高校騒動記〜文化祭死闘編〜


 始動準備、あれこれ  1

//青海詩織(おうみしおり)//

 びっくりしたなぁ。
 なにって、七尾くんに。
 確かに詠理はちっちゃくて思わず抱きしめたくなるほどかわいいよ。髪も猫ッ毛でふわふわしてるし、眼も大きいし。
 でも、住吉の前であれはさすがにまずかったねぇ。
 案の定、焦りまくった住吉はあっさりみんなの前で暴露しちゃうし。
 まあ、隠しててもそのうちばれることだろうから、ちょうどいい頃合だったんじゃないかな。これで、あたしと住吉のことで妙な勘違いをする奴も減るだろう。
 そう。渡会の勘違いも、解けたみたいだったし。


 日を追うごとに、朝が寒くなっていく。見渡せば、山々もほんのり赤や黄色に色づき始めている。秋は静かに深まっていく。
 今朝は、暴れブタは出ないようだ。学校へ続くこの道は毎朝毎夕何百回と通ってきたけれど、そんな珍妙なものに出くわすのは後にも先にもあれ一回だと思いたい。おかげで足を痛めてしまって、体重をかけると痛む。歩くには支障はないけれど、全力疾走はちょっとキツイ。
 校門が見えてくる。自然と顔に力が入った。
 校門のところには、いつものごとく数人の生徒がたむろしている。
 やってられない。
 軽く息をつき、肩にかかる髪を払うと校門を通り過ぎた。

 とたん、
「青海詩織」
 低い声が飛んできて、嘆息する。振り向くのも嫌だったけれど、無視したら後が鬱陶しいので仕方なく振り向く。そこには、予想通り井名里がいた。メガネの奥の細い目がこちらを睨みつけている。
「肩を越す髪は、くくれ」
 ……ああ、はいはい。
 以前自分で言った言葉が、こういう風に返ってくる。
 まあいいけどね、とスカートのポケットに手を突っ込んだときだった。
「井名里」
 聞きなれた声が耳を掠めた。顔を上げると、生徒会長の後ろから、メガネの少年が真っ直ぐにこちらを見つめている。高くもなく低くもない、その中間のトーン。
 生徒会長の視線がそれた。振り向き、「なんだ、森本」と言う声が聞こえた。
「あれは無視してもいいのか?」
 その言葉に、井名里の視線が動く。つられるように二人の視線を追うと、その先では、派手な緑の髪の少年が飄々と校門を通り過ぎたところだった。
 生徒会長サマは顔色を変えて「そこの生徒、待て!」と緑髪少年のもとへと飛んで行った。
 …派手な頭だ。
 森本君が軽く顎をしゃくったので、慌ててその場を離れた。
「…あれ、やりすぎじゃない?」
「まあ、俺もあまり良くない趣味だとは思うけどね」
 作戦その1。とりあえず、あたしたちから生徒会や教師の眼をそらす。
 緑髪少年は、そのためのおとりだ。ちなみに軽音部の一年生。
「…大丈夫かな」
「大丈夫だろ。彼は、今までかなり素行は良かったはずだから、そんなに問題にはならないはずだ」
 …さようですか。
 それよりも、と森本君が言った。
「七尾が動くぞ」
 その言葉に、前を見る。前方、昇降口のところでチェック用紙を手に持ち佇んでいるのは、生徒会役員の少女。スケープゴートに抜擢されてしまった少女だ。
「作戦、その2」
 森本君が呟いた時、すぐ横を誰かが駆け抜けて行った。
 柔らかい黒髪が風に踊った。
 かなりの速さで駆けて行った少年は、勢いあまって少女にぶつかった。
 可愛らしい悲鳴と、慌てたような謝罪の言葉が聞こえる。
 手を借りて立ち上がった少女が、謝りながら校舎の奥へ消えていった少年をうっとりと見つめている。その頬は、ここからでもはっきりとわかるほど赤くなっていた。
「“偶然の出逢い”作戦。成功したらしいな」
 …ううむ。鮮やか。
 さすが、タラシ。
 あまりの鮮やかさに、妙に感心してしまった。


