を置いて物事を見ることができる。
(下)P475 「解説  池上冬樹」より。
『本書は殺伐としたデス・ゲーム小説のようで、
全篇に流れているのは“どうか生きて。しゃべって、考えて、行動して”
というおそろしくまっとうなメッセージなのである』
そうとらえることは、何だかとても単純で滑稽で、そんなことで納得し、感心している
評者に、私は違和感を覚える。
作者の意図はよくわからない。あとがきでは「アンチ日本」をアピールした…ということが
書かれていたが、もはや作者にどんな意図があるのかさえどうでもよくなってしまった。
それでも、もしも「アンチ日本」だけでこの小説を書いたのなら、
高見という作家は「サイテー」だと思う。
それでも確かに何か、根底を流れる思想なり、信念なりはあったのだろう。
その意図通りだったかどうかは私の知るところではないが、
読みながら(特に下巻)私を圧倒していたのは、無意味ということの
圧倒的な存在感だった。
ゲームのように人間を殺すことにも、人が互いに信じあい、愛し合うことも、
疑心暗鬼になることも、権力に操られることも、歯向かうことも、心的外傷を負うことも。
人間の身体は薄い皮膚でできていて、その下には血と肉があることも、
簡単に肉の塊になることも、奇跡的に生き残ることも。
みな、おこりうることであり、すぐそこにある隣り合うリアリティであり、
それらに何らかの価値基準による順序や、善悪や正否のレッテルをつけることは
おそらく無意味であり、不可能であるのではないか。
この小説は、ある高校生の男の子が「おもしろい」と薦めてくれたことから手にしたものだ。
彼は「血が出るところが何と言ってもイイ」と言っていた。
なるほど、確かにこ気味よいほど血が飛び散る。
それこそ出血大サービスと言ってもいい。(くだらないか)
それを「おもしろい」と言う彼に、眉をひそめることはできないと思った。
何というか、「おもしろい」という彼の感情は、きっと一般的な、オモロイ(have a fun!!)
という感情ではないのではないかと思った。
皮膚が裂けて血が出る。
眼球が陥没して血が出る。
頭蓋骨にカマが突き刺さって血が出る。
銃痕のついた胸から血が出る。
その血こそ、リアリティだ。
静かに、無心に流れる血は、この小説の中では妙に淡々としていて
私にとって、本当に信頼できる存在であるかのようにさえ思えた。
まだうまく言えないが、とにかくそんな感じがした。
リストカットをする人の中に、「血を見ると安心する」「現実に戻る」と言う人が多いようである。
生物体の中を、淡々と流れ、脈打ち、血管を裂かれれば外界に溢れ出す、
そういう血の存在について、私は普段リアルに感じたりはしない。
ケガをしたときに出てくる血が、何だかいとおしい、と感じることはあるが、
結局概ね、「血」とは、「血液」であり「体液」であり
理科の教科書に出てくるような物質的存在なのだ。
しかし、
彼の言葉とともにこの小説を読み、リアルなものとそうでないものが、
私の中で、ふと、逆転したような気がした。
   (02.10.30)


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