高校騒動記〜三年生編〜


 一難去って また一難 2 〜住吉の受難〜

//向井勇理(むかいゆうり)//

 少しかすんだ春の空と。
 萌える緑に囲まれた中を走り抜けるのは、ここならではの醍醐味だ。
 短距離でも長距離でもいけるけど、俺は緑に包み込まれるような気分になる長距離の方が好きだ。
 そういうわけで、ただの退屈な外周でも、俺は結構楽しめる。



 外周が終わって一息ついていたときだった。
 陸上部員はたった六人で、一年は俺ともう一人しかいない。その狩山と、休憩がてらだべっていたら。
「あ、アレお前のねーさんじゃね?」
「え?」
 狩山の指の先を見ると、校舎から一人の女生徒が走り出てくるところだった。あのふわふわした髪と背丈は、確かにうちの詠理だ。
「…詠理?」
 思わず立ち上がる。
 俺に似ずにあまり足が速くない姉は、一直線に校門へ駆けていく。その様子に、なんだかいやな予感を覚えて思わず立ち上がった。
 ……まさか、泣いてる?
 詠理の姿が塀に隠されて見えなくなる。
「あ」
 狩山の声に見やると、ひときわ目立つ金の髪が校舎から現れた。
 詩織さん。
 そう認識したときには駆け出していた。
「詩織さん!」
「ユーリ君」
 詩織さんは俺を認めて走り出そうとしていた足をとめた。その顔に浮かぶ表情に、直感する。
「詠理、どうかしたの」
 思いがけず強い口調になってしまい俺自身驚いたが、詩織さんはただ困った表情をしているだけだ。いや――困惑の中に、かすかな苛立ち。
「…あの子、見たの?」
「あいつ、泣いてた」
 詩織さんは唇を噛み締めてうつむいた。それでも俺より高い目線。
 いやいや今は詠理だ。
「………スミ君が」
 ポツリ、と、落とされた言葉に瞬く。
 住吉さん?
「あいつがあんな男だとは思わなかった」
 吐き捨てるような口調に、ますますわけがわからなくなる。
 住吉さんが、なんだ。
 噛みしめられた唇が赤く色づいている。一瞬疑問を忘れてそこに視線が固定されかけ――いやいや、だから今は詠理だ。
「なにかあった?」
 綺麗な青の瞳が揺れている。
 それが、長い金色のまつげで隠されていく様を、ただ見ているしかできなかった。
「……ごめん、詳しいことは言えないけど……エーリのこと、頼むよ」
「え」
 問い掛ける間もなく背を向けられる。
「ちょっと、詩織さん!?」
 そのまま振り返ることなく真っ直ぐに去っていく背中を見送っていると、突然横から小突かれた。
 狩山。
「イーねイーね青海先輩。やっぱり美人だなぁ」
 うるさいバカ山。
 反射的に肘を突き入れると、奴は大げさに腹を押さえて苦しがった。
 身内びいきなわけじゃないが、詠理はああ見えてシンは強い。人前では泣かないし、人に涙を見せることを極端に嫌がる。俺でさえ、あいつの涙はもうずっとみてない。
 そのあいつが、いくら放課後とはいっても人目がふんだんにある学校なんかで、涙を流した。
 ――ありえない。
 鍵を握っていそうな詩織さんは沈黙している。
 となると――住吉さん、か?
 詩織さんが口走った言葉。
『あんな男だとは思わなかった』
 それが誰をさしているかは、わからない。
 いや、一瞬ちらりとある人の顔が頭に浮かんだが――慌てて否定した。ありえない。あの人のはずがない。
 だって、住吉先輩は、詠理にめろめろなはずだから。
 そりゃもう、こいつバカかっていうぐらい、心底惚れまくってるのが(身内のことながら)みえみえだから。
 だから、あの人のはずがない……とは、思うんだけれど。
 それでも、あの詠理が泣くんだ、よっぽどのことに違いない。
 思わず空をあおいだ。
 …ホントは、姉の心配してる場合じゃないんだけどなぁ…。
 いやもうホントに。
 なんとかしてあの人に俺のことを『男』だと認識してもらおうと必死なのに。
「向井――っ」
 部長が呼んでる。
 ハイハイ、行きますよ。行きゃーいいんでしょ行きゃ。
 ……しかし。
 ほんっきで、人のこと心配してる場合じゃ、ないんだけどなぁ…。





