一難去って また一難 1 〜住吉の受難〜
//住吉数実//
雨降って地固まる、とはよく言ったもので。
どうやら周囲に思い切り心配をかけまくった挙句、あの二人はなんとなくうまくいったようだ。
まぁ、べつに昨夜散々蹴られたすねやふとももや脇腹が多少痛むことは、姪の幸福に免じて忘れてやってもいい。
鳩尾のあざやいまだに後をひいている痛みも、まあ、友人の幸福とその後の怒り(屈辱かはたまた羞恥か)を思えば気にしないでいられる……だろう。
だが。
だがしかし。
浮かれまくったヤローというのは、傍から見ていてかなりむかつく。
俺のとなりでやたらでかい荷物を担いだヤローが一人。
真っ直ぐ伸びた背中が今にもスキップなんぞしそうに弾んでいて、さらには鼻歌なんか聞こえてくる。
「…音痴」
渡会には聞こえていない。
頭に花でも咲いたか、と疑ってしまうほど、今朝の渡会はいまだかつてないほど上機嫌だ。
頭に花を咲かせた渡会は、校舎に入るなり特大の爆弾を落とした。
「おっす井名里! 相変わらずしけたツラしてんな!」
井名里の手からスリッパが落ちた。パターン、と、大きな音を立ててすのこの上に落ちる。
「…………わたらい?」
こめかみを引きつらせている井名里の横を通り過ぎ、とどめに肩なんぞ叩いてピンポイント爆撃。
そして機嫌よく靴を履き替えて階段を駆け上がっていく。
――周囲を凍りつかせたまま。
たまたま居合わせてしまった俺たちと井名里の間の確執を知っている周囲のメンツは、不幸にも顔を引きつらせて硬直している。なんだか、ものすごく不気味なものでも見たような表情だ。
そして、井名里。
――宇宙人とうっかり遭遇、なんて事態になっても、ここまでではないだろうほど狼狽しきったその表情。
無人の階段を指差し、口をかすかに動かして、メガネの奥の細い眼を極限まで見開いて、訴えかけてくる。
……こいつがこんなに狼狽してるの見るのは、初めてかもしれない。
しかし、井名里の気持ちはイヤというほどわかるので、とりあえずのフォローのために口を開く。
「……あのな」
とたん。
「おはよう、スミ君!」
背筋が寒くなるほどにこやかな声が飛んできた。
…ウソだろ?
振り返る。
理性は『見るな』と叫んでいたが、抗いがたいなにかにおされて振り返る。
すると、そこには――ありえないほど笑顔になっている俺の(認めたくはないが)姪が立っていた。
ありえない。
朝に弱いこいつが、低血圧のこいつが、朝っぱらからこんなに機嫌がいいなんて。
なんとなく詩織の低血圧には気づいていたのだろう、井名里も眼を丸くし口を半ば開いて詩織を見ている。
そんな井名里を見て、詩織は笑みをまったく崩さず口を開いた。
「おはよ、会長。今日はいい天気だね」
瞬間、周囲に緊張が走った。今までのものとはまったく異質な、恐怖という名の緊張。
井名里は、どことなく顔色を悪くしながらも、それでも果敢に口を開き、答えた。
「あ、ああ………今日は、早いんだな」
いつも遅刻ぎりぎりで教室に飛び込んでくる詩織が、この時間に学校にくることは滅多にない。去年一年間、校門前でバトルをしていただけあって、井名里もそのことは知っていたのだろう。
「はは、まあ、たまにはね」
はにかみながら、髪をかきあげる。
そしてさっさと靴を履き替えると、「お先に」と手を振って階段を上がっていった。
ありえないほど、友好的。
ありえないほど、にこやか。
井名里は詩織の姿が見えなくなるまで階段を眺めていた。手が心臓のあたりを押さえている。
「………住吉」
なんだ。
「……今日は、五月一日だよな」
「ああ」
「エイプリルフールじゃ、ないよな」
「…ああ」
井名里はがっくりとうなだれる。そして、うめいた。
「………うぅ」
「心臓か?」
確かにアレは心臓に悪かった。
井名里はうなだれたまま首を振る。横に。
「…………胃が」
胃?
