秀才クン 1
//青海詩織//
どこか遠くで音が聞こえる。
聞きなれた音。
一定の間隔で鳴り続けるこれは――…そう、電話。
………でんわ?
一瞬で眼がさめた。
跳ね起きて、ものすごい速さでベッドから出る。一瞬まとわりついた冷気に身体が震えたが、かまっていられない。部屋を出て、フローリングの冷たさにびくりとしながらも、鳴り続ける電話に飛びついた。
「はいっ、青海です!」
両親からか!?
一瞬胸が期待で膨れたが、それは次の瞬間受話器から流れてきた声を聞いたとたん音を立ててしぼんでしまった。
『おっはー詩織ー。モーニングコールだよーん♪』
朝っぱらからハイテンションなその声は、母親のものではない。母親に、二番目くらいに近い人。
一気に肩から力が抜けてしまった。
「……果歩ねえ。おはよう…って、もしかして今住吉家?」
『ピンポーン。いやね、詩織が淋しいんじゃないかなーって思ってさぁ』
「てのは口実で、また旦那とケンカしたんだろ?」
電話の向こうが静かになった。
まったくもう。結婚して十年近く経つくせに。
呆れつつ、受話器を肩と頬ではさんで両腕を抱きしめる。
寒い。
電気がついていない部屋は暗くて、寒い。
…暗い?
なぜ、こんなに暗い?
ベランダを見ると、外はようやく白み始めたかという頃合。
ぎこちなく頭をめぐらせ、壁にかかった時計を見る。
………六時、五分前。
「…かーほーねーぇ」
やめてくれよー。
泣きそうな声でそう言うと、電話の向こうの女性はからからと笑った。
『だってほっとくとあんた起きないでしょー? 早めに起こしてあげたのよ。それにあたしもう家出るところだから。早起きしなさいたまには』
「早すぎるってば!」
八時に家を出ても余裕で間に合うのに、なぜにこんな時間に起きなければならないのか。
電話の向こうでまた明るい笑い声がした。
『じゃあね。ちゃんと学校行きなさいね』
母親のような科白を残して電話は切れた。
溜息をついて、受話器を置く。
この時間なら確実にスミ君も寝ているというのに。
なにを考えているのかあのお姉さまは。
あくびをする。
時計を見る。
外を見る。
あくびをする。
「………寝よ」
そのままいそいそと布団にもぐりこみ。
再び眼を開けた頃には、すっかり外は明るくなっていた。
…明るくなりすぎていた。
がばっと起き上がる。
時計を見る。
九時。三十分。
――くじ、さんじゅっぷん。
…鳥の声が清々しい。
一気にやる気をなくしてベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
「……お約束?」
なんて冗談言ってる場合じゃなくて。
ここまで完璧な遅刻だと、学校に行くのも面倒くさくなってくる。
…いやいや。
留守中に娘が不登校とかになったりしたら、あの両親のことだものすごくうろたえかつ怒りかつ哀しみするだろう。
それは困る。娘として非常に困る。
「…しょうがないな。ガッコ行くか」
よっこいせ、と起き上がる。
と、そのまえに。
まずは、腹ごしらえだよな。
うん。
二時間目が終わった頃合を見計らって教室に滑り込んだとたん。
「しーおーりー」
低ぅい声が背後から聞こえた。
振り返らなくてもわかる。あたしの名前を呼び捨てにできる男は、この学校では一人しかいない。
「…はよ」
振り返ると、案の定そこには住吉がいて、なんともいえない奇妙な顔で睨みつけてきた。怒っているのと呆れているのと半々といった表情。その隣であからさまに呆れた顔をしているのは透子だ。詠理の姿は見えない。
「…お前なあ。言ってるそばから遅刻か?」
「いやー…はは」
だって、いつのまにか目覚まし止まってたんだもん。
「お前が、止めたんだろうが」
…そうとも言うけどさ。
「まあまあすみよっしー、そのくらいにしときなよ。んで、しおりん、眼は醒めてるかい?」
「しおりんって言うなってば。まあ、そこそこ覚醒してるけど?」
それはよかった。
そう言いながら、透子は教室の入り口で立ち尽くしていたあたしの手を引っ張って廊下へ引きずり出していく。
…クラスの奴らには聞かれたくない話なんだろうか。
廊下に出て、周囲に人気がないことを確認すると、透子は軽く肩をすくめた。
「森本勧誘作戦。一班、作戦失敗しちゃいました」
「ずいぶん気軽に言うねぇ」
失敗しちゃいました…って言われても。
「そっれがさあ、朝イチで声かけたんだけども。ちゃんと『おはよう』って挨拶したのよー? それなのに、彼ってばあっさり無視してくれちゃって」
はあ。無視、ねえ。
「仲間に引き込むとか、それ以前の問題だったわ。あーれはまともに会話するところからはじめないとダメっすね」
…それは、キビシイ。
人間嫌いだという噂は、もしかしたら本当なのかも?