 結局、あの詠理の涙はなんだったのかわからず帰路につく。部活中、校舎を出て行く住吉さんの姿を見かけたけれど、なぜか声をかけられなかった。
 なぜなら、彼の隣には見知らぬオンナがいたから。
 一瞬頭に血が上りかけたけれど、よく見ると住吉さんはむしろそのオンナを煙たがっているようで、そのことに一気に冷静になった。
 いやいや、よくみろ。うちの詠理のほうが断然勝ってる。
 それに住吉さんの性格を考えると、目移りするわけがないし。
 むしろ、オンナの方が頑張ってアプローチしているようだった。住吉さんは嫌がっているっぽかったけれど。
 でも。
 これが、あの詠理が泣いた原因とは、どーも考えにくい。
 そんなことをつらつら考えているうちに家に着いた。
 まあ、近いからな。
「ただいまー」
 何気なくドアを開けて。そして。
「………う゛っ……」
 固まった。
 なんだ、この匂いは。
 玄関まで漂ってくる香ばしい香り。この甘ったるい匂いはバニラエッセンス。砂糖にミルク。
 普通、この時間帯に漂ってくる匂いと言えば、夕飯の匂いと相場は決まってる。
 間違っても菓子の匂いじゃないはずだ。
「お帰り」
 母親が顔を出してくる。
 その顔には、諦めの色。
「……詠理?」
 こっくりと、頷きが返ってくる。
 ああ。
 これは。
 これは、かなり。
「夕飯は、諦めて」
 とかいうおふくろの言葉にうるさくさえずる腹を押さえながら恐る恐る台所をのぞく。
 とたんに襲いくる甘い匂いに鼻をガードした。
 テーブルの上には綺麗にデコレーションされたスポンジケーキが1、2。
 その隣には網の上で冷ましているチョコレートケーキらしいこげ茶色の塊がある。
 さらにキッチンペーパーがしかれた皿の上に鎮座しているのはシュークリーム。ハードタイプのクッキーはすでにビンに詰められている。
 そして静かに音を立ててまわっているオーブン。
 テーブルとオーブンの間にたたずみ、ボウルを抱え込んでなにやらシャカシャカやっているその背中が、怖くて。
 無言のオーラが、怖くて。
「………お帰り」
 ぼそりと、無感動な言葉に、思わず背筋が延びた。
「……タダイマ…」
 住吉さんは知るまい。
 こんな詠理の姿を。
 こう、嫌なことがあるたびにキッチンを占領して修羅のごとき勢いで黙々と菓子を作り続ける女の姿を。
 そしてそのたび犠牲になるのは俺たち家族と、そして詩織さんだ。
 目尻に浮かんだ涙を指でふき取って、小柄な姉に目を向ける。
 たった二時間強の間にこの量だ。
 これはかなり、キている。
 ボウルの中の液体を撹拌しながら、詠理は振り向くことなく声を投げてきた。
「勇理」
「ん」
「着替えてきたら?」
「――ン」
 こういうときに反抗するのは愚の骨頂。
 おかげで危機回避能力だけは人並み以上にあると自負しているので、逆らわずにあごを引いてキッチンから出る。
 多分、ボウルの中の液体はチョコレートクリームだ。
 その甘さが口の中によみがえり、思わず顔をしかめた。
 …くそう。
 今日は、ほか弁だな…。
 そしてもれなくついてくるだろうデザートの量を思って、思わずため息をついた。
 多分きっと、家族全員同じ気持ちだろうと、そう考えるのはたやすかった。