 昼休み、あたしは透子に呼び出されて一階の購買へ行った。別にパンを買うわけでもなく、自販機でパックのジュースを買って購買の前の壁にもたれる。
 例の彼女は、毎日購買でパンを買うのだという。
 別にいいけどさ、どこからそういう情報仕入れてくんの?
「ふっふっふ。それは企業秘密だよ、しおりん」
 しおりんて言うなってば。
 透子と二人、壁にもたれながらジュースを飲む。詠理は住吉と屋上にいるはずだ。昨日の今日で、住吉はかなり登校するのを嫌がったみたいだけど。甘いんだよ。あたしの髪を犠牲にしたんだ、そのぐらい我慢しろ。
「いやー、それにしても、すみよっしーあっさりとばらしたねえ」
 ストローをくわえながら、透子がにししと笑った。
「かなり焦ってたからね。それでなくても、最近エーリを狙ってる男が多いって愚痴ってたから」
 そう。詠理は、お嬢様っぽい雰囲気からかやけにもてるのだ。特に上級生に。
「ははは。そういやあたしこないだ仲を取り持てとか言われたわ。すっかり忘れてたけど」
 透子。あんたも鬼だねえ。
「忘れてやるなよ」
「いやー。だって、その頃って出演取り消しされてかなりプッツンきてたから。十人並みの顔の男のことなどすぐに忘れてしまいますよワタクシ」
「鬼」
「ほっほっほ」
 誰のマネさそれ。
 ストローを軽く吸うと、りんごの味が口の中に広がる。
 それにしてもさ。と透子が言った。
「わたーの誤解が解けてよかったねー」
 ぶッ!!
「汚いなあしおりん」
 と、トーコ!?
 りんごジュースをまともに気管にいれてしまって息ができない。
 咳き込みながら、なんとか声を絞り出した。
「な、なんで…」
「え? なんで知ってるのかって? ちっちっち、甘いよしおりん。落雁みたいに甘いよ君は」
「ち、ちが…」
「ん? すみよっしーと血が繋がってるってわたーにわかってもらえてよかったって? んーもう、かわいいなあチミは。わかってますとも。しおりんの気持ちなどなにもかも〜」
「違うってば! どこから渡会のことが出てくるんだよ!」
 チッチッチ、と透子は立てた指を振る。
「しおりん、自分じゃポーカーフェイスのつもりなんだろうけどね。その道十六年のこの透子様にかかっちゃヒヨコよヒヨコ」
「どの道だ!」
「だってさあ、しおりんてばすぐ顔に出るんだもんねえ。バレバレよバレバレ」
 聞いてよちょっと!
 それに、バレバレって…!
 ん? と覗き込まれて、思わず顔をそらしてしまった。
「…そんなんじゃないってば」
「……まあ、そういうことにしといてもいいけどね。忠告までに申し上げると、しおりん。今あんた顔真赤よ」