「かもね。おかげで詠理なんかは顔を直視することもできなくって。あの子は今回戦力にはならんよ」
「エーリにそんなことは期待してないよ」
基本的に人見知りする詠理に、いきなり男を口説けなどという難問を誰が吹っかけるか。
「スミ君はどうさ?」
問い掛けると、住吉は太い首に手を回して軽く首を傾げた。
「あいつとは芸術の選択科目が同じだから、顔見知り程度にはなってると思うんだがなあ…。多分、舟木よりは見込みがあると思うぞ」
「なんだとー?」
さっと眉を寄せた透子だが、すぐに表情を戻してこちらに顔を向けてきた。
「そうそう、それでちょっとお願いなんだけどさ。森本君、昼休みは大抵図書室にいるらしいのよ。でも三四組は五限目体育じゃん? 一組も移動があるからさ、できればしおりん交渉にいってくれないかな」
「森本君って五組だろ? 誰か……は、いないか」
渡会とのぞみが一組、あたしが二組、野島と詠理と透子が三組、住吉が四組。ちなみに、二年は五クラスしかなく、生徒会長は五組だったりする。
「…しょうがないなあ」
でも、よく考えたら、森本君とやらの噂は聞いても顔はよく知らないぞ、あたし。
そう言うと、透子は片手を振りつつあっけらかんと言い切った。
「大丈夫、見たらわかるから!」
おい。
「なんかねー、ああ、そんな感じ、っていう外見してるから」
「ああ。なんとなく『ああ、森本か』って感じ。絶対すぐにわかる」
住吉まで、そんなことを言う。
どんなだよ。
首を傾げていると、透子が時計を見て慌てて片手を上げた。
「あっと。あたし次移動なんだよね。じゃ、また放課後にいつもの場所でッ」
そう言い捨てて、風のごとく走り去ってしまう。
透子は、いつもいつも(無駄なほど)元気だ…と思う。いいことだ。
なんとなく透子の姿を見送っていると、がし、と背後から肩に手がかかった。そのままぎぎぎ、と力が加わる。
「いだだだだ」
「お・ま・え・は・なあ!」
ぎりぎりぎり。
「いたい痛いイタイ!!」
シャレにならんくらい痛いってばそれ!
涙を浮かべて暴れると、住吉はようやく握力を弱めた。
「なんのために朝姉貴が電話したんだよ」
「って、スミ君まさか起きてたの?」
あんな時間に?
本気で驚いたら、
「叩き起こされたんだよお前のせいで俺まで!」
今度はこめかみをこぶしでぐりぐりとやられてしまい、
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
声もなく悶絶する。
「大体なんだあの女は! イイ歳して新婚ほやほやの新妻じゃあるまいし一々実家に戻ってくるなよ」
「あたしに言うな!」
「けんかしたならけんかしたって素直に言いやがれ」
「だから、あたしに言うなってかその手離せ!」
「お前は二度寝したからいいかもしれんが、俺はあのまま朝飯作らされたんだぞ。俺は睡眠四時間だってのにてめえだけ熟睡こきやがって。俺の睡眠を返せ」
「それが本音か!」
逆恨み…とは言い切れないけど、果歩ねえがあたしを口実にしたっぽいのがなんとなくわかってしまったからあんまり強く出れないけど!