 部屋に入るなり、鞄を放り出し左手に持っていた子機を右手に持ち帰る。そして、ためらわずにすでに記憶してしまった番号を押した。
 短い呼び出し音の後、すぐに聞きなれた声が耳に届く。
『はい、青海です』
「あ、詩織さん、俺です。勇理」
 なぜか、短い沈黙があったような気がした。
『ああ、勇理君? 久しぶり、元気そうね』
 ――ん?
 違和感。そしてひしひしと押し寄せてくる、嫌な予感。
「あ、あの」
『たまにはうちに遊びにきてよ。いい男になったんでしょ?』
「え、えーっと。もしかして」
『はい、もしかして?』
 すでに受話器を握る手はしっとりと汗ばみ、こめかみに汗が伝う。
「…お母さんで、あらせられましたか」
『ハイご名答』
 うわあ。
 やっちゃったよ。
 硬直する俺の耳に、くすくすと、気持ちいい声が流れ込んでくる。
『ごめんねぇ詩織じゃなくて。せっかくラブコールしてくれたのに?』
 ――うわぁ。
 やめてくれ、と全身で叫びながらも、なんとか声を絞り出す。
「…いや、その、マジメな用事でして」
『ふうん? マジメな、ねぇ』
 …勘弁してください。
 そりゃ、今まで何度もくだらない用事で電話かけたりしてたけれども。詠理にかこつけていろいろ電話してみたりしてたけれども。
 今回は、ホント、マジメだから。
『ふふ。やっぱりかわいいわ、勇理君。あんまり詩織を連れ出さないでよ。あれでも一応受験生なんだから』
 いや連れ出すもなにも…連れ出したいのは山々なんですが、本人があまりなびいてくれないんですよ。
 ――と、そう言えたらどんなにいいか。
 俺の悩みなんか当然この詩織さんによく似た人妻は知る由もなく。
『じゃあ、詩織に代わるね』
 と、散々からかい倒してくれたあとでのんびりと言ってくれた。
 ……ダメだ。やっぱり、あのお母さんは苦手だ。
 受話器を抱えたままうなだれていると、保留のメロディが途切れた。
『もしもし?』
 さっきの声より、少し低めのしっとりした声。
 それを聞いて、ほっとする。
 ああ、詩織さんだ。
「…詩織さん、詠理のことなんだけど」
 一瞬沈黙した後、再び流れてきた声はさらに低く。
『………様子、どう?』
「かなりキてる」
 耳元でため息が聞こえた。
『…やっぱり』
「すごいよ、今回の量。半端じゃない。しかもまだまだ増えてるしね」
 ときおり聞こえる電子音は、オーブンのタイマーだ。そしてこの部屋まで入り込んでくるこの匂いは、多分チーズケーキ。
 …勘弁してくれ、と言いたい。
「…なにがあったのかは、あえて訊かないけど」
 でも。
「…もし、住吉さんが原因なんだったら、後で一発殴るから」
『あー。すでにあたしが殴ったわ』
 その一言で、確信する。
「やっぱり住吉さんなんだ」
 詩織さんは、もう隠す気はないようだった。耳元で、またため息。
『ちょっとね、今回はさすがにあたしも愛想が尽きたわ。しばらくあいつとは口きかんから』
 この人にここまで言わせるほどのことが、あったのか。
『さっきも電話かかってきたけどね。腹立ってたから切っちゃったよ』
「……え?」
『さすがに向井家には電話しないと思うけどね。かかってきたら無視してやって』
 いやちょっと待ってくださいおねーさん。
 もしかしなくても、かなり、お怒り?
 詩織さんが住吉さんにここまで怒りをあらわにするところを見たのは初めてだ。
 どうしようか、と、子機を握り締めたまま困惑していると、再び詩織さんの声が聞こえてきた。
『時にユーリ君』
「はい」
『消化係が、ご要りようかと思うんだけど』
 ぐ、と、たちまち胃が変なふうに動いたのがわかった。
 消化。
 ――消化、しなきゃ、ならないんだ。あの量を。
「……手伝ってもらえると、嬉しいです」
『はいな。じゃあ、あと二時間ほどしたら取りに行くよ』
 あと二時間。思わず時計を見る。そのくらいには詠理もそこそこ落ち着いているだろう。
 でも。
「いや、そんな遅くに夜道は危ないし。俺が持っていくよ」
 あと二時間もたてば、こんな田舎のことだ、人通りもなくなって真っ暗になる。いくら近所とはいっても、そんな道を歩かせるわけには――。
『や、もらうのはこっちだから』
 なんていう詩織さんの声が、するりと耳を通り抜けた。