 ――ぐぅ。

 これだから、透子は油断がならないんだ。
「まあ言ってみたんさい。聞いてあげるから」
 別に聞いていらない。なんて言おうものならなにを言われることか。
 溜息が漏れた。
 眼の前では、昼食のパンを買い求める生徒たちが慌しく行き来している。購買特有の喧騒と熱気。
「……べつに、好きとかそういうんじゃなくてさ」
「………まあ、そういうことにしとこう。それで?」
 なんですかそのものすごく不満そうな顔は。
「いや、それだけだけど」
 …なんで睨むんですか。
「むー。詠理には話すんだよね、しおりんて。なんかさー。ずるいっしょ」
「え? や、別になにも言わないけど」
 詠理とはそういう話したことないし。すると、透子はずいぶん驚いた顔をした。
「そうなの? なんだぁ、あたしてっきり」
 てっきり?
 訊き返すと、短い沈黙の後、透子はぺろりと舌を出した。
「あー、呆れないでね? いやさあ、あたしたち仲良くなったのって高校からっしょ? それに、一年のときってほとんど喋らなかったじゃない。だからさー、やっぱり詠理のほうが付き合い長いし、まだまだいろんな話するまでには打ち解けてないのかなーとか思っちゃってさあ」
 びっくりした。
 びっくりしすぎて、思わずジュースのパックを握り締めてしまってストローからジュースが飛び出した。
「わわッ。え、や、そんなことないよ? あたしわりと誰に対してもこんなんだし。あんまり他人とべたべたすんの好きじゃないし」
「あー。それはなんとなく気づいてた」
「そか」
「うん」
 また、沈黙。
 透子がそんな風に思っていたことに驚いた。
 まあ、自分でもなかなか打ち解けにくい性格してるって自覚はあるんだけどさ。
「んで、結局わたーのことどう思ってるのさ」
 …またそこに戻るのか。
 忘れて欲しいのに、くそう。
「…べつに、どうもこうもないよ。あいつとは口げんかしかしないし」
「ふむ」
「あいつ、いらんこと言いだし」
「ふむう」
「…西岡もいるし」
「ほほぉう」
 ……なにさ、その顔は。
「つまり、しおりんはのぞみんの存在が気になる、と」
「…気になるとかそういうんじゃ」
「さらに言うならのぞみんとわたーの関係もヒジョーに気になる、と」
 エスカレートしてるし!
 思わず頭を抱えてしまった。
「いや、だから、そういうんじゃなくてさぁ…」
「じゃあどういうんさ」
 切りかえされるとは思ったけれどスパッと切りかえされて沈黙する。ジュースのパックをべこべこと膨らませて。
 そんなこと訊かれても、困る。
 答えられるわけ、ないだろ。そんなの。
 黙ってると、透子がふむ、と呟いた。またなにか言われるのか、と思っていたら、意外なことを口に出す。
「それにしても、例の子来ないね」
 例の子…………ああ、あの。
 忘れてたよ。透子が変な話振るから。
 ふと視線をやれば、階段のところに七尾君が張っているのが見えた。落ち着きなくそわそわしている。
 そういえば、住吉はどうやって七尾君を説得したんだろう。
 後で聞いてみよう。
「うーん。そろそろ来るはずなんだけど――…あ、来た」
 え?
 右手を見やると、パタパタと一人の少女がこちらに駆けてくるのが見えた。手には水色の財布が握られている。
 そのままあたしたちの目の前を通り過ぎて、ずいぶんと人が少なくなった購買に入っていった。
「いつも、生徒会の仕事を終わらせてからお昼食べるっぽいんだ。だから、大抵この時間にくるみたい」
 ……昼休み開始時からずっと待ってたあたしたちの苦労は? 
「備えあれば憂いなしって言うじゃん」
 うーん。まあ、そうなんだけどね。
 そのまま五分ほど待っていると、両手にパンを抱えて例の子が出てきた。とたん。
「わっ?」
「きゃっ」
 眼の前で、少女は誰かとぶつかって、パンを床に落としてしまった。
「あ、ごめん!」
 どちらかといえば高めの声。長いまつげにさらさらの黒髪。
 少女のほうは、ぶつかった相手を見て真赤になっている。
 七尾君はパンを拾って顔を上げ、そしていかにも「今気づいた」という表情をして見せた。
「あれっ? 君、今朝の――…」
 ますます赤くなる少女。こっちまで恥ずかしくなってくるのはなぜなんでしょう。
「ごめん、ほんとに」
 トドメににっこり。漫画だったらバックに花とか点描とかがばばーんと散っているような、そんな笑顔で。
 そして七尾君はやけに爽やかに去って行った。真赤な顔の少女を残して。
 どこかふらつきながら少女が去っていくのを見送りながら、透子がうぬうと唸った。
「演劇部に引き抜きたいわ」
「あ、それいいんじゃない? 結構はまるかも」
「セブン目当ての女子も絶対入ってくれるし」
 セブン……ああ、七尾君ね。なんかそういう特撮ヒーローがいたよなあ。あたしの年代じゃないけど。
「それに、セブンが入ったらすみよっしーも気が気じゃないだろうし。うまくいけば男手が一気に増えるって寸法さ!」
「…そういうことにはミョーに頭が回るね」
「いやん、そんなに褒めないでよ!」
 褒めてないし。
 でも、それ結構いい手だな。もし七尾君が演劇部に入ったりしたら、住吉も放っとけないだろうし。そうなったら、結局ずるずると透子に押し切られそう。同盟ん時みたいに。
「でもさー」
 べこ、とパックを膨らませて、透子が言った。
「かなりまいっちゃったっぽいね、あの子。さすがセブン、罪作りな男」
 ここら辺の話の転換の仕方はさすが透子って感じなんだけど。いやでも、ねえ。
「まさかああまで惚れっぽいとはねえ」
 顔を見合わせる。
「…とりあえず、成功?」
「……かなあ?」
 ちょこっとだけ良心が痛んだりしたけれど、それにはこの際眼を瞑っておこう。


