祭 前夜
//青海詩織//
気が重い。
昨日の体育祭も、後半はほとんど身が入らなかった。自分が何に出て、どんな成績を出したのか、それすらも覚えてない。
気がついたら、家についていた。気がついたら、布団にもぐりこんでいた。
なんで怒ったのか、わからない。
なにか悪いことを言ったのだろうか。
渡会の声は、冷たかった。あんなに冷たい声を、初めて聞いた。
渡会がどんな表情で自分を見ているのかを知るのが怖くて、顔が上げられなかった。
今日は、明日の文化祭のための最後の準備日。
校内は、人で賑わっている。
廊下は人の声が絶えないし、みんな忙しそうに行き来している。
「青海さん、数足りてた?」
「え?」
いきなり声をかけられ、慌てて顔を上げる。
目の前のクラスメイトの顔がとたんに険しくなった。
「コップ、数数えてっていったじゃない。もう、忙しいんだからしっかりしてよね」
「あ、ごめん」
慌てて紙コップを数えなおす。
いくつまで数えたか、もう忘れてしまっていた。
八割がた、二十個ずつ分けおわっていて、あとのこすは数十個。
二、四…数えながらも、また溜息が零れてきた。
渡会が怒った理由がわからないから、謝りようがない。住吉もどことなく怒っていたみたいだった。
わからない。
なにが悪かったのか、言ってもらわないと、わからない。
また、溜息。
なんとか数え終わって、さっきの女の子に数を告げると、紙袋を持って教室を出た。
その中には、渡会のジャージが入っている。
ちゃんと洗濯もしてある。
これを渡して、昨日のことをちゃんと聞いて――そして、謝って。
たったそれだけのことのはずなのに――どうして、こんなにも気が重いのか。
渡会は隣のクラスだ。
だから、考え事をする暇もなく、あっという間に一組の前まできてしまった。
一組は、すっかり「お化け屋敷」になっていた。
窓という窓は全てダンボールでふさがれている。多分、教室の中は真っ暗になるのだろう。
何人かの生徒が、前のドアの上に「恐怖の館」と描かれた看板を取り付けようとしている。真赤な血が滴っているそれには、小さな蝙蝠の人形もついていた。どうも手作りらしく、どこか愛嬌のある人形だ。
ぼんやりとそれを眺めていると、不意に肩を叩かれた。
振り返って、ギョッとした。
「――なんて顔してるのよ」
「に、西岡…?」
目の前にいるのは、頬まで裂けた真赤な口の、女の人。その耳はピンと立ち、顔はオレンジや黄色、茶色でペイントされている。
だけど――、その目に、見覚えが、あった。
「それ、なに」
「狼娘。どう? かわいい?」
かわいい……というか、なんというか。
「似合ってるねえ」
「どういう意味よ」
ごめん、本音が出た。
「あんた、こんなところで何してたの? ぼーっと突っ立っちゃってさ。何回も呼んだの、聞こえてなかったでしょ」
「え? 呼んだの?」
嘘。まったく聞こえてなかった。
のぞみはあからさまに大きく息をついた。
「なにがあったのかは知らないけどさ、こんな大事なときに調子崩すんじゃないわよ」
え?
