高校騒動記〜三年生編〜


 一難去って また一難 5 〜住吉の受難〜

//森本遼一(もりもとりょういち)//

 訴えかけるような強い視線を残して――。

 彼女は、ドアを閉じた。





「トーコ!」
「いいから」
 暴れる彼女の腕を掴み、強引にドアから離れさせた。普段の俺なら絶対にしない所作だが、ここで青海さんを乱入させたりしたら舟木さんの心遣いが無駄になる。
「いいから、青海さんは授業にでる。後は彼女に任せておけばいい」
「でも」
「青海さんも――気持ちを整理する時間が、必要だろ?」
 瞬間。
 青い瞳に走ったのは――おそらく、怯えだ。唇が震えて、そして次の瞬間かたく引き結ばれた。
 すがるような表情で背後を振り返る。光を受けてたたずむ舟木さんに向かって、小さく。
「……頼むよ」
 にっこりと、夏空のような笑顔が広がった。
「いいから行った行った」
 言いながらも、その瞳には強い光が浮かんでいる。
 その光の意味を、読み取った。おそらく、この上なく正確に。
 ――わかった。
 後は、引き受ける。だから彼女を頼んだ。
 そう瞳に織り込んで、たたずむ舟木さんを一瞥してから、まだためらっている青海さんの背を押した。
 ドアが閉まる重たい音が耳元で響く。
 眼の端でくすんだ金の光が動いた。
 青海さんは曇った顔を伏せて、す、と身をそらす。
 そして無言のまま、黙って様子を伺っていた渡会を押しのけ、先に行った連中のあとを追うように階段を降りていく。
 渡会は軽く肩をすくめてよこした。同じ仕草を返す。
 男同士は、こういうところ、楽だ。言葉にしなくても通じ合える。
 渡会は苦笑した。
「……苦労しますねぇ」
「お互い様、だね」
 達観の境地に至ったもののみが持ち得る苦い笑みを交わす。そして、言った。
「渡会、青海さんを」
「言われるまでもねぇよ。本当は俺がするはずだったんだけど……住吉のフォロー、頼むな」
 先に下りてしまった青海さんたちの姿はすでに見えない。慌てることもなく、のんびりと階段を降りていく。もう授業は始まってしまったのだろうか。校舎の中は物音ひとつせず、静まり返っている。
 聞こえるのは俺たちの靴音と、声だけだ。
 渡会が静かに切り出した。
「さっきのアレ、わざとだろ」
 アレ。
 訊くまでもなく、あのことだろう。
「まあね。やりすぎたかな」
「いや、いいんじゃねえの? こういうことは一気に片付けたほうがいいだろ。俺もちょっと気になってたし」
 まあ、と、頭をかきながら渡会は続けた。
「青海には、ショックだったかもしれんけどな」
 ああ。結構ショックを受けていたようだった。
 立ち直れるかどうか、心配だ。ショックを与えた人間がこんなこと心配するのは筋違いかもしれないけれど。
 青海さんのことから派生して、今朝から疑問に思っていたことをぶつけてみた。
「渡会は、今回のこと…」
「ん。今朝青海に呼び出されて、聞いた。あいつは俺に住吉のフォローを頼んできたんだけど……」
「青海さんのフォローの方が、大事なんだな」
 当然と言う顔で渡会が見返してくる。相変わらずとても素直だ。見習いたい。
「まぁ、野島も西岡さんもいるし…むしろこういうことは彼らのほうが得意だろうね」
「まぁな。俺は苦手だ」
「明言しなくてもわかってるよ」
「そしてお前も苦手だろ」
「確認されなくても自覚はしてるよ」
 ああそうかい、と言って鼻の頭に皺を作り、渡会は天井を仰いだ。
「だけど、あれだな。教室に帰るのが怖いぜ俺は」
 …………ああ。
「確かに、それは」
 コワイな。
 フォローする人間を一人残しておくべきだった。といって残るような奴らではなかっただろうけど。
「大城の顔見るのも嫌かもしれね」
 …大城か。
 あの男も………ウン。
「後が怖いね」
「集団でサボっただろ。しかもあの顔なにか企んでたし」
「やっぱり、タダじゃ見逃してもらえないか」
 いやこの場合見逃すことは教師としての適正を問われかねないが……でも、あの男なら、ありえないことじゃないような気もしてくる。事実一応は見逃してくれたわけだから。
「個人的には、あの人の思考回路がどういう造りになっているのか、非常に興味があるけどね」
 うん?
 なぜそんな不思議な表情をする?
「…………俺おまえの頭ン中がどうなってるのかさっぱりわからんわ」
「なんでそんなに怯えた顔をするのか俺にもわからないけど」
「いやいやいやいや、怯えてなんかいませんよ。ハイ」
 なぜ、距離をとる?
 渡会の不可解な行動を気にする間もなく、教室についてしまう。先に行ったみんなはもう教室に入ったようだ。教師の声が閉じたドアから漏れ聞こえる。現国。
「……やっぱ、遅刻か」
 渡会は苦い顔で呟いた。そのぐらい校舎の様子を見ればすぐにわかりそうなものなのに、なにを期待したのだろう。
 その表情のまま、渡会はがしがしと頭をかく。
「………大城にイヤミ言われるなこりゃ」
 低い呟き。
 …大城。
 ドアに手をかける。
「……大城は、たぶん、俺たちと同類だよ」
「あ?」
 間の抜けた声と同時にドアを引きあけた。
 一瞬で静まり返る教室。一瞬でこちらに視線が集中する。
 かつん、と、教師が手にしたチョークで教卓を叩いた。
「………今日はずいぶん遅刻が多いわね」
 ええそうでしょうとも。
 普段から厳しい授業で知られる教師は、冷たい表情で俺たちを睨みつけた。
「しかも森本君、あなたが遅刻なんて珍しい」
 いえ、目立たないだけです。そして渡会の方がよほど遅刻はしていないはず。
「ま、渡会君も森本君も普段はマジメな生徒だから――それなりの理由があったのよね? 鞄だけ残してどこかへ抜け出すほどの理由が」
 視界の端で、西岡さんがものすごく憮然とした表情で教師を睨んでいるのが見えた。その近くでは七尾も不機嫌さを隠しもせずに教壇を見据えている。
 なるほど。すでに、やられたわけか。
 ――しょうがない。
 答えようとしたとき、渡会が動いた。
「センセー。森本は俺に付き添ってくれただけです。保健室の方に行ってました」
 教師の眉が上がった。渡会は構わず続ける。
「朝からずっと腹が痛くて。今も痛くて、立ってるとちょっときついんでもう座ってもいいですか?」
 短い沈黙ののち、大きく息を吐き出して、教師は言った。
「…どうぞ?」
 どうも、と投げやりに言って、けだるそうに机のあいだをすり抜けていく渡会に、小声で囁く。
「…保健室の『方』に?」
「そ、『方』に。お前さっきなんて答えようとした?」
 にやりと笑いながら渡会は言う。そんな渡会に、同じ種類の笑みを返しながら、答えた。
「そうだな……来る途中自転車に追突されてそのときにできた傷が今ごろ痛み始めたので……保健室の『方』に」
 ぶは、と、声もなく渡会が噴き出した。そんな俺たちに険しい声が飛んでくる。
「早く席に着きなさい!」
 はい、と、行儀よく返事を返して、こみ上げてくる笑みをこらえて俺たちはそれぞれの席に向かった。




