死者と生者のラストサパー  著者:山形孝夫


幼い頃、母を失う、しかも自殺によってということが、どれだけ筆者の心の多くを占めているかがわかる本だ、とSVに紹介された。全てのエピソードに少年の頃、母親と供にあった風景が絡み合っているようだった。筆者は「死者のよみがえりとはどういうことか」「キリストは人々に何をしたのか」を見つめ、考え続けながらアメリカ、中東を遍歴する。
白人優位のために改ざんされ、利用された聖書、母性豊かな女神から男神へと移り行く経緯、奴隷解放を唄った南北戦争の内実
。様々な発見がある中で、もっとも私が感激したのは、死者とはという新たな発見である。
終章にて、中東からの帰国の際、アテネの教会で出会った司祭の言葉が私の胸を打ち、目を見開かせた。

「死者のよみがえりとはどのようなことを言うのですか。死者は本当に甦るのですか?」
「私は長い間こんな風に教えられてきた。言葉は物事の本質を覆い隠す偽装の道具
。だから 言葉から心を引き離さねばならない。と。死者の甦りも同じではないですか。それは言葉で は説明のつかない秘儀なのですからね。その秘儀の中で死者は甦り、光のさざ波のように生き 続ける。死とは、リテラリー・ナッシングではない。」
「光のさざ波のように、ですって?」
「その通り。光の無限の充溢と言い換えてもよい
。」
「充溢?」
「そうです。ギリシャ語ではプレローマ。それは同時に真空でもあるような完全な充溢
。」
(略)私は口の中に呟いた。もしも死者たちがそうした不思議空間に生きていて、そこからさ ざ波のように記憶の信号を送ってくるのだとしたら
。死者は生きている。死者はナッシング ではない。

私の中の死者の記憶
。私は時々思い出す。祖父が死んだ遠い遠い昔を。祖父の亡骸が客間の畳に北向き置かれていて、それを足元から眺めた時のことを。冷たく硬くなっている足の裏。それを思い出した後に続く、寝ている祖父の傍らで遊んだ幼い私。そんなシーンをふと思い出すのは、私の意志ではないのかもしれない。


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