よろよろとスリッパを突っかける。そして、カバンを持ち直して、井名里は力なく呟いた。
「…治ったと思っていたんだが……」
胃に持病でもあるのか?
見かけどおりに病弱な奴だな。
と、そんなことをふと思ったが、口には出さない。俺は舟木とは違うのだ。
そのままふらふらと歩き出した井名里の背中を、いたわりをこめて優しく叩いた。少し力加減を間違えたのか、井名里の喉がかすかに鳴ったが、聞こえなかったことにする。
「…今のは忘れろ。すぐに元に戻る」(と思う)
「……元に戻ってヨカッタと思うのもどうかと思うが…」
胃が不調でも冷静な判断は健在らしい。さすが、カイチョー。
なんとなく連れ立って階段を上る。行き交う奴らがそろって引きつった顔で俺たちを見ていくが、気分が悪い井名里は気づいていないようだ。
見ているこちらが思わず手を貸してやりたくなるくらい、不安定な足元。疲れきったその様子。
「……おまえ、大丈夫か?」
「…ああ」
声にもいつもの力がない(ような気がする)。
こんな状態の人間をただ黙って眺めているような非人間ではないので、無言で井名里の鞄を奪った。思ったよりも軽く、そのことに驚く。
なんとなく、こいつは辞書とか教科書とか、そういうものをいちいちマジメに全部持ち歩いているような人間だと持っていたんだが、そうでもないらしい。
「返せ」
「教室まで持っていってやるよ。他意はないぞ」
…なぜ睨む。人の親切はありがたく受け入れるもんだぞ。
「おまえたちの『親切』ほど恐ろしいものはない」
…思いっきり失礼な奴だな。
そういう奴にはもう鞄は返してやらん。
「黙って持たせとけ。アノ井名里がアノ住吉を顎で使ってるって、みな腰抜かさんばかりに驚いてるぞ」
井名里は顔をあげて、たった今それに気づいた、というような表情をした。事実、気づいてなかったんだろう。周囲の怯えたような、驚いたような表情に。
「……勘弁してくれ」
顔を覆ってうめく。
勘弁してやるにやぶさかではないんですがね。ここまできたら俺も引けんし。
「お前は黙って胃を治してろや」
言ったとたん、なぜかじとっと睨まれた。
「…それ、最高の厭味だぞ」
午前の授業は滞りなく終了した。
それもそのはず、普段のように無駄口を叩く奴もおらず、いつもならそこかしこで聞こえるおしゃべりも今日は皆無で、しかも居眠りをする生徒もいないとくる。
最初は「やっと受験モードに入ってくれたのか」と喜んでいた教師も、授業の終わりのほうには「なんかおかしい」と首を傾げる始末。
…先生。あなた方の感性は、まだ死んだわけではなかったんですね。それはよかった。
なんていう自分の思わぬ皮肉にも、驚くよりもため息が先に出てくる。
教室を恐怖で包み込んだその根源は、にこやかーに微笑んでいる。
いちゃつかれるより、ある意味害だ。公害。
詩織が笑えば、渡会もつられたようににまーっと笑う。だらしないその笑顔に、教室内の恐怖レベルが1上がる。
渡会がにたーっと笑えば、詩織がつられたようににへーっと笑う。そして再び上がる恐怖レベル。
鳥肌が立っている自分の腕を無意識にこすっていると、野島が身を寄せてきた。
「ありゃーすでに公害だぜよ」
