その2. 植物魂vegerarive soulについて
「お花とわたし」のページに詳しく載せることにしているが、
22から23になる年の春から、私は華道を習い始めた。
華道にはたくさんの流派がある。
私が知っているものでは、池坊、未生流、小原流、草月流、とあり、
それぞれ生け方に特徴がある。
母は小原流で長いことお稽古をしていた。
その娘である私が、なぜ山村御流を習うことになったのかは、「お花とわたし」の方を
見ていただければわかると思う。
山村御流とは、どんな流儀かということについて、
生駒瓢泉という人が次のように述べているので引用する。
花の生命を尊び自然の中に美を見出し、人口の技巧を避け、素朴枯淡と閑寂の雰囲気を保たんとするところに究極の目的を求めています。
また、花展を見たある記者の感想文として次のような言葉も引用する。
小品ばかりの花であるが、この流の特徴というのは花のいのちを実に大切に扱っていることである。どの作品にも無理がない。素直そのものである。いたわりながら整えてゆく技術の巧さには敬服の一言に尽きる。さり気なくと言うことは難しい。その難しさを見事生け花として価値づけているところに山村御流の貴族性のような感じを受けた。
その素直さ、素朴さに惹かれ、仕事の合間を縫って稽古を続けているわけであるが、
あるものごとの特徴というものは、別の類似物と比較して初めてわかることがある。
最近、草月流の花というものを写真で見た。
花々を見事に調和させ、アレンジさせて現代アートのような
複雑なかたちを描いたものであった。
確かに、芸術品を見ているような感じを抱いた。
見とれて、美しいな、と感じたが、
その時に初めて実感として自分の学ぶ山村御流のことがわかった。
自分がなぜ、御流の花に惹かれているかがわかった。
草月流のそれらの作品は、なんと言うか、
花々が、1つの目的に向かって協力しているような感じを受けたのである。
つまり、人間が、ある形を作り上げるために、
花々の美しさに協力してもらっている、そんな感じだ。
それは、私があるとき、母の誕生日のために
一輪の向日葵を買ったときに感じたことと似ている。
そのお店の定員さんは、私が一輪しか買わないといったため、
できるかぎり華やかにしようと、工夫してくれたのであろう。
向日葵の周りに、大きな葉物を4,5枚添えて、そして、
葉をくるっと半分裏側に回してホッチキスで止めたのである。
そうして、5枚の葉は、くるっとかわいらしいカーブを描いて向日葵の周りを囲んだ。
そうやって、平凡と言えば平凡な向日葵が、
ある種芸術性を帯びたアート作品のようになった。
見ていて私は痛々しくて仕方がなかった。
山村御流においては、その花の本来の美しさを最大限に引き出す努力がなされる。
一輪の花、一枚の葉、一つの枝をどうすれば、最もその持ち味を生かしたすがたにできるかを
考えて枝や花が切り落とされる。
季節ごとに開かれる花展に行って、たくさんの生け花を見るたびに、
私は自分の中の魂が揺さぶられるような感じをいつも受けるのである。
どの生け花も、凛として自分でいる、というようなたたずまいをしているので。
西洋形而上学の伝統において、魂を持つ存在のことを、有機体という。
人間を特徴付けるのは、理性魂rational soulだが、それ以外にも、動物魂animal soulや、
植物魂vegerarive soulも認められているという。
有機体の持つ可能性を、最大限に実現させる過程が自己実現と言われる過程なのであるが、
その遂行者は、有機体にもともと含まれていて、それを魂という。
魂を持つがゆえに、有機体には、可能性の実現、自己実現ということが可能となるのだ。
そのとき、ものは無機的になればなるほど、その可能性の実現のためには
外力に頼らねばならなくなり、反対に有機的になればなるほど、
可能性の実現は自立的・自発的に行われるようになる。
山村御流の花々は、大げさなのかもしれないが、
自己実現ということを精一杯して花開いているように見える。
生け方には、おそらくバリエーションはあるのだろうが、ある基本的な型がある。
「主体」「対象」「つなぎ」「主体の後ろの花」「陰」という5つの要素
(「主体の後ろの花」はないことも多い)と、
「矩形の三角を作ること」。
それさえできれば、ある程度御流の花らしく見える。
花展に行って、花の構成を見ようと思えば、
たいていの作品が、その基本に忠実であることがわかる。
