4. 御流と出会って学んでいること

その1. 「花は野にあるように」 

 山にある木、野に咲いている花、それはそれで自然の状態ですが、
ひとたび切ればそれはもう切花です。
 それをいけ花としてもう一度自然にかへそうとするわけです。即ち花瓶にそっとさした時、その瞬間、切花はいけ花として自然にかへったわけです。
あるがままの姿、それが自然らしさ、花は野にある様にの言葉に
つながるものと考へます。このことが一番大切な点です。
 しかしそれで総てが終わったわけではなく、花の取合わせ、器との調和、そうした事を整へなければなりません。"さり気なくそっと" "あるものをありのままに" 素朴に無作為に自然の姿を見ようとするのです。こうした態度が大切です。
 早くかっこうよく花をいけよう、いけ花を作り上げようといふ考へは最も禁物です。
なるべく手をかける事を少なく、人工を加へていない様に人工をつくし、できるだけ目立たせない様にする。その代わり、見ているうちにだんだんと深い味わひが出てくる。
 こうした事は何もいけ花だけの世界ではなく、広く日本人の美的感覚の総てに通用する事と思います。
       "生まの自然以上に自然的である"

 この言葉が、御流の基礎をなしているようだ。
私は、「人工を加えていないように人工をつくす」という言葉が好きだ。
御流のお花は、いつもしん、としていて静かで、主張しない。
でも、ちゃんと存在感がある。
夏は周りの空気を冷やしてくれるような、冬はほっこりと温かみをもたらしてくれるような、そんな存在感。
生けられた花をよくよく見たらわかるけど、はさみの入れ方はハンパじゃない。
よくもまぁこんなに……というくらいに花を、葉を切り落とす。
めちゃめちゃ人工的だ。
「もったいない言うたらあかんのんよ」と先生は言われる。
一番その花らしい枝や花を見せるために他の花は義性になる。
そして、残された花は、他の花があったという余韻も含むことになる。
私は、花に鋏を入れることは、嫌いではない。
というか、好き☆
確かに、枯れているわけでもないきれいな花を落としてしまうのは
かわいそうだな、と思わないでもない。
でも、それ以上に、枝に残った花を見ると、本当に自分をきちんと主張していて
自分の美しさを控えめにアピールできることがとても嬉しそうで、
なんだか、落とした花は、仲間をこんだけ引き立たせるためだったら
きっと落とされても本望だろう…なんて、
不運にも切られてしまった花にすれば、「何ゆーとんねん!」と
怒っちゃうようなことを考えたりする。

ただし、これは失敗に要注意、だ。
調子に乗ってチョキチョキやっていると、気がついたら枝は丸裸…
ということになりかねないからだ。
見極めが大切。

うん。

 <マーガレット・桜>


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