 俺が届ける⇒マンションまで徒歩五分⇒ケーキを渡して、それで終わり。

 詩織さんがくる⇒うちまで五分⇒ケーキを渡す⇒「もう遅いから」と送っていく⇒マンションまで五分=五分間でも、一緒にいられる。

 よし。

『さすがに悪いからね。あたしが行くよ。なんてね、本音は自分でお菓子を選びたいだけだけど』
 ぺろりと、いたずらっぽく舌を出している様子が眼に見えるようだ。
「…じゃあ、気をつけて。まだ変な奴が出る時期じゃないけど、暗いから」
『はいはい。じゃ、またあとで』
 またあとで。
 その一言をかみ締めながら、通話を切る。
 詠理には悪いけれど、こんなことで幸せを感じられる自分は、じつはかなりお手軽。
 さて、詠理の様子でもみてくるか――と部屋を出たとたん。
 一階の電話が鳴り始め、一拍遅れて手の中の子機が鳴りだした。
 ガシャン、と、台所から派手な音が聞こえた。
 詠理。
 ためらいは一瞬だった。
 一瞬後には、通話ボタンをおして、子機を耳に押し当てていた。
「――もしもし」
『あ……勇理、か?』
 住吉さんだった。
 軽く息を吸う。
 台所の様子が気になったが、とりあえず耳に意識を集中させた。
「うん。そうだけど」
 心なしか声が冷たくなってしまうのは仕方がないことだろう。
 遠慮がちな空気が受話器から伝わってきた。
『…あいつ、どうしてる?』
「あいつって誰?」
 言ってやると、住吉さんは押し黙った。
 うん。このぐらい言ってやってもいいだろう。人の姉を泣かせたんだから。
「詠理、泣いてましたよ」
 再び沈黙。
『…あいつに、代わってくれないか?』
 と、背後でかすかな音が聞こえた。
 振り返ると、詠理が階段の下からこちらを見上げていた。
 受話器を指差して見せると、力なく首を振る。
「出たくないって」
 みたび沈黙。
 住吉さんが口を開く前に、言った。
「弁解なら明日聞くよ。俺がね。――じゃ、今日はもうかけてこないでください」
 言うだけ言って、強引に通話を終了する。
 いつのまにか詠理はすぐ近くに立っていた。
「これでいい?」
「……うん」
 かすかに頷き、自室に消えていく。
 それを見送ってから、ため息を一つこぼし。
 そして、詠理が築いた悪魔の物体を確認しに、台所に向かった。




 誤解のないように言っておくと、詠理は料理の腕だけは一人前だ。いや、『だけ』とか言ったらなにされるかわからないので、訂正。
 詠理は、料理が得意だ。
 その中でも得意なのが、菓子一般。
 あの細腕でメレンゲもしっかり泡立てるし、シュークリームなんか失敗知らず。短時間で用意から片づけまでやってのけるほど、手際もいい。
 ――ので。
 たった数時間で、テーブルの上が菓子で埋め尽くされていても、不思議じゃない。
 あらためて城に返り咲いた女主人が、腕組みをしてテーブルの上を眺めている。
 すでに鼻は麻痺してしまっていて、漂っているだろう匂いに胸をかきむしらずに済むのが、せめてもの救いだ。
「どうしよう、勇理」
「どうしようって言われても……とりあえず、詩織さんが取りにきてくれるけど」
「じゃあ、青海さんとこ三人と、詠理のぞいたうちの三人」
「作った本人が食わないってのがね。許せないけどね」
「六人にはちょーっと多すぎるわねぇ…」
 あらためて眺める。
 ショートケーキホールふたつ。
 チョコレートケーキ一つ。
 チーズケーキ一つ。
 クッキー大びんにいっぱい。
 シュークリーム、皿に山盛り。
 エクレア、同じく。
 一口大のパイのお菓子、山盛り。
 焼き菓子が多いのは、多分そのほうがストレスが発散されるからだろう。…俺にはわからないけど。
「…とりあえず、半分持っていってもらおうかしら」
 それは、ちょっと。さすがに。
「クッキーとパイのやつは、学校で配れるだろうし」
 配るかどうかはともかくとして。保存も利きそうだし。
「ああ、そうね。じゃあ、ケーキとシューね」
 それだけでもかなりの量だ。
 なんだか気持ちが悪くなって、台所から逃げ出した。
 テレビの前で背中を丸めている父親と一瞬眼があった。お互いきっと情けない顔になっているのだろう。
 がんばろう。
 眼と眼で会話。
 こんなとき、男は立場がない。
 さっさと自室に戻る。空腹なんかどこかへ行ってしまっていた。
 部屋に入る前に、詠理の様子をのぞこうと、詠理の部屋のふすまを開け――。
 そして、無言で閉めた。
 パソコンに向き合って、ものすごい速さでキーを打つ姉の姿。
 ……あまり、直視したいものではない。
 ため息がこぼれた。
 …これは、ほんとーに、重症だ。