だから、いいかげんそれやめてくれってばほんとに痛いんだよ!!
泣きながら訴えると、ようやく住吉は力を緩めた。そのときだった。
「…なーにやってんのあんたら」
低い、低い声が聞こえた。
住吉の両拳がこめかみから離れる。
涙のにじんだ眼を開けて、何度か瞬いて視界をクリアにさせると、そこに現れたのは渡会。…なぜか、ひどく不機嫌そうな顔をして、こっちを睨みつけている、渡会がいた。
「あんたらさ、じゃれあうのも時と場合と場所を考えね? 目立ちすぎ」
住吉と顔を見合わせてしまった。
なんとなく、周囲の皆様の視線が痛い…ような気がする。
そうだ。今は、あまり目立ってはいけない。
そう思って慌てて住吉から身体を離すと、渡会はすっと眼を細めてこちらを睨んだ。
…なに?
また、住吉を見上げてみる。すると、住吉は住吉で、なんだか「意外だ」という表情で渡会を見ている。観察、と言ったほうがいいのかもしれない、そんな表情。
と、住吉がすっといつもの、穏やかで落ち着いた表情に戻った。そのまま片手を挙げて、こう言った。
「や、すまん。気をつける」
“じゃれあう”云々を否定することもなく、住吉はさらりとそう言った後、またわずかに眼を細めるようにして渡会を見た。
渡会の顔が、なぜか、険しくなったような気がした。
「…ああ、気をつけてくれ」
低くそう言って、渡会はすぐ横を素通りしていく。こちらには眼もくれずに。
そのまま、一組に入っていく彼の背中を見つめていたら、住吉の呟きが耳に届いた。
「……まさか、なぁ」
「なにが?」
「や。なんでもねぇ」
住吉の顔は、あさっての方向を向いている。
…なにさ。
なんか、やな感じ。
問い詰めようとしたところで、チャイムが鳴った。住吉は渡りに舟、という顔でその場を逃げていってしまった。
「じゃ、交渉よろしく」
そう言い残して。
…なにさ。
やな感じ。
住吉も。
…渡会も。
朝のうちに、なにかあったのかもしれない。でも、朝学校にいなかったあたしには、それはわからない。
…これは、遅刻したバツという奴なのでしょうか。
昼休み、食事を終えると早速図書室に足を向けた。
正直なところ、読書はほとんどといっていいほどしない。本が嫌い、というわけではないが、どうしても肩が凝って(というよりアタマが凝って)しまうので、あまり読む気にならないのだ。そんなあたしが図書室に足を向けるのは…一年の春、以来だろうか。
図書室のドアをあけると、埃っぽい独特の匂いが鼻をついた。本の匂い。
ドアをあけたときの音の大きさに驚いて、今度は注意深く、音を立てないように気をつけてドアを閉める。
図書室には、カウンターにいる図書委員と、他には二人しか人がいなかった。
森本君が図書委員という話は聞いていないし、委員の子はそもそも女の子だったので数に入れない。
ということは、二人のうちのどちらかだ。
背の高い書架の前に立ち、本を選んでいるらしき小柄な男の子。
そして、テーブルに肘を置き、頬杖をついて分厚い本を読んでいる眼鏡の少年。
透子と住吉の言葉を思い出した。
背の低い男の子。
…眼鏡の、少年。
冷静沈着頭脳明晰学年トップを走り続ける学校始まって以来の秀才でも人間嫌いで冷血漢。それが、森本君とやらについての今現在あたしの耳に入っている情報。
もう一度、二人を見比べる。
男の子が爪先立って本を一冊手の中に落とし、こちらを振り向いた。小さな眼、丸い鼻。どこかぼんやりしている、そんな印象を受ける。
男の子の顔を見た瞬間、あたしは読書中の少年の方へと足を向けた。カウンターへと向かった男の子の横を通り抜ける。
読書に集中しているらしい少年の前に立つと、そのつむじを見下ろして、静かに口を開いた。
「――森本君?」