まったく同感。いつのまにか周りに集まっていたメンツも頷いている。
「ご飯がまずくなるわ。アレ、追い出せない?」
「俺らが出て行くって手もあるけど」
七尾が言った。とたん、西岡はくっきりした眉を吊り上げた。
「なんであんなのーてんタンポポな奴のためにあたしたちが出て行かなきゃなんないのよ」
のーてんタンポポ。
ある意味とても的を射た言葉に思わずうなった。うまいな、西岡。
あの二人の頭の上で揺れる綿毛が目に見えるようだ。
しかし、と、森本が軽くメガネの位置を直した。
「……結局くっついたのかそうじゃないのか、どっちなんだろう」
……そうなんだ。
それがさっぱりはっきりしない。
昨日詩織に聞いた限りでは、そういう流れにはならなかったらしいのだが(俺らが邪魔したという言い方もあるが)。
「まぁ、どっちでもいいんじゃないですか?」
どこか呆れたような口調で舟木が言った。
まあな、確かにそんなことはどうでもいいか。
どうでもいいが、とりあえず俺らに課せられた近況課題は。
「……アレを、なんとかしないとなぁ」
あのバカップルをなんとかしないことには、クラスから追い出されかねない。
今もほら、無言の圧力がひしひしと。
そして、周りからも無言の圧力が。
……おまえら、イヤなことは俺に押し付ければなんとかなると思ってるだろ。
そういう目で、俺を見てくる仲間たち。
ため息をついたとき、カタン、とかすかな音がした。耐えかねたのか、井名里が教室から出て行くところだった。
まあな、あいつ、胃が痛いって言ってたもんな。
そりゃ胃も痛くなるだろーよ。
俺だって胃の痛みに(ちっとも痛くはないが)逃避したいくらいだ。
「住吉ー」
七尾が無責任に俺をせっついてくる。
だが。
今日の俺には、言い訳がある。
「すまん、大城に呼ばれてるんだ」
いつもなら思いっきり厭う呼び出しが、これほどありがたかったことはない。おそらくこれからもないだろう。
「だからおまえらでなんとかしてくれ」
げぇ、っと、わかりやすいほど顔をしかめた奴らを無視して、席を立つ。こちらを見上げてくる向井に眼をとめて、軽く手をあわせた。
「…すまん、先にメシ食っといてくれ」
向井は少しだけ寂しそうな顔をしてから、にっこりと笑顔を浮かべると頷いた。
「うん。わかった」
………ほんと、俺にはもったいない彼女だよ。
一体何度来たかわからない職員室のドアを開けて、真っ直ぐに大城の席に向かう。
俺を呼び出した張本人は、のんきにメシなんぞ食っていやがった。黒い弁当箱やきっちりしきられたおかず、独特のご飯の形から、仕出し弁当だとわかる。そういや彼女はいないって言ってたな。
「おう、住吉」
口の中のものを飲み込んでから、大城は言った。空いていた隣の席を指して「まぁ座れ」とか言ってくる。…いいけど、ここ、他の教師の席じゃないのか?
まぁ、文句を言われたら全部大城の責任になるから、俺は別にかまわんが。
言われたとおりに腰をおろす。柔らかいクッションに腰が沈んだ。
……いいイス使ってるじゃないか。
弁当箱を空にして、マグカップの中のお茶を飲んで、ようやく大城は俺に向き直る。そして、ミョ―にまじめな顔で口を開いた。
「今朝、恐ろしい話を聞いたんだが」
……季節外れの怪談か?
