高校騒動記〜三年生編〜


 一難去って また一難 3 〜住吉の受難〜

//渡会直哉(わたらいなおや)//

『――あ、渡会?』
 流れてきた声に、ちょっと心臓のあたりがおかしくなった。
「あ、あー…女史? なした? こんな時間に」
 えーにーちゃんオンナー?
 うそーっ!?
 …なんて背後で騒ぐ愚妹どもを足で追い払い、受話器からもれる息遣いに集中する。
『……うん、ちょっと。あ、ごめんねこんな時間に。大丈夫?』
「いや俺はぜんぜん構わんけど」
 なんとなく、声が沈んで聞こえたのは…気のせいだな、きっと。
『えっと……明日、朝練とか、ある?』
 遠慮がちな声。
 考えることすらせず、秒速で否定した。
「いや、ねーよ」
 あっても休むけどな。お前が誘えばな。いやそもそも明日はねーけど。
『そう…』と、受話器の向こうで考え込む様子。
 なんとなーく、違和感。
 いつも必要以上にはきはきものを言う青海らしくない。
「女史?」
 ん、と、返事のようなものが受話器越しに聞こえた。
「なんか変じゃないか、お前」
 ちょっと間があった。
『そんなことないけど』
 ふっと笑う気配。
 笑みがもれたらしいことに安心はするが――それでもいまいち信用できないのは、その声が相変わらず沈んでるっぽいからだ。
 まあ、本人が否定する以上、俺が言えることはもうないんだけども。
『…あのさ。渡会、明日、早く学校来れる?』
「あ? なんで」
『いや、その……あえない、かな』
「――…ッ」
 落ち着け、心臓!
 思わず胸のあたりを握り締める。答える声が上ずったのも、仕方がないだろ…きっと。
「…や、俺は、ぜんっぜん大丈夫だけど」
 答えたとたん、受話器からほっとしたような空気が伝わってきた。
『じゃあ、明日の八時に校門のところで、待ってる』
 ――待ってる。
 最後の言葉を聞いたとたん、頭が真っ白になった。
 ――待ってる。
 ふと気づいたら、受話器からは青海の声の代わりに無機質な音が流れ出ていた。いつのまにか電話は終わってしまっていたらしい。
 最後にどんな会話を交わしたのか、さっぱり覚えていない。
 いつもと違う青海の様子も、頭からすっかり消えていた。
 ゆっくりと受話器を置く。
 ふつふつと、胸の奥から熱いなにかが湧き上がってきた。
「――っっしゃぁッ!」
 思わずこぶしを握り締めて小さく気合を入れていた。
 待ってる、とか言われてしまいましたよ、あの青海に。
 あの青海に。
「うわーにーちゃんが壊れたー」
「かーさんかーさんにーちゃんが変ーっ」
「ほっときなさいいつものことでしょ」
 なんていううるさい家族の声は耳の直前でシャットアウトだ。
 「待ってる」、だと。
 なんか、ものすごく、こそばゆい。
 電話の前から一歩も動けず幸せに浸りきってぼーっと突っ立っている俺を、家族は不審気に見つめているが、当然ながら気にならない。



 そんな感じでいきなりの電話とその内容に思い切りシアワセを感じていた自分が、なんだかものすごく哀れに思えてしまったりしたのは。

 その翌朝のことだった。




 空は気持ちいいぐらいに晴れていた。まるでこの心を映したかのように綺麗に澄んだ春の空。
 のどかな田園風景の中、ぽつんと立つ白い箱たち。それを囲う低い壁が切れる場所、そこに、彼女は一人立っていた。
 朝日が、このあたりでは珍獣並に珍しい天然物の金髪に降りそそぐ。
 はやる心をなんとか静めて、努めて何気ない素振りでその珍獣に声をかけた。
「青海」
 くるり、と、金髪女が振り向く。
 その青の眼を見た瞬間、それまで騒いでいた心臓がとたんにおとなしくナリを潜めた。
「おはよ」
「………おう…」
 えーと。
 なんでそんなに不機嫌な顔をしているんでしょうか。
 なんでそんなに眼が据わってるんでしょうか。
 昨夜の電話は確かに「八時に校門前で」待ち合わせ…と告げていた。
 待たせてはいない。今、八時ジャストだ。
「……なんかあったんか?」
 彼女の表情のあまりの険しさに恐る恐る問い掛けると、間髪いれず頷かれた。
「あった」
 マジで?