 授業は淡々と進んでいく。個人的に、この教師は嫌いじゃない。割ときついことを言ったりするが、授業はわかりやすく、説明は的確だ。メリハリもある。だらだらと話し続けたりしない。今年来た教師。
 適当に板書をノートに写したり、今ごろ屋上でかわされているだろう会話を想像したりしていると、ふ、と、隣の席の女子がシャーペンで机を叩いた。教師が黒板に説明を書いている隙を見て、「西岡から」と囁くと机の上に小さく折りたたんだ紙を置いていく。一瞬の早業。
 …どうして女子はただのメモをこう馬鹿丁寧に折ることに執念を燃やすのだろう。ただの二つ折りでかまわないだろうに。
 内容はなんとなく想像がついたが、とりあえず教科書に隠して開いていく。やたら折が細かい。面倒だ。
 かわいらしいイラストが描かれたメモ帳に、小さくて丸い字が並んでいた。西岡さんの字はあまり目にする機会がなかったが……こういう字を書く人なのか。たぶん、「かわいらしい」と評される部類に入るだろう、字。普段の彼女からは、想像できないような。
 …なんてことをわずかにでも考えたと知られたらきっと絶対あのきつい調子で抗議されるだろうな。
 まあ、それはともかく。
 明るい水色で書かれたちまちまとした文字を読んでみる。


      ねえ、透子は?
    なんであの子残ったの?
    もしかして、あそこに詠理、いた?

    あんたなんか知ってるでしょ。さっさと吐け!



