その1.IT革命について
Eメール相談として、毎週1回小・中・高生の相談に応じている。
小学生はほとんどいなくて、大半は中2〜高2の、女の子が多い。
こちらは、PCを用意して、Eメールソフトからメールを発信する。
それに対して、相談者側は、圧倒的に98%ケータイメールである。
小学生や中1からの相談件数が少ないのは、察するに、
相談がないというよりも、ケータイがないのだろう。
また、こちらも週に1回、府下の高校に出向き、高校生の相談に応じている。
そこで出会う生徒は、男女を問わずケータイを常備し、
中には充電器を持って登校してくる生徒もいる。
それは、家が貧しくて電気代がもったいないから…ではなく、
万が一充電がなくなったら困るからだそうだ。
かく言う私も、毎日ケータイを持ち歩き、忘れたかも?と思ったら
ドキドキするようになってしまった。
ケータイを持ち始めた頃は、しょっちゅう忘れていたが、
忘れても「あ」というくらいだったのに。
今忘れたら、取りに帰るかもしれない。
これは、便利なのか、不便なのか…と思わず問う。
そう。
文明人は、便利とか、不便とか、そういう尺度をよく使うようになってしまった。
世の中の流れは、どんどん利便性へと進む。
カーナビゲーションが一般的になったかと思えば、人間ナビまで登場した。
チケットから、宿から、買い物から、何でもネットを通せば手に入る。
しかも早い。
しかもネットで買えばネット割引なんてのもついているところもある。
これは使わないと損である。
便利な世の中になること。
それは一体どういうことなのだろう。
冒頭に挙げた、10代の生徒の悩み(私が受けているもの)の中で最も多いのは、
友人関係、細かく言えば、「グループ」の悩みである。
「グループを変わりたいがどうすれば抜けられるのか」
「今のグループで仲間はずれにされそうになっている」
「違うグループの友達と仲良くしたい」
そういう類の相談がとても多い。
そしてそれを解決する手段の一つがメールになる。
私たちが中学、高校生だった頃以上に、
今の生徒(主に女子)たちは、グループが重要だ。
そこから「抜ける」こと、違うグループに「入れてもらう」ことは
彼女たちにとって重大事件である。
これではまるで「組」やんか…とさえ思ってしまうほどに。
だから、「違うグループでお弁当食べるね」「違う子たちと学校行くね」
と直接言うことは、とても気まずい。
そこで登場するのがメールである。
メールは、電話以上にコミュニケーションの度合いが低い。
そこにあるのは、文字だけのコミュニケーションである。
顔文字を使うことも多いが、<例えばこんなの→m(_)m>
そんなのも、あいまいなものだ。
悪いと思ってなくてもその顔文字を入れておけば、
相手は「悪いと思ってるんだな…多分…」と捉えるだろう。
顔文字を入れる過程の葛藤は、実際に「ごめんね」という顔をする葛藤に比すれば
ないも同然に思える。
文字を入力するだけのことなのだから。
文字は自分と切り離せるものだ。
しかし表情や声付きはそうはいかない。
「ごめんね」と本気で思い、それを伝えることは、とてもしんどいはずだ。
「目は口ほどにものを言う」と昔の人も言っているように、
本気で思っていなければ伝わらない。だから必死で伝えようとする。
相手を目の前にし、相手の反応をリアルタイムで感じ、
そこからのフィードバックを読み取りながら
話を進めることはとても高度なコミュニケーションだと思う。
その機能が、人から少しずつ奪われているのではないだろうか。
友人関係だけではない。
好きな人に告白することや、付き合っていた人と別れること、ケンカして謝ること、
どれも、とても勇気がいるし、エネルギーが要る。
だから人は悩むし、自己嫌悪になったり、逆に強くなったりする。
そこにメールという手段が登場した。
もちろんメールであろうが、自分の気持ちをぶつけることはとても勇気がいる。
しかし、その量は全然違うだろう。
「ずっとメールでばっかり話してたから、