「なに、心配してくれたとか?」
「それ、絶対ありえないから」
「ああそうですか」
と、のぞみが呼ばれた。
軽く肩をすくめて、「明日はちゃんといつものうざいあんたに戻ってなさいよ」とか言い捨てて、教室に戻っていこうとする。
うざいって、なにそれ。
思わず顔に力が入りかけたけど、それを励ましと受け取ることにする。
「そうするわ。――西岡ぁ」
「なによ」
教室の入り口、暗幕をかき分けた状態でのぞみが振り向く。
いつもの、きれいな顔立ちなどかけらもないほどメイクされたその顔。
「あんた、それ、結構かわいいよ。――妖怪みたいで」
「…だって妖怪だもん。ほっといて!」
のぞみが叫んだとき。
大きな手が暗幕をさらにかき分けた。
現れた顔を見て、思わずその場に棒立ちになる。
「西岡、お前呼ばれてんぞ」
渡会は、高くもなく低くもない声でそう言った。
声を聞いて、ようやく渡会だと確信がもてたほど――それは、まるで別人だった。
青白い顔色に、つんつんと立てた髪。その髪は見慣れた黒じゃなくて、金色に染められている。そして、その衣装。立てられた大きな襟に、ぞろりと長い外套――というよりも、マント。真赤な布で裏打ちされたその下は、控えめにレースのついた白いシャツに黒いズボン。
渡会は、いわゆるドラキュラに変身していた。
渡会がこちらに気づいた。その眼がつと細められる。
…やっぱり、まだ怒ってる。
「何か用?」
いつもより、ちょっと低めの声。
思わず下を向きそうになるのをこらえて、紙袋を持ち上げた。
「これ、昨日の。…洗濯しておいたから」
渡会がちらりと紙袋を見た。そのまま無言で受け取り、中を確かめる。
“ありがとう”と言えない自分が恨めしかった。
「…用事はこれだけ? じゃあ、俺忙しいから」
短く言って、背を向けようとする。
「ちょ、待って!」
慌ててそのマントを掴んだ。
仕方なさそうに渡会が振り返る。
「なに」
心なしか、声が冷たい気がする。
「その…昨日は、ごめん」
「俺が怒った理由、わかったんか?」
間髪言われ、一瞬言葉に詰まった。
「……わかりません」
「じゃあなんで謝んの?」
――答えられない。
「とりあえず謝っとけばそれでいいとでも思った? それ、最低だってわかってる?」
冷たい言葉は、的確に急所をついてくる。
「…じゃあ、教えてよ」
気がつくと、あたしはいつもとは違う渡会の顔を睨みつけるようにして言っていた。
「言ってもらわないと、なにが悪かったのかなんてわかるわけないだろ。ただ黙って怒ってちゃわからないってば」
住吉の言葉を思い出す。
わからなければ、本人に訊けと。
そう言ってくれたのは、あいつだ。
「本当にわからない?」
「わからない」
渡会の眼がさらに細くなった。
「じゃあ、お前、本当に本当の大ばかやろうだ」
な、なんだよそれ!
わからないから訊いてんのに!
思わず掴んでいたマントを叩くようにして手を離す。
「じゃあいいよわからないままで!」
そのまま渡会に背を向けた。もう、あいつの顔見たくなかった。
自分が悪かったのだとは思う。でも、何が悪かったのかわからなかったら直しようがないし、そのくらい言ってくれてもいいじゃないか。そんなことで今更怒るとか、そんなに狭量な人間じゃないつもりなのに。
なんだか、悔しかった。
悔しくて、哀しかった。
結局、渡会に信用されていなかったのだと。
そう思うと、胸がつぶれるくらい、哀しくなった。
教室に戻る気になんかなれず、そのまま衝動に任せて階段を駆け上る。通いなれた屋上へは、今ではもう眼を瞑っても行き着けるだろう。
そのまま、屋上のドアのノブに手を伸ばしたときだった。
突然、顔の横で風が起こった。
いきなり現れた腕が音を立てて屋上の扉に叩きつけられる。
目の端に、黒いカーテンのようなものが映った。
吐息のようなものが前髪を掠めた。
「…足痛めてる人間が走るんじゃねえよ」
声は、相変わらず冷たくて、なぜか涙が出そうになった。
「…どいて」
震える声でなんとか言うと、腕はあっさり視界から消えた。
どうしようか悩んだ。
後ろには、渡会がいる。
後ろを振り向くことができなくて、仕方なく屋上のドアを開いた。
とたん、冷たい風が流れ込んできて、全身が震えた。
上着は教室に置いたままだ。
取りに行こうにも後ろには渡会がいる。
どうしようもなくて、仕方なく無人の屋上に足を踏み出した。
扉が閉まる音がする。だけど、ばたばたという音は、相変わらず背後から消えることはない。渡会のマントが風に翻る音。
「こら、女史。こっち向け」
渡会の声がした。でも、振り向くことはできなかった。振り向くのが、怖かった。
「女史」
ちょっとだけ困ったような声。
答えないでいると、いきなり腕を引かれて強引に向き直らされた。
目の前に、金髪の、見慣れているけど見慣れない渡会の顔が現れる。
眼があったとたん渡会の眉が大きく下がった。
「ちょ、女史ー。その顔はねえだろ」
「は?」
いきなりなにさ。
眼を丸くしているといきなり渡会がしゃがみこんだ。
そのままちょいちょいと手招きする。
「そんな泣きそうな顔すんな、頼むから」
はあ!?
「だッ、誰が…!」
泣きそうって、なに言ってんの!?