 吐け、だなんて、口が悪いな。
 思わず西岡さんのほうを見ると、彼女は熱心にノートをとっていた。どうやら最近は勉学に燃えているようだ。代わりにこちらの様子をうかがっていたのは、七尾。
 眼が合うと、にへら、と不気味な笑いを浮かべて慌てたように前に向き直る。さらに視線をめぐらせると、野島と眼が合った。くるくると指先でシャーペンを回しながら眼だけで問い掛けてくる。住吉と青海は……どこかに魂を飛ばしているな。帰ってこい。
 …まあ、この反応を見た限りでは、七尾と野島もこの手紙の内容を知ってるな。いや、というよりも、この手紙が三人の総意だと考えるべきか。
 気づかないやつらもやつらだとは思うんだけどね。
 そんなことを考えながら、水色の字の下にシャーペンを走らせる。


    詳細はあとで説明する。


 少し考えて、さらにその下に一言書き添えた。


    詳細はあとで説明する。
    彼女なら、いたよ。最初から。



 そして、折り目の通りに折りたたむ。なかなか元のようには折れない。一体誰がこんな折方を考え出すんだろう。
 なんとかもとの形にすると、教師が黒板を向いた隙に隣の席の女子に声をかけた。
「……ごめん」
 振り向いた女子に、教師がまだ板書をしているのを確認して、紙を渡す。
「西岡さんに」
 するり、と紙が女子に渡り、そしてさらに隣へと。さすが、手馴れている。
 程なくして西岡さんに紙が手渡されるのが見えた。
 一瞬俺を見て、紙を開く。俺の字を読んだのだろう、西岡さんは今度はものすごい非難の眼で俺を睨んできた。
 睨まれてもね。気づかないほうが悪いと思うよ。俺としては。
 ひとしきり俺を睨んだ後、西岡さんは紙をもとのように折りたたむと、再び回し始めた。七尾へ。
 紙を読んだ七尾は、なんとも言いがたい表情で俺を見てきた。パクパクと口を動かして、教師が動くのをきっかけに机に顔を戻す。そしてのろのろと紙を折りたたむ動作をした。
 それから紙は、さらに野島の元へ。
 野島の反応はわかりやすかった。
 くるくると回っていたシャーペンがぴたりと止まったかと思うと、ぐるりと顔をこちらに向けて。
 滅多に見ない、真剣な眼を、俺に向けてきた。
 …コレは、締めてかからないと、まずいな。
 覚悟を決めながら、指で黒板と教師を示してやる。野島はとても不審そうな顔になったが、諦めたように前を向いた。
 教師の声が響く。はっきりとした口調。
 それを一応は耳にとどめつつ、これからどういう態度にでるべきかを、考えていた。