 俺か?
 俺なんかしたか?
 それでこの『お呼び出し』?
「行くよ」
 どこに、とか聞いたら蹴り倒されそうなそんなピリピリした空気をまとって、青海は身を翻す。真っ直ぐ校舎に向かうその背を追いながら、なんとなーく、想像していたのは違う、と首をひねっていた。
 昨夜の甘い期待は一体どこへ。
 ていうか、甘い展開なんか、期待できんぞ、これは。
 かといって、お呼び出しの理由にも心当たりはない。
 青海はさっさと靴を履き替えると、スリッパを鳴らしてなんだかすごい勢いで階段を上がり始めた。
 いや、ちょっと待てよ。
 慌てて後を追う。そのとき。
「…これからはキング・オブ・フールと呼んでやる」
「なんだよいきなり」
 隣りの女がいきなりそう呟いた。
 …誰が、なんだって?
 俺か?
 やっぱり俺なのか?
 困惑する俺には取り合わず、女史は真っ直ぐに上を目指す。
 早朝の校舎にはほとんど人がいない。生徒のラッシュは本鈴の約十分前から始まる。それよりさらに二十分も早いんだ、生徒の姿は全然見かけない。
 俺たちのスリッパの音がしんとした校舎に響く。
「んで、なして俺はこんな朝早くに呼びだされたんでしょうかね、女史よ」
「後で説明するから、ちょっと待って」
 はいはいはいはい。待ちます待ちます。
「まーいいけど…住吉は?」
 とたんに、青海の顔がこわばった。
 え?
「おらんの?」
 見る見る青海の表情が険しくなる。眉がきりりとつりあがって。
「――顔も見たくない」
 ………えーと。
 ……ケンカでもしたのかね。
 なんとなく、住吉の名前は出さない方がよさそうだと思い、その名前は封印する。
 そのときになって、ようやく向かっている先が教室じゃないことに気づいた。このルートは……屋上?
 朝っぱらから屋上行きですかい。
 そうつっこみたくなったが、やめておいた。うかつなことを言えない雰囲気だ。下手すりゃ確実に殺られる。
 やがて屋上につくと、青海はためらわずにドアを引き開けた。
 とたんに吹き込んできた早朝の風が髪をあおった。
 五月のはじめ、朝の風はまだ冷たさを残している。
 屋上から眼下を見渡すと、ようやく生徒がぽつぽつと登校し始めたところだった。
 …そういや、いよーな雰囲気に気圧されてうっかりしていたけれど。
 青海がこの時間帯にいるのって、奇跡に近くないか?
 いやてゆーかこれは奇跡だろ。
 しかも今のこれは毎朝恒例の不機嫌さとはまた違った不機嫌だ。
 その青海は屋上の真ん中に仁王立ちして険しい目でドアのあたりを睨んでいた。
 えーと。
 間が。
 間が持たん。
「あー……他のやつらは? まだこねえの?」
 青い眼がくるりとこちらを見た。一瞬、射すくめられたかと思った。
「来ない。呼んでないし」
 呼んでない。
 それは一体、どういう意味で?
