驟雨


 バスを降りると、鼻先を湿った風がかすめていった。
 見上げた山の端にはねずみ色の雲が層をなしている。バスは緩やかなカーブを曲がって見えなくなった。あのバスはあと二つ山を越え、山向こうの街へ向かう。
 雨の訪れを雄弁に物語る空から目をそらして、溜息を落とした。早く帰ろう。
 バス停の裏に止めておいた自転車を引きずり出してまたがると、緑の合間に点在する家々に向かってペダルを踏んだ。

 山の裾野に広がる畑と、その奥に幾重にも連なる山々を見ていると、青葉駅周辺をイナカイナカと騒ぎ立てる西岡や青海を鼻で笑いたくなる。もちろん後が怖いのでそんなことは決してしないが。徒歩十五分圏内にコンビニがあるのは田舎とはいえない。
 午後遅くから降り出した驟雨は静かに畑を潤していく。
 雨にかすむ山を見るのは嫌いじゃない。
 本を読む手を止めて、闇に沈む景色を眺めていたときだった。
 開けたままのふすまから弟が遠慮がちに顔を出した。
「兄ちゃん」
 ん、と気のない声を出した遼一に膝でにじり寄ると、浩次は下から顔を覗き込んできた。
「俺、前髪伸びてきちゃってさぁ」
 甘えべたな弟の遠慮がちな頼みごとに、思わず口元を緩めた。
「母さんは?」
「風呂。親父は遅くなる」
「いいよ。新聞紙取ってきて」
 やった!
 浩次は破顔して部屋を飛び出していった。その隙に、衣装箪笥の奥に隠してある秘蔵の道具を取り出す。
 その間に浩次は取ってきた新聞紙を畳の上に敷いていた。
「前髪だけでいい?」
 最初から遼一に切らせるつもりだったのだろう、浩次の髪はしっとりと濡れている。それに簡単に櫛を通しながら訊くと、「おまかせで」とちゃっかりした言葉が返ってきた。
「失敗しても文句は言うなよ」
「えー」
 前髪を三分の一ほど持ち上げるとはさみを当てた。シャキン、と乾いた音がして、細かい髪が落ちていく。
 最初は神妙な顔をしていた浩次だったが、やがて口を噤んでいることに飽きたのか、遼一の動きを目で追いながら話し出した。
「兄ちゃんさぁ」
「動かない」
「はい。青葉高校ってどんな感じ?」
 遼一ははさみを止めて弟を見下ろした。くるりとした眼が見上げてくる。
「進路?」
「うん。兄ちゃん、わりと楽しいって言ってたじゃん。楽だって」
 遼一は高校進学にあたり、友人たちとは離れることを望んだ。友人との折り合いがよくなかったというわけではない。むしろ関係は良好で、今でも数ヶ月に一度は集まっている。
 だが、遼一は離れたかった。幼い頃から固められてしまったかれらの中の『森本遼一』像が重かった。
 だから、逃げた。
 誰も自分を知らない環境に。
 とはいっても、中学での成績が高校に流れてしまっていて、『森本遼一像』を打ち壊すことはなかなか困難だということを思い知らされる結果になってしまったのだが。
「一年の頃はかなり自由で楽だったけど、今の青葉はあまりすすめないな」
「なんで?」
「風紀や校則が厳しくなってるから、浩次には合わないよ」
「うーん」
「それに遠いし」
 小学生の頃からこの郡では突出した成績を見せ始めた遼一は、早い時期から畑への出入りを禁止されていた。そんなことをするぐらいなら少しでも勉強をしろ、と家族の皆が言う。そのころから浩次が遼一の分を補うように畑の手伝いをしはじめた。今では熱心に農薬の勉強会にも顔を出すようになっているので、この家を継ぐのは浩次だと村の誰もが思っている。なので、通学時間が長いのは、浩次にはあまり歓迎できないことだった。畑にいられる時間は長いほうがいい。
「そっかぁ」
 浩次の呟きに重なるように、外から怒鳴り声が聞こえてきた。浩次が驚いて顔を上げたので危うく耳を切りそうになり、遼一は慌ててはさみを引く。
 怒鳴り声はますます激しくなり、さらには物が割れる音までし始めた。
 隣家だ。