 チャイムが鳴り、教師が教室を出て行ったとたん、予想通り彼らは真っ直ぐ俺の席に来た。
「ちょっと森本君! 説明してよ!」
 そういう西岡さんの眼はぎらぎらしていて、この時間中ずいぶん心配していたことがうかがえた。七尾と野島の表情も真剣そのものだ。渡会がさりげなく俺の後ろの机に腰をおろす。西岡さんたちの後ろには、青海さんと住吉が、複雑な表情で俺の返答を待っている。
「なんで、詠理がいるってわかってて、あんな話したの?」
 あんな話。
 瞬間青海さんの顔が強張ったのが見えた。
 それに答えようと口を開いたとき。
「あ」
 七尾が唐突に呟いた。その視線の先は――教室の入り口。
 振り向くと、舟木さんがいた。
 眼が合うと、とりなすように笑う。
「あっははー。ただいま」
 ……なにも今来なくてもいいだろうに。
 思わず内心唸った俺の前で、西岡さんと青海さんが身を翻す。それに遅れて住吉が舟木さんの元へと駆け寄った。
「トーコ! エーリは」
「ま、ま、ま。ちょい落ち着いてよしおりん」
「いいから詠理は?」
「いやんのぞみん顔がこわーい」
「透子!」
 西岡さんに怒鳴られて、舟木さんは困ったように頭をかいた。
「うーん、まぁそれはちょっとこっちに置いといて」
 ひょい、と、両手でなにかを脇にどける動作をする。するとさりげなく野島が、それを元の場所に戻す動作をした。
「ハイ、戻した戻した。で、向井は?」
「………ノッチー……」
 恨めしげな表情で野島を見上げる舟木さん。対するみんなの顔は真剣そのものだ。舟木さんはしばらく沈黙していたが、おもむろに。
「んでもやっぱり置いといて」
 すばやく両手を動かすと、周りに口を開かせる間もなく声を出した。
「ちょーっとごめんね」
 するすると、野島と青海さんのあいだをすり抜けて、自分の席に駆け寄る。そして鞄を手に取った。すぐに向井さんの席に駆け寄り鞄をとって肩にかける。
「ちょっと、透子?」
 不審げな西岡さんににっこりと笑いかけて、彼女はすばやい動きでドアのほうに移動した。その意図を察してみんなが色めき立ったのを見計らったように、一言。
「それでは。ワタクシはこれでおいとまさせていただきます」
 ちゃ、と片手を立ててそう言うと、ドアの向こうに姿を消した。
「後は頼んだよ、レオ!」
 というなんともありがたいお言葉を残して。
 駆け去る足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから、渡会が呆然とただ突っ立っている西岡さんたちを振り向き、頭をかいた。
「………大丈夫か、お前ら」
 ボソッと落とされた言葉に、ぴくりと住吉が反応した。その表情を見て「うわ…」と渡会が呟く。
 なんだか、捨てられた小犬のような、そんな情けない表情。小犬って柄では断じてないが。
 立てた髪に手を突っ込んで、野島が確認するように訊いてきた。
「つまり、なんだ。二人そろって逃亡したってことか」
「まあそうなるんだろうね」
 予想はしていたけれど、意外と向井さん、思い切ったな。
 と、青海さんが一人、ふらりと背を向けて、自分の席に向かった。西岡さんが慌てたようにその背に手をのばし――途中で止めて、こちらに向き直る。
「森本君、さっきの話、わざとしたってことだよね?」
 強い瞳。
 否定することもないので、ただ肩をすくめる。西岡さんのきれいな弧を描く眉がきりりと上がった。
「……わかった」
 一言言って、青海さんのあとを追う。それと同時に、住吉も離れて自分の席に向かった。こっちについていく人間はいない。
 青海さんが席に座ったのを確認して、渡会が一度あげた腰を机におろした。青海さんが心配だろうに、あえてこっちに残るのか。
 んー、と、いつものふにゃふにゃした口調で七尾が言った。
「なんとなーく、お前がしたいことがわかったわ。今だから言うけど、俺も正直住吉と向井と青海の関係は気になってたし」
 う、と、住吉がうめいた。一瞬胸を押さえた住吉を見て、そしてなにもなかったかのように野島が続ける。
「まぁ、一気に片付けたほうがいい問題かも知れねえけど。……森本、お前、一人で突っ走りすぎ」
 七尾も頷く。
「お前らさっき降りてくるの遅かったからしらねーだろーけど、大変だったんだぜー、西岡と青海のフォロー」
「西岡は怒るし、青海は落ち込むし」