 居心地の悪さに手のやりどころがなく、しかたなく頭をかいてみる。
「あー、じゃあ、なぜに俺だけお呼び出し食らっているのか、その理由を説明してもらえませんかね、女史よ」
 青海の表情が、少しだけゆるんだような気がした。
「俺、なにかしたか? お前怒らせるようなことした覚えはねぇんだけど」
 青海の眉が下がった。
 困ったような表情。なんか、泣きそうにみえて、慌てた。
「え、や、ちょっと」
「――ごめん、ちょっと、八つ当たりしてたかも」
 ごめん。もう一度言って、青海は俺の横に立った。
 カシャン、と、柵が音を立てる。
 柵を背にしてそのままずるずると座り込み、青海はささやくように声を落とした。
「渡会は、なにもしてないよ。今日来てもらったのは、たぶん一番適任だと思ったのと」
 ポス、と、抱えた膝に額を押し付けて。
 黙って青海を見下ろしていると、蚊のなくような声が聞こえた。
「……相談しよう、と思ったら、真っ先に頭に浮かんだのが」
 ――あんただったから。
 一瞬、聞き間違いかと思った。
 まじまじと見つめた先の金色の間からのぞく耳が、見る間にピンク色に染まる。
「うあー、なに言ってんだあたし。あーもう終わり。この話終わり。呼び出した用件の話に入るからね」
「え、終わんの?」
「え?」
 青海がきょとんと俺を見上げてきた。眼があったとたん、頬に朱が散る。
 リトマス紙みたいだ。
 とすると俺は酸性か。ってそうじゃなくて。
 なんとなく嬉しくなって、青海の隣に座り込む。
「なぁ、なんで俺?」
「知らない」
「なんの相談か知らんけど、相談だったら舟木とか西岡とかいるだろ。なんで俺?」
「知ーらーなーいーッ」
 耳を抑えて顔を伏せる青海。こら、こっち向け。顔みせろ。
「女ー史ー。なんで俺? なあ」
「知らないってば! しつこいよ!」
 そりゃしつこくもなるだろ。ここはきっちり聞いておかんと。
「こら、こっち向け」
「いやだ」
 あ、ちょっとムカッときたぞ、今。
「おら」
 強引に青海の頭を掴んでこっちを向かせようとしたとき。
 唐突に屋上のドアが音を立てて――そりゃもうものすごく盛大な音を立てて開かれた。
 反射的に眼を向けて。
「「あ」」
 入口に立つガキと俺と、見事に眼が合ったとたんもれた声はこれまた見事にはもってしまい。
「「なんで」」
 といいかけて口を閉ざした動作までぴったり同じになったその相手は。

 目下のところ俺のライバル未満、向井弟だった。



 向井弟に気づいた青海が、顔を上げてほっとしたように微笑んだ。…なんとなく、面白くない。まるで俺が脅すとかなんかしてたみたいじゃねーか。
「ユーリ君、待ってたよ」
 なに?
 向井弟は俺を軽く睨むと、小走りに駆け寄ってきた。
「ごめん、遅くなって」
 言ったその顔色がどことなく悪いように見えて、首を傾げた。
「お前、顔色悪くねぇ?」
 一瞬驚いたように向井弟が俺を見る。そして、ふと眼をそらすと、口元を抑えた。
「…ちょっと、胃がもたれてて」
 朝から重いもんでも食ったのか?
 青海が申し訳なさそうな顔で向井弟を見た。
「ごめんね、いきなり呼び出して。大丈夫?」
「…慣れてるから、へーき」
 …こいつも呼び出されたのか?
 なぜに?
 首を傾げる俺をよそに二人の会話は進んでいく。
「で、エーリの様子はどう?」
 向井姉?
「いや、それが……今日、学校行くって言いだして」
「………うそ」
「じゃないんだそれが。一応俺ついてきたけど。今教室にいるよ、きっと」
 げぇっ、と小さく女史が叫んだ。
「大丈夫なの?」
「一晩中起きてたよあいつ。ちなみに朝飯食ってないし」
 うわぁ、と口の中で呟く女史。なんとなく顔が青い。
 二人が口をつぐんだ。
「――なあ、向井、どうかしたのか?」
 遠慮がちに口をはさむと、途端に二組の眼が俺を見てきた。
「あ、説明しないとね」
 と青海が言えば。
「なんでここにこの人がいるの?」
 と警戒心も露わに向井弟が言う。
 いやそんなこと訊かれても。むしろそれは俺も知りたいことなんですが。
 青海を見る。向井弟も説明を求めるような目で青海を見た。
 ポリ、と頬をかいて、青海は困ったように眉を下げた。
「渡会を呼んだのは、あたしの代わりにアイツを見ててほしいから。あたしは今回は完璧にエーリ側だからね」
 あいつ?