一瞬の間の後、彼はついと顔を上げた。眼鏡の奥の眼は鋭くて、自然と背筋が伸びた。
「…なに?」
少年改め森本君の声は、住吉ほど低くもなく、野島ほど高くもない。渡会と同じくらいのトーン。
「…ちょっと、時間あるかな」
眼鏡の奥の眼が細められた。
「今?」
「今」
鋭い眼が探るように見つめてくる。自然と身体が強張った。
「――なにか用なの?」
耳に馴染みやすい声には抑揚がない。警戒心丸出し。当たり前だけど。
「ちょっと、お話がありまして」
今度は無遠慮に眺めてきた。品定めするような、そんな眼つき。…かなり、感じ悪いけど、仕方ないことだと思って耐える。
「俺、今読書中なんだけど」
それは見たらわかる。一目でわかる。そんな迷惑そうな顔されても、こっちにも引けない事情があるんです。
「…時間はとらせないから」
いつもよりも低い声でそう言うと、森本君はもう一度目を細めて、そして軽く顎を引いた。
「――座れば?」
……とりあえず、会話することには成功した、ということで……第一関門、突破?
「単刀直入に訊くけど」
腰を下ろし、机に肘を置いて身を乗り出して、早速切り出した。遠まわしな会話はあたしにはできない。直球勝負しか、あたしにはできないから、それをする。
「あなたは、今の生徒会および学校をどう思いますか?」
眼鏡の奥の眼が見開かれた…ような、気がする。一瞬大きくなったあと、再びもとの鋭い瞳に戻って、森本君は「ふうん」と呟いた。
「…生徒会に目の仇にされている君がそういうことを訊いてくると、なにやら意味深だな」
言葉の内容に驚いた。
あたしのこと、知っていたのか。
「毎朝毎朝校門であれだけ派手なバトルをしていたら、嫌でも顔と名前ぐらい覚えると思わないか、青海詩織さん」
「…チッ」
「そこで舌打ちする理由を訊いてもいいか?」
「いや気にしないで、ただちょっとあの生徒会長に対する苛立ちが表面にでただけだから」
てことは、全校生徒にこの顔と名前が知れ渡っていると考えてもいいのか? 冗談じゃないよくそう。ただでさえ目立つ外見してんのに、あのバカな男のせいで…!
っと、一瞬思考がそれかけた。
今はあたしのことはどうでもいいんだよ。
「うん、まあ、生徒会には個人的な恨みつらみが山ほどあるわけなんだけど、あたしのことは置いといて。森本君は、今の生徒会とか学校とか教師について、なにか思うところはないわけ?」
「……べつに」
…その答えはなんとなく予想ついてたけどさ。
「…んじゃさ。前と比べて、今の学校をどう思う?」
いったん本に落とした視線を再び上げてこちらに視線を投げて。
「俺にはこれといった被害は出ていないし、君には鬱陶しいかもしれない生徒会も、俺には害はない」
ぐ。
「授業のペースも、俺にはむしろちょうどいいぐらいだし。不満を持つ理由はどこにもないね」
…そんなに「俺には」「俺には」連発しなくてもいいじゃないか。
だけど、彼の言うことはもっともだ。
いわゆる「優等生」タイプには、今の生徒会や学校は特になにも言わない。それに、今のこの「成績」重視の教育ペースにあっさりついていっているこの人だったら、学校に不満なんかあるはずがないわけで。
つまり?
…こっち側に引き抜くのは、ムリってことですか?
「…で? 話ってそれだけ?」
静かな声で我に返った。鋭い眼が一瞬見つめた後、そのまま本に落とされる。
「もういいかな。俺、今日中にこの本読んでしまいたいんだけど」
それが、決定打だった。
これ以上会話を続けることができず、立ち上がる。
「…邪魔したね」
そのまま彼に背を向けて、図書室を出た。
ゴメンナサイ。
二班、玉砕しました。
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