大まかに言うことが許されるなら、どの花材も同じような生け方がなされているのである。
それでも、一つ一つの作品は、全く異なったものとして存在する。
花材が違うのだから当然であると言えるかもしれない。
もちろん花材の違いが作品の違いを生む。
しかし、そこに、一つ一つの花材の良さ、
あえて言うならば可能性を最大限に引き出そうという
生ける側の、心があることが最大の要因であろう。
先ほど、生け方はどれも同じだと言ったが、それはおおまかな構成のことであり、
細かな配慮においては、おそらくどれもすべて異なっている。
どの枝を落とし、どの花を残し、どの角度に生けるか。
それによってその花がその花自身であるということが、明確になってゆく。
人間が手を入れることで、花の魂の自己実現を助ける。
もちろん、野山に咲いている草花はどれも自然に溶け込み、その花として十分美しく
生命を全うしている。
しかし、そこからある一輪を切り取り、そこからさらに花や葉を省略し、
そしてその花の伸び行く方向を考慮して差す、その生け花においては、
菊ならば菊が、最も菊らしく生きているように感じる。
植物魂と可能性の実現ということを考えるとき、思い浮かぶのはある1つのエピソードである。
野沢重雄さんという植物学者は、たった一粒のごく普通のトマトの種から、
遺伝子操作も特殊な肥料も使わず、1万3千個も実のなるトマトの巨木を何度も育てている。
「技術的には、何の秘密もないし、難しいこともない。
結局一番大切なのは、育てている人の心。
成長の初期段階で、トマトに、いくらでも大きくなっていいんだ、という情報(十分な水と栄養があるという情報)を与えてやりさえすれば、後はトマトが自分で判断します。
トマトも“心”を持っている。そのトマトとできるだけ心を通わせてやること。」
それは、まさしく植物の魂に働きかけることによって、
その植物の可能性を最大限に引き出すことの証明ではないだろうか。
たくさん実がなり、大きくなったのでそれがよいということではない。
そうではなく、たった一粒のトマトの種の中に、それだけの可能性が秘められているという
そのことを、私たちに信じられるかたちで提供してくれたその功績は大きい。
しかも、人間が植物をコントロールするのではなく、
植物が自分で自分の能力を存分に発揮できるよう手助けするというのが
野沢さんの基本姿勢である。
そうなってくると、それは植物の魂というものに、
限りなく人間のものに近い自立性や自発性が秘められているということが考えられる。
生け花の場合は、成長可能性とはもちろん違う。
切り取られ、成長をストップさせられた花材としての花。
それの持つ本来の姿を、最大限に魅せようと手を加えることで、
その花は可能性を実現してゆく。いうなれば、花の全体性の一瞬を
切り取って拡大していると考えられるかもしれない。
写真家が切り取った被写体が、その一瞬において最もそのものらしく存在するように。
一方野沢さんのトマトの場合は、人間がトマトの心を深く理解し、
その成長を阻害しないような条件を備えてやり、見守ってやる。
そうすることで、トマトは自分の力を最大限に発揮して成長してゆく。
それは人間の親が子を育てる時にも共通する態度かもしれない。
しかし、それは決してたやすいことではないだろう。
通常トマトは1本の茎から、せいぜい60個がなればよい方だという。
「心を通わせてやる」と簡単に表現される陰に、どれほどの思いがあったか。
こう考えてゆくと、植物魂と動物魂、そして理性魂というように、分類することは
本来は難しいものなのだと思わざるを得ない。
植物にも魂はあるが、それは限りなく無機的な存在の仕方から、
有機体として人間や動物と共通するあり方まで、幅広い様相があるのではないか。
分類法について、ここで深く考えるほどの知識を私は持ち合わせていないので
それ以上言及することを避けるが、
植物という、生物の中では、比較的無機的な印象が強い生き物と、
ここまで深い関係がもてるのであれば、人間や動物とであればさらに深い関係、
関わり方が存在して当然であるし、
また、植物や、もっと無機的存在である鉱石や水などとの関係から、
逆に人間を理解する手立てが見つかることはありうると信じるのである。
終わり♪はぁ〜久しぶりに書いた「もの思ひ」…
もっと自由に適当に色々書いていこう!
ちょっと今まで肩肘はりすぎて書けてなかったゆうです
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