「いや、その話は後にしよう」
話を振っておいて自己完結する。振られた方としては消化不良みたいで気分が悪いんだが。
こちらの不満など気にも止めず、大城はいつものようにさくさくと話をすすめる。
「前から言ってた面談だけど、明日からはじめることにしたから。とりあえず昼休みと放課後に、一人五分から十分みて」
面談。
この前提出した、進路調査票を元に行う、面談。
……めんどくさい。
大城と二人っきりでの面談。また西岡に盛大に八つ当たりされることになるんだろう。
「で、住吉は、一日に面談する人数とメンバー調節してくれ。クラブとの関係もあるだろうから、できるだけ本人の希望を聞いて」
………前から思ってたことなんだが。
「…これって、クラス委員の仕事ですか?」
「おまえの仕事じゃなかったらなんなんだ?」
真正面から返されて、少しひるむ。
いや、担任の仕事じゃないか、とか。
「俺が自分の仕事をおまえに押し付けてるとか? そんなわけないだろ。おまえにやらせるより、自分でやったほうが早いものもある」
「でも先生なら面倒臭いからって人に押し付けて逃げそうです」だいたい「も、ある」ってなんだ。
思わず口にすると、大城はちらりと俺を見た。一瞬瞳に浮かんだ光はなんなのか。
「ふむ。確かに時々そういうこともする」
やっぱり。
思わず呟くと、大城はニヤリと笑った。
「しかし、なんだな。住吉もずいぶん俺を理解してくれたようで、嬉しいよ」
「………今思いっきり鳥肌立ったんですが」
背筋をなにかが這い下りたぞ。なにかが。
「やっぱりクラス委員とは友好的でないとダメだしな。おまえがクラス委員になってくれてよかったよ。クラスのことも一手に引き受けてくれて」
「それ、押し付けられてると言いませんか?」
あんたに。
「てゆーか俺このあいだ軽く牽制とかしてみたんですが、もしかして忘れてます?」
大城は軽く目を見開くと、にっこりと笑った。女子なら思わずカメラを構えていただろう、滅多に見る事のない甘い笑み。俺はそんなもの見てもちっとも嬉しくないが。
「いや、よーく覚えてるよ」
「それでどうして『友好的』なんて言葉が出てくるのかわかりません」
大城は笑う。ここにクラスの女子一同(一部のぞく)がいたらばたばたと失神していきそうな、そんな威力を秘めた笑み。
「……なにがおかしいんですか」
「いや。住吉が俺の思ったとおりの男で、嬉しいなぁ、と」
…………今まで何度もこの男とは対峙してきたが。
逃げ出したくなったのはこれが初めてだ。
わからない。
本気でわからない。
この男がなにを考えているのか、ほんっとうにわからない。
大城はくすりと声を漏らした。
「今にも俺の首を絞めかねない顔をしているな」
「次にセンセイが変なことを言ったらそれもやりかねませんが」
かなり固い声になった。棒読みに近い。
大城の笑顔がますます広がった。
「おまえが教師におもねるような男じゃなくてよかったよ」
……ナニが、ヨカッタって?
「……先生の立場からすると、おもねる生徒のほうがよかったんじゃ…」
「教師としてならそうだろうけど。俺個人としては、そういう生徒は嫌いだね」
「…それは遠まわしなコクハクでしょーか」
大城の笑みの質が変化した。にっこり、から、ニヤリ、へ。
「冗談で交わそうとするのはおまえがかなり困っている証拠かな」
よくわかっていらっしゃる。
「住吉が簡単に教師にひよるヤツじゃなくてよかったよ。おかげで俺も本性が出せる」
「そりゃ、簡単にひよれるなら去年学校相手にケンカ売ってませんよ。てゆーか、本性ってなんですか」
冗談抜きで。
なんですか今の恐ろしいセリフは。ものすごくさらっと言われたけれど。あっさり言われたけれど。
大城は笑う。
にやり、と。教室では絶対に浮かべない笑顔を浮かべて俺を見る。
「おまえなら、もう薄々気づいているだろ?」
「気づいているというか、むしろ強制的に気づかせられているような………センセイ、かなりSの気あるでしょう」
知りたくなかったが。気づきたくなかったが。
この、まな板の上に乗せられているような、思い切り手のひらの上で転がされているような、身の置き所のなさは。
大城は俺の言葉に軽く眉を上げると、あっさり言った。
「否定はしないね」
…………否定しろよ。
大城はのんきに首なんぞ鳴らしている。
「これでおまえも共犯な。他の先生や、特に校長教頭には内緒にしろよ」
なんの共犯か、つっこむ気すらもうない。
校長教頭には言いたくても向こうから避けるだろう。そしてクラスの奴らにもこんなこと言えるはずがない。