 そんなこんなで、生徒会のほうは七尾君に一任したとして、あたしたちもぼーっとしているわけには行かない。
 こちらはこちらでやることがいっぱいある。
 生徒会、およびこちらが黒だと眼をつけた生徒以外の全校生徒に、なるべく生徒会に対しての不満を植え付ける、もしくはあおらせなければいけない。
 この計画には生徒の協力が絶対必要だから。
 その第一段階が、「反生徒会同盟」なるものが存在すると、みんなに認識させること。
 そのために、靴箱や机の中に小さな紙切れを入れたり、信用できる人間にそれとなく話をしてみたり。
 もちろん、こういった行動を生徒会に気づかれないように、静かに、行動する。
 昼休み、いつものように屋上に集まったメンバーは、任務執行中の七尾君と、昼の自己錬に行ってしまっている渡会をのぞいたほかの面々、そして軽音部の男子部員だった。
 作戦が立ってから、軽音の男子とは何回か顔を合わせる機会があったけれど、みんな気さくで、おもしろい人たちばかりだ。三年生も、勉強で忙しいはずなのに時間を見つけてはちょくちょく顔を出してくれる。
 そのおかげで今の三年生の気持ちが見えてきた。
 今までののんびりとした学校を知っているだけに、「なんで自分たちばかりこんな目に」という思いがかなり強いのだという。勉強漬けの毎日に疲れている人も多いらしい。
 これに目をつけない手はなく、早速その先輩たちに、三年を静かにこっそりと煽動してもらうようにと森本君が頼み込んだ。
 もちろん先輩たちは快諾してくれた。

 詠理が入れた紅茶をすすりながら、森本君が口を開いた。
「…ま、大体作戦は立ったとして……決定打が、まだないんだよね。俺としてはやっぱり生徒会印がベストだと思うんだ」
 …うん、それはそうだよね。
 でも、それはすべて七尾君にかかってる。
 全員が黙り込んだ。
 と、そのとき、ものすごい勢いで屋上のドアが開いた。
「やったぞ!」
 叫んだのは七尾君で。
 滑り込むように全員の前に膝をつくと、握り締めた拳を振り回した。
「明日の夕方、生徒会室が空になるんだ。なんでも、みんないろいろと用事ができたからって。それに、先公たちも会議とか入ってるらしいし」
 ぱちんと住吉が指を鳴らした。
「いいな! それで、会長印の場所は?」
 七尾君が胸を張った。
「任せろって! 生徒会長用のロッカーの、箱の中だ」
 ひゅうと野島が口笛を吹き、透子とのぞみが手を叩き、わっと軽音男子諸君が歓声を上げた。
「よし! じゃあ、計画練るぞ」
 森本君が顔を輝かせて言う。
 あたしは慌てて立ち上がった。
「あ、渡会呼んでくるよ」
「え? ちょっと青海、あたしもい――」
 のぞみがなにか言う声が聞こえたけれど、ほとんど聞いてなかった。