「いいから、ちょっと座りなさい」
あぐらをかいて、自分の前を指差す。
内心激しく動揺していたけど、それをこいつに知られるのはなんだかものすごくいやだったので、平成を装って言われるままに座った。コンクリートの床は冷たかった。
渡会はぼりぼりと頭を掻いている。手の動きに合わせて立てた髪がゆらゆら揺れた。
「んで、何の話だったかなあ…」
のんきそうな声が、ひどく癇に障った。
「なんで怒ってんのか訊いてんの」
「それが人にもの訊く態度?」
う〜〜〜!
腹が立つなあ一々。
だけど、ここで怒ったらそれこそすべてが無駄になるとわかっていたので、なんとか耐えた。
膝の上で両手を握り締めて、渡会を睨みつけた。
「あたしが悪かったのかもしれないけど――ていうか、多分あたしが悪いんだろうけど。でも、なんで怒ってるのか、言ってくれなきゃ直しようがないだろ」
「そう言う前向きな姿勢はいいですな」
「ふざけんな」
言ったとたん、睨まれた。
…だから、なに。
渡会はまたがしがしと頭を掻く。
「…自覚がないってのが、一番の問題だってか」
は?
どういう意味か聞き返そうとしたけれど、そのときには渡会はもう立ち上がっていた。そのままマントを翻して背を向ける。
「宿題です。明日までになにが悪かったのかその足りないオツムでよーく考えてきなさい」
はあ!?
「な、ちょっと!」
渡会は振り向かない。
ドアを開けて、出ていこうとする。風を孕んでそのマントが大きく膨らんだ。
「…どうしてもわからなかったら住吉に訊けや」
その言葉を残して、ドアは、音を立てて閉じられた。
「――と、言われました」
体育館の横、ぞろぞろとでてくる四組の人たちに交じって現れた住吉を捕まえて、とりあえず伝える。何に使うのかは知らないけど、劇の小道具らしきバスケットボールを持った住吉は、呆れたような溜息をついた。
溜息をつきたいのはこっちなんだけど。
「…ということで、教えてクダサイ」
「……まあ、いいけど」
住吉は人差し指を立てて器用にボールを回す。十回ほど回転したところでボールが傾き、そのまま吸い込まれるように大きな手の中におさまった。
「お前って、なんでも自分の中にためようとするんだよな。自己完結しちまうっていうか」
「――え?」
言われた言葉に、驚いた。
ジコカンケツ?
住吉は両手で持ったボールを軽く額に当てている。サッカーのヘディングみたいに。
「今回のことにしてもさ、お前、ばれない限り黙ってるつもりだっただろ」
図星だったので、答えられなかった。でも、住吉は特に答えを期待して言ったわけではなかったようで、そのままこちらを見ずに続けた。
「いつもならそれで全然オッケーだっただろうがな。でも、今のお前のケガは、はっきり言ってお前一人の問題じゃない。そうだろ?」
……。
そんなこと言われても、困る。
「それを、ずっと黙ってたってことに対して、怒ってるんだ」
「……足手まといになるから?」
って、うわっ!?
言ったとたんにボールを投げつけられて、慌てて胸の前で受け止める。
「なにすん」
「お前、アホか」
昨日の渡会とまったく同じせりふ。
絶句したあたしの手からボールを取り返して、住吉はダンと勢いよくついた。
「お前一人の問題じゃないって言っただろうが。それを、お前は黙ってた。つまり、周りの人間を信頼してなかったってことだ。違うか?」
「違う!」
信頼してないなんて、そんなわけない!
「わかってる。でも、お前の行動は、そう受け取られても文句を言えないもんだったってことだ。だから、渡会があんなに怒ったんだ」
さっき、理由を言ってくれない渡会に、あたしはなにを感じた?
――同じ、だったんだ。
さっきのあたしと、昨日の渡会。
同じだったんだ。
「あ……」
「こらアホリ。理解したか?」
昔。なかなか日本語を覚えられなかったあたしのことを、よくこう呼んで住吉はいじめてくれた。そんなことを頭の片隅で思い出す。
でも、今のあたしは、「アホリ」って呼ばれても文句を言えないほど、バカだ。
「理解、した」
「反省してるか?」
「反省、してる」
よろしい、と頷いて、住吉は軽くあたしの背中を叩いた。
「おら、だったらさっさと行ってこい! 明日まで引きずってるようだったらそれこそ殴るからな」
殴られる、のは勘弁して欲しいなあ。
住吉を見る。
住吉は、どこなく不機嫌な、それでいて暖かい表情をしていた。
「…ありがとう」
そっと言って、駆け出す。
とにかく、早く謝らなきゃ。
なのに。
教室に行っても、渡会の姿はすでになかった。
「渡会なら、さっきどっか出てったきり帰ってこねえけど」
さっき…ってことは、屋上の後から帰ってきてないってこと?