 浩次がそろそろと首を伸ばして遼一を見上げた。
「…珠希ちゃん、かなぁ」
「だろうね」
 ひときわ大きな怒声のあと、乱暴にドアを閉める音が聞こえた。
「ごめん、浩次。続きはあとでいい?」
「うん」
 こくりと頷いて浩次は立ち上がった。首に巻いていたタオルをとって軽く顔を撫でる。
 遼一ははさみをケースに戻し、掃除機に手を伸ばした。
 ざっと畳に掃除機をかけていると、かすかな物音がした。浩次が窓に駆け寄る。浩次が窓をあけるのを横目に見ながら、掃除機を止めた。
 窓の外には、二人の予想にたがわず泣きはらした顔の幼馴染が立っていた。
「遼一、入れて」
 左の頬を腫らし、涙のあとを残しているわりには勝気な声に、浩次がそっと遼一の横に移動する。返事をする前に彼女は部屋に入ってきた。
 カーテンをぴったりと閉めて、彼女は浩次を睨みつけた。
「浩次、なにか飲み物ちょうだい」
 一瞬怯んで、長年の習い性からか浩次は素直に部屋を飛び出していく。それを見送り開け放たれていたふすまを閉めると、遼一は溜息を一つ落とした。
「……今回は何?」
 珠希は遼一の質問には答えず、ごろりとベッドに横になった。
「殴られた。くそジジイ」
「浩次の前ではそんな言葉使うなよ」
「ブラコン」
「アイツには恩があるから」
 遼一がでていくこの家を、笑顔一つで「俺が継ぐ」と宣言してくれた弟だ。いくら頭を下げても足りない恩がある。
「出て行ってやる、こんな村」
 低く激しい言葉に、遼一は無言でベッドに腰を下ろした。すぐに細い腕が絡まってくる。殴られた時にかばいでもしたのか、白い腕にはところどころあざがあった。今はまだ赤いだけだが、明日には色が変わるだろう。
「卒業までは我慢するんだ?」
「わかんない。勝也はいつきてもいいって言ってくれてる」
「そうか」
 珠希の恋人は今東京に住んでいる。卒業と同時に珠希もこの村を出て彼の元に行くつもりでいるのだが、父親の承諾が得られないでいる。
 最初はこんなにあざを作ることはなかった。時々落ちる雷が、平手になり、最近では拳になってしまったらしい。父親もエスカレートしていく自分をとめられないでいるのだろう、遼一の両親を相手に長い時間話をしている姿を目にしたことは少なくない。
 苦しそうな二人の姿に、遼一は我が身を重ねずにはいられない。
「遼一ぃ」
 腕を引かれて仰向けにベッドに倒れこんだ。
 蛍光灯の明りが遮られる。
 胸元に熱。頬に髪が落ちた。
 唇が重なる瞬間、遼一は眼を閉じた。
 キスは一瞬で、珠希は泣き出しそうにゆがめた顔を遼一の胸元に伏せる。
「苦しいよぉ」
 遼一は無言でその身体を抱きしめた。
 村でも異色な存在になってしまっている珠希が、唯一心のうちを吐き出せる場所が自分なのだと、こういう時に痛いほど自覚する。
 遼一には浩次がいるが、珠希には誰もいない。
 細い背中を一定のリズムで叩いていると、遠慮がちに浩次が顔を出した。ベッドの上の二人を見て顔を赤らめる。
「お茶、持ってきたんだけど…俺、いないほうがいい?」
 ああ、こんな姿を見せたくはないのにと内心顔をしかめながらも、押し倒されたままで遼一は手を挙げた。
「お前もいて」
 おずおずと入ってきた浩次は、遼一の机の上に麦茶の入ったグラスを置いた。そのまま二人と距離を置いて座り込む。
「浩次じゃま。空気を読め」
「俺の理性が持たないから、浩次もいて」
 浩次は顔を真っ赤にさせてもじもじと遼一を見上げた。泣き出しそうなその顔にようやく珠希は遼一の上からどいた。
「冗談でしょ、本気にするなよバーカ」
「珠希ちゃんがいうと冗談に聞こえないよ」
 気弱な声で反論する浩次に、珠希はふんと鼻を鳴らして、ポツリと言った。
「今夜泊まるから」
 せめてもう少しかわいらしくお願いしてみろ、という兄弟二人の心の声は本人には伝わることはなかった。


