激走!文化祭 8
//青海詩織//
今、何時なんだろう。
さっき時計を見た時は、三時半だった。それから結構時間が経ってると思うんだけど……。後どれくらい時間が残っているのか。
本当に、早く過ぎて欲しいときに限って、時間ってモノは遅々として進まないものだ。
なんてことを考えている暇は、はっきり言ってない。
背後からは入り乱れる足音が迫りつつある。
「…しつっこいなあもう」
思わず愚痴がこぼれた。
もうどれくらい走り続けただろうか。
途中何度か立ち止まったり休んだりしているけれど、それを省いてもかれこれ……三時間、弱?
冗談じゃないよ。
おかげでなんだか、腰が痛い。
脚じゃなくて、腰。
腰が砕けそう、なんて、初めての体験じゃなかろうか。
…なんてことを考えてる暇もなくて!
「青海、止まらんか!!」
言われて止まる馬鹿はいません、センセー。
振り返ることもせず、ひたすら廊下を走り続ける。
廊下を行き交う生徒たちももう慣れたもので、足音を聞いたとたんに廊下の端に実に速やかに避けてくれる。そしてあたしが通り過ぎるや否や、さりげなく廊下に広がって教師を妨害してくれるのだ。本当に、ありがたい。
心の中で感謝をしつつ廊下の突き当たりの手前で左に曲がった。
階段を上がるか、下りるか。
考えたのは一瞬だった。
とりあえず、下りる。山でクマに襲われたときには上ではなく麓に逃げろ、クマは脚が短くて下りは苦手だから、ということが脳裡をよぎったのは、別に追いかけてきている教師がクマに似ていて脚が短いから、というわけではない。多分。
とにかく、階下に下りようと階段に足を向けたとき。
頭上でものすごい地響きがしたかと思うと、目の前に何かが振ってきた。
「わっ!?」
「おわっ!?」
聞こえた叫び声は聞きなれたもので、現れた姿を見たとたん眼を剥いていた。
「なんでっ!?」
同じく眼を丸くしている渡会と、愕然とした顔を突き合わせていたのは一瞬。
次の瞬間には二人揃って階段をほとんど飛び降りるようにして駆け下りていた。
「待たんかお前ら!!」
追ってくる足音は、先ほどの倍になっている。
「…まずいな」
渡会の声が聞こえた。いつものへらへらした軽い声じゃなくて、ものすごく真剣な声。
まずい、なんてものじゃないと思うので、それには沈黙をもって同意した。
最後の五段を飛び降りて、
「お前はそっち行け」
そう言い捨てて渡会は大きな音を立てて階段を下り始める。心の中で礼を言って、二階の廊下へと駆け出した。
踊り場から廊下に飛び出したあと、一拍を置いてどやどやと足音と声が聞こえてきた。とりあえず、手近な教室に飛び込む。
「ごめん、ちょっとかくまって」
二年四組の教室だった。
劇の大道具が所狭しと置かれていて、隠れるには申し分ない。
返事も聞かず、大きな板材の後ろに身を隠す。
目の前には窓。万が一の時は、雨どいを伝って下りることもできるし、隣の教室に移れないこともない。ここは二階だ。落ちても骨折程度で済む。
足音が聞こえてきた。どうやら二手に分かれたらしい。
音を立てて教室のドアが開かれた。
「ここに誰かこなかったか!?」
怒鳴り声に、反射的に身体が固くなる。
すぐそばで、ヤキソバを食べていた男の子が口を開いた。
「えー? 誰も来てませんけど」
「じゃあ、廊下を走っていった奴を見なかったか?」
ざわざわ、と声がする。
一呼吸置いて、女の子の声が答えた。
「見てないよね。誰も通りませんでしたけど」
「…そうか」
声がして、そして遠ざかる足音とともにドアが閉まる音がした。
……行った?
ほう、とため息が落ち、強張っていた肩から力が抜ける。
視線を走らせると、ヤキソバを頬張っている男の子と眼があった。箸を持っていないほうの手で「立て」という手振りをする。
そろそろ、と板材から顔を出す。…どうやら教師は行ったようだった。
「…ありがとう」
小声で言うと、男の子は笑った。にっこり、と言うよりはニヤリに近い笑みだったけど。
「いいよ。あんたがつかまったりしたら、数実に申し訳ないし」
「あ、スミ君の友達?」
ヤキソバをかき込んで、口を大きく動かしながら頷く。
「一応、あんたのことも聞いてる。ついでに向井のことも知ってるので、ご安心くだされ」
…なんだか、変な奴。
「安心って、みんなの誤解のこと?」
「まあそれも含めて変な噂とかその他もろもろ」
その答えには思わず笑ってしまった。
そうか、説明してる人にはちゃんと説明してるんだ。
なんだか筋違いなところに安心して、立ち上がろうとした。
「…ッ」
体重をかけた瞬間、右の足首が、鈍く痛んだ。
「どうかした?」
「ううん」
怪訝そうな声に笑顔を向けて、そのまま立ち上がる。そしてドアのところまで行くと、振り返って教室にいた人たち全員に、頭を下げた。
「どうもお世話になりました」
ふと、教室の人たちが笑顔になったような気がしたけれど、すぐに背を向けたから定かではなかった。
先生がいないかどうか確かめて、廊下に出る。そして静かに歩き出した。
右足が、やっぱり痛む。
…まずいな。
まだ時間、残ってるのに。
さっきの教室で、時計を見た。
四時半、過ぎだった。
あと、三十分。
それまでに、この足で耐え切れるかどうか。
…途中で、渡会か住吉に会長印を預ける、というのも一つの手だ。
このままあたしが持っていて、もし走れなくなった場合にどうしようもないから。
そんな危険を冒すよりは――…。
考え込んでいたあたしは、廊下の端に現れた人影に気づくのが遅れた。
周囲から起こった慌てたような声に顔を上げ、そして見た。
こちらに向かって突進してくる教師の姿を。
まずい。
反射的に百八十度方向転換してそのまま駆け出す。
踏み出した瞬間ずきりと右足首が痛んだけれど、意識している暇はなかった。
大丈夫。
この程度の痛みなら、やり過ごせる。
細く息を吸って、腹筋に力を入れて。
そして、足の痛みを振り切るように、思い切り走り出した。
|