 きっかり二時間後、詩織さんが来た。俺たち家族にとって、その登場は天使のようにありがたかった。
「本当にごめんなさいねぇ、いつもいつも」
「あ、いえいえ。詠理のお菓子は大好きだし」
 詠理は部屋から出てこない。真剣な顔でパソコンの画面を見つめているのだろう。
 とりあえずケーキとシュークリーム、エクレアは、半分きっちり持って帰っていただくことになった。いつもよりも多いその量に詩織さんの顔が引きつっていたが、見ないふり。
 さすがに、そこらへんには慣れている。
「じゃあ、送るよ」
「え、いいよ」
「なに言ってんの。女の人をこんな夜に一人で帰せないでしょ」
 詩織さんは困った顔でしきりに遠慮する。
 が。
「あら、遠慮しないでね。こんなナリでも一応男だし。ほら、勇理」
 こんなナリで悪かったな。どうせ俺は背が低いよ。
 心の中でだけ反論して、菓子を入れた紙袋を持つ。
「ほら、いこ」
 詩織さんは困ったように紙袋と俺を見比べていたけれど、やがて諦めたのだろう、おふくろにお辞儀をして後をついてきた。
「持つよ」
「こういうものは持たせとけばいいの」
 それなりに重量がある。
 一応俺も男ですから、ここで詩織さんに荷物を持たせるわけにはいかない。
 詩織さんも諦めたようで、それ以上抵抗しなかった。
 かわりに、ポツリと、訊いてきた。
「エーリ、どう?」
「ひたすらパソコンと睨めっこ」
 詩織さんはため息をついた。
 気持ちはわかる。
「……かなり、まずいね」
 そう。
 あいつがあんな勢いでパソコンを使い始めたら、かなりの末期症状。かなりキている証拠。それも精神的に。
「多分、徹夜だよ」
「…だね」
 そんな詠理の姿も、多分きっと住吉さんは知らない。
 詠理が見せないようにしてるから。
 だから、ストレス溜まると菓子を作ったり、パソコンを一晩中睨みつけてたりするそんな姿を知ってるのは、俺たち家族以外では詩織さんだけだ。
「住吉さんから電話きたよ」
 詩織さんが俺を見た。
 悔しいけど、目線が上だ。
「詠理は出さなかったし、すぐ切った」
「そっか」
 また、綺麗な青の眼がそらされる。普段は熱帯の海が、今は夜の海のように深い色に変わっている。
 唐突に詩織さんが髪をかき乱した。長い金髪が揺れる。
「まーったくもうあのバカは! なに考えてんのさ一体」
 そのときには、ここら辺で一番高いマンションが目の前にそびえたっていた。
 五分は短い。あっという間だ。
 詩織さんが手を伸ばしてくる。仕方なく、その手に紙袋を預けて。
「――詠理のこと、頼むね」
「…詩織さんこそ。学校でのフォロー、頼みます」
 うん、と、そう言って彼女は笑った。
「今日はありがとね」
 そう言って、身を翻してエントランスに消えていく彼女を見送ってから、きびすを返した。
 頭上を見上げると、春の星座。東の空にはもう夏の星が昇っている。
 心の中が、浮き立つようにあたたかい。
 そのあたたかさに――ふと、罪悪感を覚えた。
 …ごめんな、詠理。
 姉があんな状態なのに、それをダシにしているような、俺。
 ホント、ごめんな。
 心の中で謝って、顔を前に向けると、真っ直ぐ、家に続く道に踏み出した。


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