 首を傾げる俺を見て、青海は小さく頷いて、口を開いた。
「説明、するよ」





「……それって、住吉が向井に謝って誤解といたら、それで決着つくんじゃねえの?」
 女史の説明を聞いたあと、ちょっと考えて。
 そう言ってみたら、女史は難しい顔をして首を振った。
「今までのケンカだったらそれで済んだかもだけど…ちょっと、今までのケンカとは違うような気がするんだよね」
「俺もそう思う」
 女史の言葉にこっくりと頷く向井弟。
 いやてゆーかその前に。
「…あいつら、ケンカすんの?」
 あんまり想像つかないんだが。
 だって、あのカップルがケンカ?
 あの住吉と、あの向井が?
 ……いまいち想像できねえな。
 首を傾げる俺の前で、あっさりと二人は知られざるカップルの実態(?)を暴露し始めた。
「けっこうしてるよ、ケンカ。人前では絶対にしないけど」
「俺は詠理が拗ねたり泣いたりするところしか知らないけど……住吉さんも、拗ねるんだよね?」
「あ、拗ねるねアイツ、けっこー。わりとガキっぽいし、独占欲強いし」
「詠理は怒るって言うより閉じこもって泣くよ。後はストレス発散にイロイロ…」
「ケンカしたらその日にアイツ電話かけてきて散々愚痴って泣きついて。付き合う身にもなれっつーの」
 …もうイイデス聞きたくないデス。
 向井が怒るところとか、さっぱり想像できねーけど。
 ………住吉が、拗ねるんか。
 あの図体で。
 そーか、拗ねるんか。
 ……見たくねえな。
「…しかしねぇ。矢沢もねぇ、もしかしてーとは思ってたけど、やっぱりそうだったかぁ」
 あー…矢沢。あの、西岡とはまた違った意味で口やかましいオンナ。仕切り屋だったっけ? 興味ねえからあんまり覚えてねえけど、そんな印象があるよーなないよーな。
 向井弟がカワイイ顔をしかめた。
「俺見たよそのオンナ。たいしたことないし、詠理よりも断然下」
 ……結構言うね、お前。
「でもあの住吉が他の女にふらふらするとは思えんし。別に矢沢はほっといてもいいんじゃねえ?」
「当然だよ。目移りなんかしたときにはきっちり返礼させてもらうから」
 にっこりと。
 姉に似た無邪気な笑顔でそんなことを言う向井弟の目はどこまでもマジで。
 …なるほど、こーゆー奴だったのか。
 ちょっと、ほんのちょーっと、向井弟に好感なんかを持ってしまった。
 こういうタイプは嫌いじゃないね。
「ふーん。意外と姉想いなんだ」
 内心の感慨はさておいて素直な感想を口に出すと、向井弟は軽く目を見張った後、にーっこりと無邪気な、それでいて果てしなく裏のありそうな笑顔を浮かべてこう言った。
「そりゃあ、詠理にはこれからもイロイロお世話になる予定だから、ここらで恩をたっぷり売っておくと俺にも有利になるかもだし? ついでに住吉さんとのコネクションも切りたくはないからまだまだあの二人にはくっついたままでいてもらわないと」
 ……あー。
 なんだ。
 これは、あれか?
 いわゆる、牽制って奴?