「クラスのやつらの眼は痛いし。ああ、今までコツコツ築いてきた俺の信用が…ッ!」
「教師は教師でちくちくイヤミ言いやがる。俺らとお前ら、扱いが違いすぎ」
 …………いや、その。
「…ごめん。悪かった」
「わかればいいんだわかれば」
 尊大な態度で野島が言う。そんな野島に渡会が混ぜ返した。
「ていうか、お前らの日ごろの行いが悪いんだろ? 俺らは普段からマジメな生徒で通ってるから」
「嘘つけ!」
 ビシ、と指までさして七尾が言い切った。
「いやまぁ嘘だけど。それに俺らの信用なんか去年のアレで地に落ちてるだろ」
「まあ確かに」
 思わず頷いたとたん、七尾に怒られた。
「否定しろよ頼むから!」
 …悪い。
「こら」
 いきなり頭を叩かれて、驚いて見やると大城が立っていた。
「げろ」
 とあからさまに七尾が顔をしかめて距離をとる。
 大城の手には分厚いプリントの束があった。凶器はそれだろう。
 頭を押さえながら渡会が不審そうに尋ねる。
「次数学だろ? なんであんたがいるんだよ。タナベは?」
 タナベとは、数学の担当教師だ。
「先生と呼べ。田辺先生はお休みだ」
 大城の言葉に七尾の顔が輝いた。
「喜ぶなよ。プリントをこのとおりたっぷりもらってきているから、自習にはならないぞ」
 大城の言葉に七尾は顔を曇らせ、そしてうなだれた。
「…さいあく」
 ぶつぶつとぼやきながら自分の席に向かうその背を見て、野島が軽く肩をすくめる。そんな野島に大城は小声で言った。
「野島には別のプリントがあるから、勝手に自習にするなよ」
「へーい」
 このクラスで唯一就職希望の野島は、時々一人だけ別の課題をだされる。最初から就職クラスに入れていればいいのに、面倒なことをする。教師はなにを考えているのか。時々教師って人種はすごく頭が悪いのではないか、とか考えてしまう。
 大城の登場で渡会と野島も自分の席に戻る。
 俺たちに集まっていたクラスの視線も、散る。
 配られたセンター試験の過去問を眺めながら、たまには大城も役に立つんだなと、本人に知られたら叱責確実なことをちらりと考えてしまった。
 まあ、大城も……。
 あの独特のスタンスに慣れれば、むやみに干渉することもないし口うるさくもない、理想的な教師だと……言えなくもない。口が裂けても言わないけど。
 時折見せる表情がどうにも気に入らなかったりするんだけれど――同族嫌悪、という奴か。
 配られたプリントはとっくに解き終わってしまった。暇を持て余して、教卓について書き物をしている大城をぼんやり眺めていると、大城がふいに顔をあげた。
 ――眼が、あった。
 大城の目元が細められる。どう好意的に見てもあまり人がいいとは言えない笑み。
 音もなく立ち上がり、机のあいだを巡回し始める。ああ、今なにかとてつもなく嫌なスイッチを押してしまったような気がする。
 まだ呆然としていたのだろう、大城に話し掛けられて青海さんが慌てたように問題に取り掛かった。一言、二言、何事か言い交わして大城はさらに歩を進める。話し掛けられても聞こえていませんというポーズを取る七尾。まったく無視する西岡さん。
 そしてぼーっと窓の外を眺めていた住吉は、大城に声をかけられて初めてその存在に気づいたようだった。大城の言葉に、曖昧に首をかしげ、シャーペンを手に取る。そんな住吉に声をかけて、大城は彼の元を離れた。
 悩む生徒にさりげなく声をかけつつ、ゆっくりと巡回する。そして――俺の真横で、立ち止まった。
「暇そうだな」
「…………いえ、それほどでも」
 実際、考えることは山ほどある。
 野島に倣って、指先でシャーペンを回してみる。ぎこちなく回る銀のシャーペン。
 大城は動かない。革のベルトをただ横目に見る。
「――進路の、ことだけど」
 落とされた言葉に、すう、と、体温が下がっていくのがわかった。取り落としそうになったシャーペンを指先で捕らえる。
 見上げた先の顔は、予想外に真摯な表情をたたえていた。
「急いで決めなくていい。ただ――俺の言ったことを、忘れないでくれ」
 静かに、周囲にすら聞こえないだろう声を落とすと、そのまま歩み去る。
 その背中に、重なるのは数日前に言われた言葉。懸念の面談は無事に終わったけれど――先行きはまだまだ未確定。
 カタン、と、小さな音を立ててシャーペンが机の上に落ちた。
 チャイムが鳴るまで――それを手にとることはなかった。