 両親は遼一の部屋には滅多に来ることはない。なので、親と喧嘩した時の珠希の避難場所は、遼一の部屋だと昔から決まっていた。両家の親はそのことを知らない。
 ベッドにもたれて、遼一は珠希の髪をすく。
「遼一はどうするの?」
 静かな問いかけに、軽く答えた。
「来年、親とケンカ」
 親の望むようには生きられない。そのことがわかっていながらも、親には言い出せず、ずるずると先送りする。それは遼一の弱さだ。
「珠希みたいに生きられたらいいのに」
「二人で茨の道を行こうか」
「勝也さんに殴られるな」
「勝也とケンカするほどの気持ちはないんだ?」
「珠希への気持ちは初恋でとまっているから」
「初恋の相手って、残るんだよね」
 のどで笑って、珠希は唇を寄せてくる。それをかわして、遼一は苦笑した。
「相憐れむのは好みじゃないな」
「今現在はなんだっていう話だよ、それ」
 同じ傷を抱えて、同じ状況にもがいている二人。傷をなめあうのは楽だけれど、未来は見えない。
「好きな子は?」
「珠希がでていってから見つけるよ」
 その言葉に、珠希は眉をゆがめた。軽く笑って額に軽く唇を落とす。
 珠希は先に村を出て行く。遼一を残して先に行く。
「遼一。東京にくるなら、言って。住む所ぐらいは提供できるって、勝也が」
「うん。どうしてもダメなら、珠希を頼るよ」
 遼一、と動いた唇を見ないふりして立ち上がる。
「おやすみ」
 返事はなかった。


 布団に入ると、気配に気づいたのだろう浩次が身動きした。
「…兄ちゃん?」
「寝ろ」
 ベッドがもそもそと動く。
「珠希ちゃん、いいの?」
「もう遅いから」
「珠希ちゃん、行っちゃうよ」
 その言葉に、遼一は、浩次がすべてを知っていることを知った。
「いいんだ」
「でも、兄ちゃん」
「珠希と俺は似過ぎているから」
 同じ悩み、同じ傷。
 この狭い村の中で、惹かれあうなというほうが無理だった。
 進む道の方向に先に気づいたのは珠希だった。
 不安定な関係で満足したのは遼一。
 それが全て。
「だから、いいんだ」
 桜が咲く前に、遼一は珠希を見送ろう。
 そして季節が一回りした時に、遼一はどの道の上に立っているのだろうか。
 珠希のような強さがほしい。傷つけて傷ついて、それでも自分の道を行こうとするあの強さが。
 選びたい道がある。
 だが、そのために傷つく人たちを思うと、それを決行する勇気は、まだない。
「兄ちゃん」
 呼ばれて、遼一は思考を止めた。
「俺は兄ちゃんの味方だから」
 小さな声に、一瞬声が出なかった。
「……ありがとう」
 浩次が笑ったような、優しい気配がした。


 桜が咲く前に、彼女は去っていく。
 季節が一巡した時、自分はどんな未来を見ているのだろう。

 いまだ見えぬ未来を想って、遼一はそっと瞳を閉じた。





2006.3.26



PHOTO by:ivory


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