うちの担任が、サドだなんて。
………ここから去りたい。今すぐに。
なんかもうあらゆることがどうでもよくなった気がした。
とりあえず、大城の前から去りたい。今すぐ。
大城は「クラス名簿はどこに行ったかな」とか言いながら書類をあさっている。キレイ好きではあるが、整理整頓が得意なタイプではないらしい。
帰る機会をうかがっていると、突然後ろから声がした。
「大城先生」
この声は。
思わず振り向くと、見慣れた顔がそこにあった。
「井名里」
「……住吉」
井名里は一瞬嫌そうに顔をしかめたが、なにも言わずに書類を片手に見上げてくる大城に目を向ける。
「すみません、気分が悪いので早退します」
……いちいち担任に言いにきたのか。マジメな奴だな。
一応規則では「早退するときには担任にその理由を告げること」とかなっているが、いちいちそれを守る奴はまずいない。周りの奴に「帰るから、そう言っといて」と伝言を頼んで、それで終わりだ。
やっぱりマジメだなー井名里は。
なんて思ったのは俺だけじゃなかったらしい。大城もそんな顔で井名里を見ていたが、ややあって言った。
「ああ、わかった。…どうかしたのか?」
井名里の顔色は、少し悪いような気がした。
「まだ胃が悪いのか?」
思わず尋ねると、井名里は少し口元を動かしたが、無言で頷く。
「保健室行ったら、胃薬とかくれるだろ」
「…ただの胃炎だから」
俺の言葉にそう答えた井名里に、思わず大城の顔を見る。
大城は少し考えてから、隣のイスを引き寄せ、井名里に座るように促した。
井名里が腰をおろしたのを見てから、心なしか心配そうに身を寄せる。
「もしかして、神経性か?」
わずかな逡巡を見せてから、井名里は頷いた。
「……いつから痛いんだ?」
「…………今朝からです」
答える間際、井名里はなぜか俺を見た。返ってきた言葉に、今度は大城が俺を見る。
そして呟いた。
「……ナルホド…」
なにが。
俺を無視して、大城は井名里に同情的な視線を注いだ。
「おまえも苦労するな」
「………ええまあ。でも、もう慣れました」
苦々しげな言葉。胃の痛みにだろうか。
「そうか。おまえ、受験生なんだから、身体は大事にしろよ。なるべく無理はするな」
「……無理は、したくは、ないんですが」
言葉を切る、井名里。そしてため息。
大城は「おまえの気持ちは良くわかる」とでも言うように、井名里の肩を叩いた。
…なんなんだ。
「ゆっくり休めよ」といって、大城は井名里を送り出した。
ついでに俺も追い出された。
やはり、あいつはよくわからん。
首を傾げながら、職員室のドアを閉める。
井名里は、と見ると、しんどそうに身体を壁に預けていた。
「大丈夫か」
「……ああ」
ちっとも大丈夫そうに見えない。
「家まで帰れるか? 先生に送ってもらった方が」
「いい。大丈夫だ」
井名里は俺の言葉を途中で遮ると、物言いたげに俺を見てきた。
「それより、大城のことなんだが」
大城。
その物言いに、こいつも大城に対してなんらかの思いがあると見た。
「おまえたち、反大城同盟がどうとか言っていたよな」
「ああ」
言っていた。
現在進行形で活動中だ。
「…気をつけろよ」
唐突に言われて、面食らった。セリフの内容と、そのセリフを発した相手に。
井名里は、細い眼に真剣な光を浮かべて俺を見ていた。
「気をつけて動かないと――大城のことだ、逆にあおりかねないぞ」
…確かに。
大城が相手では、下手なことをすると逆にあいつをあおりかねない。
「忠告、感謝」
「…巻き込まれたくないだけだ。忠告なんかじゃ――」
「住吉先輩!」
いきなり大声が飛んできて、井名里の言葉が途中で途切れた。
この声は―――あの、二年か。
振り返ると、予想通り塩見とか言う二年が立っていた。
「…ああ、塩見」
思わず呟くと、塩見はぱっと顔を輝かせる。
「俺の名前覚えててくれたんですね! うわー、光栄だなぁ」
そりゃ覚えるさ。
おまえのせいで渡会には殴られ詩織には蹴られ。
…おまえがあそこで声なんかかけなければ。
俺の恨みつらみはもちろんこのとんでもなくめでたい男には届かない。
「俺、ホントは先輩に応援演説してもらいたかったんですよ! でもさすがにそれはぶしつけすぎると思って断念したんですけど。うあー、惜しかったなぁ」
どこまでも自分勝手な物言いに、聞く気すらなく背を向ける。
「行こうか、井名里」
まだ壁にもたれていた井名里に向かってそう言ったとたん、ぴたりと、塩見の口上が止まった。
あ?