 結局、昼休みになっても住吉の調子は戻らず、機械的に箸と口を動かすだけだった。渡会も、野島も、七尾でさえも、口を開くことはしない。青海さんは青海さんで西岡さんに引きずられてどこかへ消えてしまった。いつもと様子が違う俺たちに、クラス中が興味の視線を向けてきているのが痛いほどわかったが――だからといってそれに答えてやる義務は欠片もない。結局昼休みが終わる二分前に青海さんたちが戻ってくるまで、俺たちのあいだに会話は一切なかった。二人が戻ってきてからも、ない。
 ただ、教室に入ってきたときの青海さんの表情が、朝に比べてずいぶんと明るくなっていた。それを見て渡会が安堵の息をついたのが見えた。

 そして、放課後。


 チャイムが鳴るなり、やはり西岡さんによって青海さんが連れ去られていく。それを見送った渡会の背に、からかい混じりに声を投げた。
「自分の仕事だ……って顔してるね」
「おーよ。でも、女同士のほうがいいときとか、あるだろ、きっと」
 溜息まじりの言葉。それは、そのまま、住吉にも当てはまる。いまだ呆然と窓の外を眺めている、男。隣にいる俺と渡会に気づいているのかいないのか、まったく視線を動かそうとはしない。もしかすると、授業が終わったことにすら、気づいていないのかもしれない。
 野島は「ワリ、バイトがあるんだ。あと頼む!」と俺たちを拝んで帰ってしまった。七尾は七尾で「…俺、今から面談……でもすぐ終わらせるから! 大城と話すことなんかないし!」と勇んでたった今教室を飛び出していったところだ。あの大城があの七尾をすぐに開放するかどうかは別として――まぁ、いなければいないで困りはしないけれど、いたらいたでやっぱり困ることもないだろうから――……あれ?
 自分の七尾に対する認識にいささか動揺しているとき――ふと、眼の端で人が動いた。
 思わず眉間に力が入ったのも、たぶん、仕方がない。
 渡会の肩に力が入った。
 矢沢さんは真っ直ぐにこちらに近づいてくると、よく通る声で住吉を呼んだ。
「――住吉君」
 初めて――住吉が動いた。ゆっくりと頭をめぐらせ、矢沢さんを見る。とたんに、体が強張った。
「話があるんだけど――…いいかな?」
 言いつつ俺たちに視線を投げる。
 渡会が俺に肩をすくめた。眼でそれに答えて、住吉を見る。
「…席、はずそうか?」
 住吉の瞳が揺れて――直後、彼はきっぱりと首を横に振った。
「いや、構わない。ここにいてくれ」
 瞬間、一瞬のことだったけど――はっきりと、矢沢さんの顔が歪んだ。それはすぐに笑顔に変わる。
「……住吉君と、二人で、話したいんだけど」
 二人で、を強調する。まあ、そうだろうな。
 だけど――住吉の態度は、変わらなかった。
「なんで?」
 短い言葉に、矢沢さんの表情が変わった。
「なんでって――」
「べつにこいつらがいても構わないだろう? それともなに? 二人がいたら話せないような内容なのか?」
 顔を歪ませて、矢沢さんは俺たちを睨んできた。睨まれても、俺たちは住吉の意思に従う。いつもならこういう無粋なことはしたくないけど――今回は、少し、事情が違うから。
 矢沢さんは、口を開かない。何度も俺たちと住吉を見比べている。
 沈黙に、ごうを煮やしたのか住吉が口を開き、切り出した。
「……俺からも、いいか?」
 眼に見えて矢沢さんの顔が強張った。住吉は、静かな――いっそ、冷酷とも言える口調で、続ける。
「昨日のことだけど。――気持ちは嬉しいけど、矢沢の気持ちには応えられな」
「待って!」
 鋭い声が、低い声を遮った。
 矢沢さんは、震えていた。目尻がほんのり赤らんでいるのは――興奮のためか、それとも――。
「……昨日、言ったよね。青海とはなんでもないって」
「――ああ、言った。けど」
「だったら!」
 住吉の言葉は再び遮られた。が、強引に言葉を継いだ。
「つきあってる奴、いるから」
 簡潔な言葉に、矢沢さんが固まる。唇が、はっきりそうわかるほど、震えて。
 震える声が、落ちた。
「………でも、昨日、そんなこと言わなかった」
「ごめん」
 お前が言わせなかったのだと――言ってしまうかと思ったけど、住吉はただそれだけを口にした。
「……つきあってる人って――もしかして、向井さん……?」
 一瞬、ためらいを見せて、しかしはっきりと肯定する。言葉ではなく、動作で。
 矢沢さんの少しきつめの瞳が、揺れた。
 泣き出すかと、思った。
「………そ…っか。わかった。困らせて、ごめん」
 かすかな声。
 それまで無表情を保っていた住吉の表情がはじめて変わった。眉が下がる。
 それを見て、矢沢さんは、少し笑ったようだった。
「そんな顔しないでよ。……参ったなぁ。じゃあ、あたしが青海にしてきたのって、まるっきり勘違いじゃん」