そんな。どうしよう。
探しに行こうか。
そう思って踵を返そうとしたところで、お呼び出しがかかってしまった。
「あ、青海ちゃん! どこ行ってたのさ、最後の打ち合わせ始まってるよ!」
…クラスのほう、すっかり忘れてました。
強制連行され、明日の打ち合わせが終わったころは、すでに日は暮れかけていたりして。
さらには、一組にはもう人気がなくなっていたりして…。
「……帰っちゃたってことは、ないよねえ」
確か、屋上で明日の最後の打ち合わせがあるはずだから。
……やっぱり、屋上に行かなきゃダメか。
ああくそう。気が重いなあ。
屋上は、夕焼けで真赤に染まっていた。
どうやらあたしが最後だったようで、「しおりん遅い!」と早速透子に怒られる。
渡会は、こっちを見なかった。目を合わせようとしない、そのことで彼の怒りの大きさがわかって、どうにも悲しくなった。
「取りあえず、セッティングは完了したし。…みんな、心の準備の方は大丈夫だね?」
森本君の声が、どこか遠く聞こえた。
集中しなきゃいけないとわかっているのに、どうにも渡会のことが頭に浮かんでしまって、集中できない。
「それじゃあ、明日は体力勝負になるから。今日のうちに栄養をたっぷりとって、早めに寝て体力を蓄えてください」
おう、と威勢のいい掛け声は軽音の皆様。憂いもすっかりなくなった今、非常に明るい表情をしている。
校庭の真ん中には、今日建てられたライブステージがあるはずだ。明日のために、軽音の人たちが建てたステージ。
パン、と住吉が手を打ち鳴らした。
「じゃあ、風邪をひかないうちに解散!」
おお、という声を残してぞろぞろと立ち上がる。
立ち上がって、慌てて渡会を見やった。
渡会は、静かにこっちを見つめていた。
「…わかったか?」
「…わかった」
渡会の表情は変わらない。
冷たい無表情で、素っ気無く言う。
「大馬鹿者」
「……ごめん」
ざわざわと、人が通り過ぎていく。一人減り、二人減り…どんどんと、人が少なくなっていく屋上。
「渡会のこと、信用してないとか、そう言うんじゃなくて」
ただ、言えなくて。心配かけたくなくて。
俯く。
長く伸びた自分の影が見えた。
「…わかってますよ。女史の考えてることくらい」
ポン、と頭を叩かれた。それと同時に吐き出された言葉は、さっきまでの冷たさが嘘みたいに温かくて。
夕日に染め上げられた渡会の顔が、真っ直ぐにあたしを見つめていた。
「たださあ。もうちょっと俺らにも頼ってくれや」
「……うん」
なんだか気恥ずかしくて、もう一度俯く。視界から渡会の足が消えた。
顔を上げると、渡会は開かれたドアから出ていこうとしているところだった。
その姿をぼんやりと見送っていると、いきなり後ろから頭をはたかれた。
「お咎めはなしか?」
住吉だ。
「…なし、だよ」
「そーか。それはよかったな」
なんですかその眼は。
住吉はにやにやとあたしを見てくる。
「仲直り?」
「………なんであんたってそう一々言葉に含みを持たせるわけ?」
住吉は口の端を持ち上げて笑った。人の悪い笑みだ。
「お前のほうにやましいことがあるからそう感じるだけだろ? 俺は別になにも含ませてねえけど」
嘘だ。
絶対、含ませてる。
住吉を睨みつけていると、軽く背中を叩かれた。振り返ると、透子と詠理がいた。
「明日、がんばろうね」
詠理のやさしい笑顔がふわりと心を温かくする。
「うん。がんばろう」
さっきまでは真赤だった西の空も、徐々に青に支配を譲り渡していく。太陽を隠した山の端は黒く沈み始める。
ゆっくりと澄み渡っていく空には雲ひとつない。
明日は、きっといい天気だ。
空を見上げて、一つ頷く。
うん。がんばろう。
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