振り向くと、塩見の顔色は、面白いほど変わっていた。
赤と青を行きつ戻りつ。
「い、いいいい井名里先輩」
井名里はちらりと塩見に眼を向ける。
「なんで、なんで住吉先輩と井名里先輩が一緒に……まさか、まさか今朝のウワサは本当だったんじゃぁ!」
今朝のウワサ?
井名里を見ると、奴は「さあ」とでも言うように肩をすくめた。
塩見は勝手に爆走していく。
「うそだ。そんなのウソだ。…信じてたのに……!」
なにやら自己完結したらしい。
塩見は口をわななかせると、まだ子供っぽさを残した顔を盛大にゆがめて、言ってのけた。
「……住吉先輩。俺、先輩を見損ないました……ッッ!!」
そして、脱兎。
廊下の端に消えていった塩見を見送って、なんとなく井名里と顔を見合わせる。
「……なんだありゃ」
「……さあ」
井名里は軽くメガネを押すと、鞄を持ち直して姿勢を正した。
「相変わらず住吉はもてるな」
「おまえの冗談は面白くないな」
「よく言われる」
「そうか」
そして井名里は背を向け、昇降口に消えていく。それを見送ることもなく、俺もまた階段に足を向ける。
それが、その日最後の俺たちの会話となった。
自己完結少年が言い残した「ウワサ」とやらの真相を知ったのは、放課後のことだった。そしてそれは意外な人物からもたらされた。
「住吉君が井名里君に懐柔されたって、ホント?」
「………あ?」
放課後。
明日から始まる面談用の、タイムテーブルを組んでいるところだった。
いいかげん手伝わないと悪いと思ったのか、珍しく(ここ重要だ)手伝いを申し出てくれた女子の委員、矢沢が俺の前に座って、クラス名簿を睨んでいる。
その矢沢が作業の合間にふと顔を上げて、いきなりそう訊いてきたのだ。
「…俺が、井名里に、懐柔?」
なんのことだ。
隣の机で強引に作業を手伝わせていた詩織が顔を上げ、振り向いた。興味を引かれたのか、青の瞳が輝いている。
「なんの話、矢沢さん」
矢沢は詩織を見てから、また俺に視線を向けた。
…最近気づいたことだが。
矢沢は、詩織が苦手らしい。苦手、というより、嫌っている、のほうが近いのか。
去年の、詩織と西岡の確執とはまた違った、無言の確執。
矢沢は詩織の言葉には答えずに、俺に向かって、俺にだけ、話した。
「今朝仲良く話してたんでしょ? 下駄箱の前で」
「……仲良くかどうかは知らんが」
話ぐらいなら、まあ、する。するけど。
ムッと眉間に皺を寄せた詩織が気になる。
詩織は苛立ちもあらわに、矢沢を睨みつけたまま長い指で机を叩いている。
…後のフォローが大変そうだ。
「住吉君、聞いてる?」
「あ、ああ。で、それがなんでウワサになるんだ」
矢沢は勝気そうな瞳に満足げな表情をちらつかせると、再び口を開いた。
「井名里君の鞄持ってあげたんだって?」
「あー。あいつ、気分悪そうだったから」
詩織の指の音が早くなっている。
「それがすごいウワサになっててさ。アノ住吉が井名里に屈した、とか、井名里が住吉を手なずけた、とか、もうすっごいの」
………なんですかそれは。
詩織が口元を皮肉げにゆがめた。もう今朝の上機嫌は欠片もなくなったようだ。
ばーか。
口だけで、詩織がそう言ってくる。
「やかましい」
思わずそう言うと、ニヤニヤと人の悪い笑みを返された。
「手伝ってあげてんのは誰さ。ほら、八人分、組み終わったよ」
ひらひらと指先で揺らされた紙をぴっと取ったのは矢沢だった。詩織の目が丸く見開かれる。
矢沢は詩織を見もせずに、淡々と言った。
「ありがとう、お疲れ様。後はあたしたちでやるから、もう帰ってもいいわよ」
詩織の眉の角度が上がる。
青の瞳に険のある光を浮かべて矢沢を睨みつけるが、矢沢は無視。
一瞬の緊張を散らしたのは、詩織自身だった。