 おもしろいじゃねえか。
「…ふーん。住吉との、ねぇ」
 本人の目の前なのにまあこの面の皮の厚いこと。白々しいことこの上ない。
「そ、住吉さんとの、コネ」
 にっこり。
 自分の持ち味をしっかり意識してやってる笑顔。
 だけど、毎日毎日あの腹黒猫かぶり教師と顔つき合わせてる俺に向ける顔としては、まだまだ甘い。若い。
 本心が丸見えなんだよぼーず。
 にっこり笑顔を崩さないガキを見下すように睨む。ますますガキの笑みが深くなる。
 ……ふーん。なるほど。
 と、俺たちの無言の戦いに終止符を打ったのは、横から聞こえてきた遠慮がちな声だった。
「あのー…まだ説明終わってないんだけど、続けてもいい?」
 とたんに向井弟の笑みの質が変わった。そりゃもう、ころっと。
「うんもちろん。続けて?」
 「弟モード炸裂」、と、そんな意味不明な言葉が脳裏を走り抜けていった。いやはや、わかりやすいね。
 もちろんそんなあからさまな挑戦を受けない俺じゃなく、さりげなく青海との距離を詰める。とたんに、向井弟の笑みに亀裂が走ったのが見えた。
 そしてそんな俺たちには気づいていない元凶。
「あたしも矢沢には注意するけど、渡会にもね、ちょっと協力して欲しいんだ」
「なにすりゃいいんだ?」
「簡単だよ。たぶんちょっと壊れかけてる住吉のフォローと、後なるべく矢沢を近づけさせないで」
 ……壊れかけてる、ねえ。
「ん、わかった」
 いまいちわからなかったが、とりあえず頷いておく。
 すると青海はほっとしたように肩の力を抜いた。
「はー。これで心置きなくエーリのフォローにまわれる」
 気が抜けたような、今日はじめてみる笑顔に、思わず見惚れる。
 まじまじと見つめていると、青海は一瞬見せた隙をきれいに消して、しゃきしゃきした動作で立ち上がった。
「もうそろそろいい時間だし、教室行こうか。エーリのことも心配だしね」
「ん、おお」
「あ、はい」
 俺たちの返事はどこか気の抜けた声になった。歩き出した青海の後を慌てて追う。
 校内はざわついていた。後五分でラッシュの時間だ。
 頭二個分ほど下で金色の頭が揺れている。降り注ぐ陽光がなくなり、今は少しくすんだ色になっている。
 それでも、今まで見てきた中で、一番きれいだと思える、髪。
 ぼーっと揺れる髪を見ていたら、す、と向井弟が俺を追い越した。たんたん、と軽快に階段を下りて、女史の横に並ぶ。
 ぼーっとそれを眺めていると、突然こんなセリフが聞こえた。
「で、詩織さん。あの人詩織さんのナニ?」
 足の下にあるはずの段が、突然消えた。ガク、と、膝が折れる。慌てて手すりに手を伸ばし、なんとか転落は免れた。階段を踏み外したんだ。
 …ビビった。いろんな意味で。
 前の二人はこんな俺には気づかない。青海の金髪が不自然にはねた。
「な、ナニって………トモダチ、だけど」
「ふーん」
 言いながら、向井弟はちらりと視線を投げてよこした。どう考えてもそう取るしかない、挑発の視線。
「なんだ、そっか」
 言って奴は青海に特上の笑顔を向けた。
「ならいいんだ。じゃ、俺こっちだから。また後で教室行くよ」
 にっこり。
 笑って手を振ると、あっさり青海に背を向けて渡り廊下を渡っていく。
 ……やっぱり腹立つな、あのガキ。
 ぼーっと向井弟を見送っている女史の後ろに立つ。
「こら」
「わっ!?」
 段差を利用して、青海の両肩に両腕を投げ出す。とたんに視線の先にある耳がほんのり染まっていくのが見えた。
「わわわわわたら」
「俺、トモダチ?」
 青海は沈黙した。
「てことは、俺、野島や七尾と同列か」
「ち、ちが」
 青海の手が何度も上下する。が、見ないふり。
「そうか。同列か。ふーん」
「だから、そうじゃなくて」
「“そうじゃなくて”?」
 訊き返す。
 見る間に耳が紅潮し。
 そして。
「あ――もう!」
 青海がきれた。