 青海さんに?
 渡会を見ると、彼もまた「初耳」という表情をしていた。よくわからないが、おそらくなにかあったのだろう。
「…詩織は、ただの、親戚」
 困った表情のまま、住吉はポツリと呟いた。それを受けて、矢沢さんは、ますます複雑な表情になった。
「そっか……」
 そのまま、うつむいて、何度もつま先を動かして。
「困らせて、ごめんね。あ、でも、委員の仕事はちゃんとやるから。…前みたいには、ムリかもしれないけど――……あの、ホントに、ごめん」
 うつむいたまま早口で言うと、くるりと身を翻す。そのまま教室を飛び出していく後ろ姿に――住吉は、浮かせた腰を椅子に戻して、大きく息を吐き出した。
 かける言葉は、ない。
 ただ、黙って、矢沢さんが飛び出していった戸口を眺める。渡会も、同様にしていた。
 と、かすかな音とともに反対側の戸口から見慣れた顔が現れた。七尾だ。
「………おーつかーれさーん…」
 珍しく遠慮がちに言って、そろそろと妙に音を殺した動作で教室に入ってくる。そのあとから現れたのは――向井さんの、弟だ。部活前なのか、Tシャツにジャージ姿だ。
 七尾は困惑した顔で廊下を指差した。
「矢沢、泣いてたぜ――ェえッ!」
 向井さんの弟がさりげなく七尾の腕をつねった。開いた大口に渡会が投げた消しゴムがすっぽりと入った。
「うえっ! おえぇっ!! き、きったねえなお前!」
「いいからお前黙ってろ」
 冷たい渡会の言葉に深く同意する。涼しい表情で、弟君が住吉を見た。
「……もっとイヤな人かなーって思ってたけど…意外とそうじゃなかったですね」
 その一言で、彼に視線が集中した。
「てゆーか、なんでお前がここにいんの? 向井の弟だっけ?」
「勇理です。今回のことは詩織さんから相談を受けてまして、事情は聞いてます」
 にっこりと。非の打ち所のない笑顔で言う。住吉が顔をあげた。
「勇理…」
 勇理君は笑顔のままだ。その笑みの中に――剣呑な光が浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。
「まぁ、問題はひとつ片付いたし――もうひとつのほうも、しっかり責任とって片付けてもらいたいんだけど」
「ああ――わかってる」
 住吉の返答に、彼は無邪気に笑った。
「よかった。早期解決を願ってるからね」
 言うだけ言って、くるりと背を向ける。そして軽い足取りで教室を出て行った。
 げほごほと見苦しい咳を繰り返していた七尾が、のどを鳴らしながら苦しげな声を出す。
「――ちょっとわかった。あいつも敵だ」
「またかよ」
 渡会の言葉に、固くこぶしを握り締めて、七尾は続ける。
「あの手のタイプは、利用できるものはどこまでも利用するんだぜ。実の姉であろーとなんだろーと。それに自分のことをよーくわかってるんだ。媚売るの上手いぜ、絶対。それにあいつ、絶っっ対、人によって態度変えてる」
 無言で渡会が手を叩く仕草をした。同意するのか。
 と。
「―――ははっ」
 小さく――本当に小さく、住吉が笑った。
 七尾は眼を丸くして、そして嬉しそうに笑った。対女子用の、あの作った笑みではなく、俺たちにもあまり見せない心からの笑みだ。
「すごいな、七尾。確かに、そういうところ、あるかもな」
 苦笑まじりの住吉の言葉にますます嬉しそうに笑って。
「だろ? 俺あーゆーヤツ好きじゃねえ」
 …七尾も、人のことを言えたギリじゃないと思うんだけど。
「慣れたらカワイイ奴なんだがな」
 慣れたのか、住吉。そしてなぜそこで頷く、渡会。
 渡会は、机の上に腰掛けたまま、足で椅子の背を押して笑った。
「……浮上したみたいだな」
 渡会を見て――住吉は、苦く笑った。
「迷惑、かけたな」
「いやァ………迷惑、は迷惑だったけど……まぁ、役得もあったし」
「役得?」
 住吉の眉が持ち上がる。強い視線に、渡会はあさってのほうを向いた。いや、住吉、俺を見られてもわからないから。
 しらばっくれる渡会の態度に追求は諦めたのだろう、「詩織に訊くか」と呟いて、住吉は立ち上がった。鞄を肩にかけ、俺たちを見下ろす。
「じゃあ、俺、帰る。本当に、色々、すまなかった」
 いやいやぁ、と七尾がひらひらと手を振った。
「向井の意外な一面とか見れたしな。お前これから大変だろうけど、まぁ、頑張ってこい!」
 ひく、と、住吉の顔が引きつったのは、見なかったことにしておこう。
「意外な一面?」と不思議そうに渡会が問いかける。
「あー、お前いなかったのか。うん、知らないほうがいいぜ、あれは」
 どことなく怯えた顔でそう言った七尾を不思議そうに眺めた後、渡会はまだ困ったように立っている住吉に顔を向けた。