「……あッそう。じゃあ帰るわ」
ぞっとするほど、静かな声だった。
静かに戸が閉まるまで、俺は詩織をまともに見ることができなかった。
あれは、かなり怒っている。
……あれは、確実にくるな。夜。
二晩連続攻撃されるのは勘弁してほしいんだが。
そう思いながらも、チョークを取って後ろの黒板にタイムテーブルを書いていく。
まったくなぁ。せっかく西岡とうまいこといってるのに、今度は矢沢か。
なんでああも敵を作りやすいんだか、うちの娘は。
なんて思っていると。
ケンカを買いやすい女にケンカを売りやがった女が、くさくさした声を投げてきた。
「青海って、すっごく人あたり悪いよね。とげとげしてるって言うか」
そりゃーお互い様だろう。とは口が裂けても言えないので、無言を通す。
「西岡もそう。七尾君アゴで使ってさぁ、ナニサマだっての」
西岡にアゴで使われているのはべつに七尾だけじゃないが。
「住吉君、なんであんな女と付き合ってるのよ」
………えーと。
「…どんな、女?」
「青海詩織。性格悪いのに」
…ナルホド。いつもの誤解か。
チョークを持ち直して、紙に眼を通した後、再び書き始める。
「詩織はべつに性格悪くないけど」
「どこが?」
「西岡も。ケンカを売られない限り、よほどのことがない限り自分からはケンカを売るタイプじゃない」
そう。誰がなんと言おうとも、挑発しない限り吠え立て噛み付いてくることはない。
そういう意味では、一応安全。西岡はともかく、今詩織には渡会という綱がついていることだし。
「それに、べつに俺と詩織は付き合ってねえよ」
俺のためにも、向井のためにも、そして渡会のためにも否定しておかなければならないこと。
まぁ、今日のあの二人の様子を見る限り、俺と詩織のウワサのほうはそのうちなくなるだろうけど。
「あれ、そうなの?」
言うと、なぜか矢沢は嬉しそうな顔をした。
……ん?
チョークの粉を払っていた手が止まった。
「なんだ、てっきりそうかと思ってたのに。じゃあ、今付き合っている人とかいないんだ」
……なぜに決め付ける?
なにか言おうとして、なにを言えばいいのかわからなくて、あけた口を閉じる。
なんとなく、不穏な空気を感じた。
「なんだ、住吉君てフリーだったんだ」
「……や、その」
マテ。
俺は、こういうことには慣れてないし、免疫もないんだが。
ないんだが――――――ソウじゃ、ない、よな? 違うよな?
矢沢は、頬なんか赤くして。嬉しそうに、恥ずかしそうにあさっての方を見ていたりして。
「…じゃあ、あたし、立候補とか、してもいいかな…」
とか言って、期待のこもった目で見上げられたりしてみろよ。
「――――――え……ッ」
なにを言われたのか、頭が理解することを拒否して。
とっさに口から出たのは、たったそれだけで。
ぼーぜんとしていた俺の耳が、かすかな物音を捉えられたのは――神の所業か、悪魔の所業か。
開きっぱなしの戸口に佇む小柄な影。
もう何年もずっと傍らで見続けてきた彼女がこわばった顔をそむけるのと、金縛りが解けるのとはほぼ同時。
小柄な体が翻る。スカートがドアの向こうに消えて――後を追おうとして、立ち止まった。
見慣れた金髪が眼に映る。
「…詩織」
帰ったはずじゃ。
無言のまま歩み寄ってきた詩織の顔には、表情というものが浮かんでいなかった。
完璧な無表情。それが、こんなにも恐ろしいものだと、初めて知る。
無言のまま、白い手がひらめいた。
耳元で音が鳴り、次の瞬間に痛みが広がる。
「――このトウヘンボク」
苛烈な光を浮かべた青の瞳が、垣間見た向井の泣き出しそうな瞳が――胸に刺さった。
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