 強引に俺の腕を払い落とし、そして振り向かずにずんずん階段を駆け下りていく。
「渡会なんか嫌いだー!」
 妙に幼い捨てゼリフを残して。
 呆気にとられた次にこみ上げてきたのは、気持ちいい笑い。
「笑うな!」
「笑ってねえって」
「笑ってるだろ!」
「だから、笑ってねえって」
 こみ上げてくる笑いをなんとか押し殺そうとはするが、隠しきれなかったものがぽろぽろこぼれてくる。
 やっぱりいいなあ、こいつ。
 なんて、女史に知られたら間違いなく蹴りが三発入りそうなことを考えながら。
 もういい! と怒って先に行ってしまった女史の背中を追いかけた。






 一歩入ったとたんに全身に絡み付いてきた教室の空気は、そんな俺の浮かれた気分を一気に消し去った。
 普段と変わりないざわめき。それなのに、どこかに違和感がある。
 発生源を探し当てるのはそう難しくなかった。教室の、真ん中よりも廊下より、それなりに生徒が集まっている列の隅に、ぽつんと座っている女子。
 青海が動いた。
「エーリ」
 向井が顔を上げた。
「おはよう、詩織ちゃん」
 にっこり。
 どことなく弟の笑顔を思い出させる笑顔で答えた向井に、一瞬青海の動きがぎこちなくなった。
「……おはよ。あの、エーリ」
「英語の宿題やった? 今日詩織ちゃん当たる日だよね?」
「…忘れてた…じゃなくてね、エー」
「だめじゃない、今すぐやれば間に合うよ? ノート見る? 今日だけだよ?」
「エーリ!」
 青海が叫んだ。一瞬静まり返る教室。
 真剣な顔で見つめる青海を見て、向井はほんわりと笑った。
「どうしたの詩織ちゃん」
 青海の首がゆっくりと垂れた。再び上げたその表情は、泣き笑いのように見えて。
「……なんでもないよ」
 そう、ささやいた青海に、初めて向井の笑みが崩れた。口元の笑みはそのままで、瞳が揺らいだ。
「……ごめんね」
 ポツリと、そんな声が聞こえた。
「……わたー。いったいなにがどうなってるの」
 つん、と袖をひかれて見ると、舟木が真剣な顔で俺を見ていた。その隣には西岡がいて、さらに住吉をのぞいた面々が同じように問い掛ける表情で俺を見ている。
 さて。
 どうなっているのか、と訊かれても。
 なんと答えたものか、と悩んでいると、突然ものすごい音を立てて教室のドアが開け放たれた。
 ある直感とともに振り向く。
 すると、そこには――やや息を乱した住吉が、立っていた。
 走ってきたのだろう、髪がぼさぼさだ。
 住吉の眼が真っ直ぐに向井に向けられる。
 軽く息を吸って、住吉は教室に入ってきた。
 いつもと違う様子にクラスの奴らは戸惑ったようだが、やがていつもどおりの会話が再会される。
 住吉は真っ直ぐ向井に近づいていく。
 机三つ隔てた距離まで来たとき。
 突然向井が立ち上がった。
 そのまま住吉の横をすり抜けていこうとする。
「おい、向井!」
 住吉が腕を掴んだ。
 一瞬動きを止めた向井が、ゆっくり顔を上げる。その顔にあるのは――完璧な、笑顔。
 なによりも雄弁な拒絶に、住吉の顔が強張った。
「むか――」
「住吉君」
 柔らかな声が住吉のごつごつした声を遮った。にっこり笑いながら、柔らかな声音で。
「私たち、しばらく距離を置いた方がいいと思う」
 向井はそうはっきりと言い切ると、住吉に背を向けて教室を出て行った。慌てて青海がその後を追う。
 二人が出て行った教室のドアから、住吉へと目を移した。
 奴は――固まっていた。
「……住吉?」
 森本がひらひらと目の前で手を振っているが、見えていないらしく反応がない。
「おーい。住吉ー?」
 七尾が呼びかけるが反応なし。
 野島が「これなによ」と訊いてくるが、どう答えていいものか。
 そうこうしている間に青海が戻ってきた。一人だ。
「詠理は?」
 舟木の声に、軽く首を振る。
「一人にしてくれ、だってさ」
 ……やっぱり、かなり参っていた、てことか。