いざ彼を目の前にして好きと言うことができない」
という相談もあった。それはそうだろう。
生き物は楽なやり方を選び取るものだ。
便利な手段を覚えて、そこからわざわざ
手間のかかる手段に戻ろうとすることはとても難しい。
難しいし、第一それをする能力が低くなってしまう。
戻れないのだ。
話が大きくなるが、現代の都市生活を営む日本人の中に、
空模様や鳥の様子から天候を読むことのできる人がどれだけいるだろうか。
「入道雲が出てるからもうすぐ夕立だな」とか、
「月が傘かぶってるから明日は雨だな」とか、
そういうレベルですら危ういかもしれない。
そんなことを知らなくても、テレビをつければ気象予報士が教えてくれるからだ。
インターネットではもっと詳しい気象情報が手に入る。
使わなくてもよくなった能力は、どんどん退化してゆくのは当たり前だ。
もっと最近の事で言えば、カーナビができてから、
人が地図を読み取る必要がなくなった。
GPSケータイなどが出回れば、
自分で自分の居場所すら知る必要がなくなるだろう。
それは進化なのか。
私には退化に思える。
話がメールからそれてしまった。
メールで失われる能力、ということに、私は危惧を抱く。
それはメールで得られる便利さ、の裏側にある。
「家族の会話がなかったが、メールするようになって、
言いたいことを伝えられるようになりました」などと聞くと、
「メールって便利やん。家族との会話、そりゃいいことや」とは思う。
しかし、「言えなかったことが伝わる」という便利さは、
「言えかったことが言えるようになる能力」を犠牲にする。
対話は難しい。
人と人とのコミュニケーションは、いつでも思った通りには進まない。
それがおもしろいし、そうでなければみんな機械だ。
しかし、それは難しいことであり、エネルギーを要することであり、
葛藤を必要とする。
「しんどい」ことなのだ。
そこをしなくてよくなれば、誰もが飛びつくだろう。
しかし、そうして人は力を失ってゆくのだと思う。
その痛みをどれほどの人が感じているだろう。
手紙という手段は以前から存在していた。
好きな人に告白する時に、ラブレターを書くということは、
決して珍しいことではなかった。
母から聞いた話。
母が仕事をしているある高校で、「手紙とメール、どちらがどのようにいいですか?」
というアンケートだか作文だかがあったそうで、
メールと答えた人は、「手軽だから」「すぐ届くから」…などの理由をあげる。
一方手紙のよい所としてあがったことは、「手書きであるため気持ちが伝わりやすい」
という一点に集約されていた…らしい。
確かに手紙は、便箋を選ぶことから始まって、時候の挨拶、そして自筆での
文章、ということが必要になってくる。
また、間違えてもすぐに消すことはできない。
ドラマなどにおいて、ラブレターを書く、というシーンでは、
わざとらしいくらいに、書いては破り、書いては破り…
という場面がよく見られる。
大昔の人は、字体や紙の選び方、手紙に添えられた四季折々の花によって
相手の教養をはかったと言う。
とにかく、自筆で手紙を書く、ということはあまり「手軽」ではない作業のような
気がしないだろうか。
そこに抵抗や緊張が入る。
メールでも、もちろん気持ちは伝えられる。
絵文字もあるし、写真や動画も送れたりする。
ただ、手紙よりもずっとずっとスピーディだ、という点が最も違うところ
ではないかと思うのだ。
そこにかける時間と労力、緊張や葛藤の量は
即座性、という点から激減されるだろう。
私は、単に保守的な人間なのかもしれない。
でも、「昔は良かった」と、それだけですましたくもない。
どんどん便利になる世の中について、憂いてばかりいるわけでもない。
ただ、「こんな便利な世の中になったんだ」と感心してばかりもいられない。
そういうことだ。
(とりあえずは)終
ご意見下さった方、ありがとうございました☆
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