 道場は、校舎の北側、日の当たらないところにひっそりと立っていた。ほとんどの生徒は訪れることはないだろうこの場所に来るのは初めてじゃない。
 剣道場からは、ダン、と床を踏む音と、静かな呼吸、空気を切る音が聞こえていた。
 覗きこむ。
「わたら――…」
 声が、喉の奥で止まってしまった。
 渡会がいた。
 制服のまま、一定の間隔で竹刀を振り下ろす。
 真っ直ぐに背筋を伸ばして、真っ直ぐに竹刀を振り下ろして。
 いつもの渡会からは想像もできないような、真っ直ぐな瞳。真剣な表情。
 …最近は、こいつのこんな表情を見ることはほとんどなくなっていた。剣道をしているときだけ、渡会は真剣な表情になる。真っ直ぐな瞳になる。
 一年の時は、あんなへらへらしたキャラじゃなかったのに。
 真面目な性格だったのが、こんなふうになってしまうほど、渡会の中で剣道が占めるウェイトは大きかったんだろう。
 時折大きく踏み込んで、上段から竹刀を振り下ろす。
 空気を切る鋭い音と、短い息遣いがここまで聞こえる。
 その立ち姿が綺麗で、思わず見惚れていたら、ふと渡会の手が止まった。そしてそのままくるりとこちらを振り向く。
「青海?」
 びっくりした、そんな顔で、そんな声で呼ばれて、慌てて我に返った。
「なした?」
 床に置いてあったタオルで汗を拭いながらこっちに歩いてくる。
 慌てた。
「あ、その。会長印の場所がわかったって、七尾君が。それで、今から計画立てるから。だから、急いで」
「へえ、もうわかったんか。さすがタラシ。やるねえ」
 なんて言いつつ渡会はのんびり汗を拭いている。
 急いでって言ってんのに。
「…先行くから。早く来いよ」
 背を向けたとたん、髪を引っ張られて首がのけぞった。
「まーてって」
「痛いって。離せよ」
「や、これ、掴みやすいわ」
 会長がうるさいから、髪はポニーテールに結ってある。掴みやすいって、あのなあ。
「離せってば!」
 叫んだら、いきなり頭が自由になった。
 もう。なんだってんだよ。
 引っ張られたせいで痛む頭に手をやりながら振り向くと、渡会は戸締りをしているところだった。引き戸を閉めて、大きな南京錠をかけている。
「渡会」
 急がないと、昼休みが終わってしまう。それなのに、なにのんびりやってるんだこの男は!
 ああ、もう!
 置いていこうとしたとたん、また髪を引っ張られた。
「だから待ちなさいって」
「だから痛いって!」
 言ったら、またいきなり離される。
 もう。なんなのさ。
 なんだか非常に悔しくて、さっさと行こうとしたとたん、背後からのんびりとした声が飛んできた。
「あー、もう時間ねえわ」
「は? なに言ってんの。急げばまだ間に合うよ」
「いやいやいやいや。俺ね、この鍵返しに行かなきゃなんねえの。大職まで。昼休みの内に」
 ――はぁっ?
「そういうことは早く言え!!」
 職員室になんか行ってたら、昼休み終わるじゃないか!
「だから、屋上行くのは無理なんですよ」
 なんだそりゃ。じゃあなにか、あたしはまるっきりムダ骨折ったってこと?
 なにそれ。
 ものすごく悔しくて虚しくて、もうこんなバカ置いて行こうと思って足を速めたら、「こらこら」と竹刀で肩を叩かれた。
「女史はせっかちさんでだめだなー。もう少し余裕をもたんと」
 誰のせいだ誰の!
 思わず目の前の男をにらみつけると、いきなり頭を抑えられた。
「はいはい眉間にしわ寄せない。まあ、どうせ間に合わないんだからのんびりいきやしょうや」
 ―――くぅ。
 なんだってこの男はこう。
 握り締めた拳の行き場に困り、そのまま勢いに任せて目の前の男を殴りつける。…避けられた。余計むかついた。
「おっと。って、なんで殴るんだよ!」
「黙って殴られろ」
「はあ!? って、ちょっと女史! 青海!」
 かまわず数発蹴ると、渡会を置いて校舎に戻った。背後から情けない声が聞こえたけど、無視した。
 その後、屋上に戻ったとたんのぞみにねちねちと嫌味を言われ、透子に意味ありげな微笑を送られ、住吉ににやりと笑われしたけれど、それはべつの話だ。


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