「で、どういうことなのよ」
 険しい表情で西岡が青海に詰め寄った。青海は困ったように眉を寄せている。
「……説明したい、けど、ここじゃあね」
 教室の真ん中では話もできないだろう。しかも騒動の原因はいまだに地蔵になったままだし。
 いや――原因、は、あえて言えば住吉じゃないか。
 もう一人。
 視線を感じて、眼を向ける。そこには女子の塊がいた。
 その中の一人が、真っ直ぐに、こちらを見つめている。
 ……アイツか。
 矢沢。
 ときおり視線が揺らいで青海を睨むように見えるのは、きっと気のせいじゃない。
「ここじゃできない、ってことは、場所を変えれば説明するにやぶさかではない、と」
 ふむう、と変な声を出しながら舟木が言った。その声に視線を戻すと、住吉はまだ固まっている。
 …どうしてくれようか、この地蔵。
「ん、まあね」
 青海がはっきりしない口調で答える。とたん。
「ホームルームまであと二分」
 通りすがりにぽつり、と、聞きなれた低い声が落ちた。井名里。
 井名里は興味ない、とばかりにすたすたと自分の席に戻る。
 野島がちらりと森本を見た。
「あと二分、だとさ」
「あと二分、ねえ」
 これは舟木。ちろりと青海を眺めやる。
「あ、一分になった」
 のんびりと七尾。
「どうするの、青海」
 じーっと見つめられて。
 とうとう青海は降参した。
「わかったよ、わかりました、説明します、場所変えます。でも授業はどうすんのさ」
「サボる。どうせホームルームだ」
 率先して言ったのは森本で、そのことに軽く驚いた。
 が、驚いている暇はない。
「早くしねえと大城がくるぞ。この地蔵どうする?」
 言って七尾は地蔵を見やった。いいかげん動けよ。
「…あーもう!」
 叫んだのは青海だった。おもむろに足を振り上げ。
「――だっ!?」
 住吉の腰を、蹴った。
「え? あ? なんだお前ら!?」
 そして我に返った住吉を強制連行。
 呆気にとられているクラスの連中を気にする奴はいない。
 住吉を確保したまま教室を飛び出し、階段に足をかける。
「…なにやってんだお前ら」
 聞きなれた、今一番聞きたくない声に、思わず全員の動きが止まった。
 振り向くと、やはりというかなんというか、担任様が立っていた。
 大城は俺らの顔を見てなにか察したのだろう、半眼になって睨みつけてきた。
「……サボる気か? 俺のホームルームを? いい度胸だな」
「え、えーっとぉ…」
 目の前の舟木の腰が引けてくるのがわかった。根性ねえな、こいつ。
 こういうときに真っ先に動くのは住吉か森本だ。
 が、今回は住吉は話にならない。
「すんません先生。マジメな話なんです」
 言うと、大城は俺を見た。その眼にちらりと浮かんだ光は――楽しんでやがるな、こいつ。
「ふーん。マジメな、ねえ」
 こっくりと力強く頷いたのは舟木だ。
 つ、とメガネを正して、森本がさらりと言った。
「そういうわけなんで、俺たちは行きます」
 そしてくるりと身を翻し、住吉の襟首を掴んだままさくさくと階段を上がっていく。
 大城は、と振り返ると、なぜか笑いをこらえるような顔をしていた。
「…センセー?」
「いや…まあ、たかがホームルームだしな」
 さらりと、不思議とイヤミではない口調で言うと、ひらひらと手を振って背を向けた。
「遅刻はつけないでやるよ。授業には必ず出ろよ」
 そう言い残して、さっさと廊下の壁の向こうへ消えていく。
「………見逃してくれた?」
 青海がぽかんとした表情でそう呟いた。
 そうとしか思えないけれど――でも、なぜか否定したくなるのはきっとあいつの人間性ゆえだ。
 いやいや今は住吉だ。
 慌てて大城を頭から振り払うと、森本に引きずられて先に行ってしまった住吉のあとを追った。


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