「頑張ってこい、としか言えねえけど。――ま、しっかりやってこい」
 いつもの、くシャッとした笑顔で、そう励ます。住吉はそれに頷いて――そして、教室を出て行った。
 住吉を見送ったあと――誰からともなく、溜息がこぼれた。
「…なんていうか……すっげー、はた迷惑な奴らだよなぁ」
 感慨深げに、七尾。首を振りながら続ける。
「気づいたか? 住吉、あいつ、矢沢に一度も謝ってねえんだぞ」
 あ、と、渡会が呟いた。
 言われてみれば、一度発した「ごめん」は、あれは彼女の好意を断ることに対してのものではない。
「俺よりよっぽど才能あるんじゃねえ?」
「なんの才能だよ」
「なにって」
 渡会の言葉に、しばし考えた後、七尾は小首を傾げて言った。
「…………ジゴロの?」
 ガタン、と、音を立てて渡会が机から下りた。そのまま鞄を掴んで歩き出す。
「さーぁ帰るべ帰るべ」
「あ、え? なんだよ渡会その態度! あ、森本まで!」
 わめく七尾を無視して、渡会の後に続く。
「渡会、今日は部活は? 良かったのか?」
「んあ? ああ、今日はねえよ。あったらこんなところにいねえって」
 そういえば、いつものあの大荷物を今日見た記憶がない。
「そうだね。青海さんもいないし」
「お前って結構しつこいな」
 思わず渡会の顔を見た。
「……しつこい、といわれたのは初めてかもしれない」
 後ろで七尾がわめいているが、気にせず階段を下りていく。
「うん。結構新鮮かも」
 呟いたら、なぜかものすごく奇妙なものでも見るような眼で見返された。
 その反応はなんだ?
 と、階段の途中でいきなり渡会の身体が突き飛ばされた。大きく階段を跳んで、踊り場に降り立つ。
「お前、危ないだろーが!」
「人のこと無視すんなバカヤロウ!」
 七尾だった。
「お前が馬鹿なこと言うからだろ! だいたいジゴロってなんだジゴロって!」
 ぐい、と、渡会が腕で強く七尾の首を絞める。
「ぐぁっ、なんだよお前、しらねぇの?」
 ばっかじゃん。言いかけた言葉はそのまま呻き声に代わった。
「説明してみろせーつーめーいー」
「うおぉぉぉぉぉ」
 通りがかった女子たちがくすくすと笑いながら俺たちを眺めていった。
 昇降口で、渡会はようやく七尾を開放する。靴を履き替えているあいだ七尾はずっとぶつぶつぼやいていた。「馬鹿力」「振られ男」「くさい」「ヤローと抱き合う趣味はない」云々…。そのたび渡会の蹴りが入り、それに対して七尾も悪口で応酬する。そんな掛け合いを放置すべきかそれとも止めるべきか、まあ俺に害は無いから放置しておこうか、などと考えているとき。
「あっ!」
 と、上がった声にそちらを見ると、どこかで見たような顔が立っていた。
 二年生だろう、小柄な少年が、なぜか上気した顔でこちらを見ている。
 誰だ?
 内心首を傾げたとき――少年が、口を開いた。
「先輩方!」
 第一声で、気がついた。
 ああ、あの勘違い少年……。
 あの、のぞき事件を思い出したのだろう、渡会が渋い顔になる。七尾も少し腰がひけている。
 俺たちには構わず、少年はパタパタと駆け寄ってきた。
「選挙、いよいよ明日です!」
 あ、と呟いたのは七尾。「そうだっけ?」と隣の渡会に確認している。が、渡会もあやふやに首をかしげたまま。俺自身、そんなことすっかり忘れていた。
「ああ――そうだったね。頑張って」
 とりあえず、差し障りのない言葉をかけてみる。とたんに少年の顔が輝いた。
「はい! 先輩たちの目指した青葉を創り上げる為にも、この塩見、全力を持って――」
「うん。演説は明日のためにとっておきなよ。じゃあ、俺たち、急ぐから」
「あ、はい。さようなら!」
 さようなら、と手を振って、校舎を出る。どうにも調子が狂う。
 首を傾げながら、七尾がぼやいた。
「あいつ、なんかすっごく変わってるよな」
 誰も否定しない。代わりに、渡会の手が伸びて七尾の首に絡まった。
「ぎえ」
「で? ジゴロって、なんだ?」
 …渡会、君も大概しつこいよ。
 もがきながら、七尾が答えた。
「ジゴロってのはな、俺みたいに顔がよくて頭もよくてついでに背も高くて女にもててもててもてまくる、そんな男だ!」
 生ぬるい風が吹き抜けていった。
 渡会が据わった眼で七尾を見下ろす。
「……………それ、絶対、間違ってる」
「な、なにおう!?」
 抗議の声を上げる七尾。
 ……いや、それ以前の問題として。
「七尾。一度、広辞苑なりなんなり引いて、調べておいたほうがいいよ」
「ぁえ!?」
 なんて声を出すんだ。
 眼をむいた七尾に、溜息まじりに言い添えた。

「ジゴロって、“ひも”のことだよ」

 七尾は、口を大きく開いたまま―――言葉もなく、固まった。


目次へ