一難去って また一難 7 〜住吉の受難〜
//向井詠理//
「じゃあね、明日はちゃんと学校行くんだよー」
そう言って手を振る透子ちゃんの姿を、銀色のドアが遮って。
そうして、流れていった。
学校をサボったのは初めてだった。
もっと後ろめたい気持ちになるものだと思っていたのだけれど、むしろ心はすっきり晴れていて、それが不思議。
あのあと、皆どうしたんだろう。
透子ちゃんは詳しい話をしてくれなかった。
気を使ってくれているのが、今のわたしにはとても嬉しい。
――透子ちゃん。
とても、不思議な子だと思う。
取り立てて、なにかに秀でているわけではないのに、なぜか眼を引いて(透子ちゃんごめん)。
詩織ちゃんやのぞみちゃんに比べると、地味な顔立ちなのに、なぜか気になって(透子ちゃんごめんね)。
傍にいると心が休まる。
詩織ちゃんと一緒にいるときよりも。
住吉君と一緒にいるときよりも。
ずっとずっと、自然体でいられる。
そんな人は、はじめて。
お母さんみたい、なんて言ったら、きっと怒るんだろうなぁ。
透子ちゃんも、詩織ちゃんも、どちらもとても大切で。
ずっとずっと、これからも、付き合っていきたいから。
だから、今、この事態を、どうにかして解決してしまわないと。
住吉君には申し訳ないけれど、今は詩織ちゃんとの問題を解決する方が、大切。
一生付き合っていきたいと思える人だから。
家族以外で、一番最初に、私の存在を全身で受け入れてくれた人だから。
だから、まずは、詩織ちゃんと話そう。
今まで溜め込んでいたことを、全て、包み隠さずに。
「…ただいま」
玄関のドアを開いて、すぐに、それは眼に飛び込んできた。
黒いローファー。
家族のものじゃない。私のものでもない。
つま先にある、見覚えのある傷を見て、なぜか肩から力が抜けた。
靴を脱いで家にあがると、すぐにリビングから母さんが顔を出す。
「遅かったわねぇ。詩織ちゃんが待ってるわよ」
「うん、すぐ着替えてくるから、ちょっと待ってもらって」
急いで自分の部屋に上がり、服を部屋着に着替える。鏡を覗き込むと、そこには少し疲れたような顔がある。
まずは、笑顔を。
鏡の中の私が微笑む。いつも通りの笑顔かどうかは自信がないけれど……うん、大丈夫。普通に笑える。
よし。
軽く頬を叩いて、そして私は詩織ちゃんの待つリビングに向かった。
詩織ちゃんは、珍しく正座して、真直ぐに仏間を見つめていた。足の低いテーブルの上には、紅茶のカップとまったく手のつけられていないケーキがある。私が大量に焼いたケーキ。
詩織ちゃんは姿勢がいい。ほっそりとした背中をピンと伸ばして、その眼差しそのままに、真直ぐに前を見つめる。
縁側から差し込む午後の日差しの中柔らかく輝く金髪や、澄んだ海のような青の瞳とは裏腹に、その姿勢はどこまでも『和』を感じさせる。それが、とても不思議。
どこまでも真直ぐで、揺らぎない。そんな印象を与える詩織ちゃんに見とれていると、視線に気づいたのか青の瞳が私を振り向いた。
とたんに、きれいなアーチを描いていた眉が歪み、瞳の色が曇る。
詩織ちゃんに、そんな表情をさせてしまう原因は、私にある。
そのことが哀しくて、でもここでそんな素振りを見せてはいけないと、努めて口元に笑みを浮かべた。
「エーリ…」
詩織ちゃんが向き直る。
そしてそのまま、勢いよく頭を下げた。
「ごめん!」
突然のことに、言いかけた言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。
「し、詩織ちゃん?」
「ホントにごめん! あたしが考えなしだった。エーリの気持ち、無視してた。本当にごめん」
………私の気持ちを、無視? してた?
一瞬頭が空白になって、すぐに彼女の言わんとしていることを悟る。
森本君が言ったこと?
…もしかして、ずっと気にしてたの?
……ふうん。
「…それで、謝って、どうしたいの、詩織ちゃんは」
詩織ちゃんが顔をあげる。青い瞳は、今にも泣き出しそうに揺らいでいて。
「どうって……ただ、謝りたかった。エーリを、傷つけていたかもしれないから、だから」
「私の言葉も聞かないで? それって、結局、私の意志を無視してるってことじゃないのかなぁ」
ああ。きれいな、さんご礁の海の色が、雲っていく。金色の、煙るようなまつげが震えて。
かたく噛みしめられた薄い唇を見て――罪悪感と、愛しさが、胸に溢れた。
「――うそ」
「え?」
まだ揺らいでいる瞳を丸く見開いた詩織ちゃんに向かって、軽く肩をすくめる。
「嘘だよ。ちょっとだけ、意地悪したくなっちゃった。…ごめんね」
一瞬ぽかんと口を開いて、そして詩織ちゃんは凄い勢いで首を振った。その勢いに、思わず笑みがこぼれる。
座ったままの詩織ちゃんの前にしゃがみこんで、まだ驚きの残るきれいな顔を覗き込んだ。
「あのねぇ、詩織ちゃんが、私の気持ちを無視したことなんか、ないよ」
また首を振る。
「ううん。だって、あたし、今まで」
「森本君の言ったことを気にしてるのなら、それこそ、気にしなくていいよ」
言ったとたん、詩織ちゃんの表情が変わった。視線を伏せて、ぽつり、と声を落とす。
「そういうわけにも、いかないよ…。あたしはね、ずっと、甘えてたんだ。エーリの保護者面することでしか、自分の存在を確立できてなかった。エーリの優しさに、甘えてた」
……あのね。
「あのね、詩織ちゃん」
知ってたよ、そんなこと。
ずっと前から、知ってたよ。
でもね。
「私はね、それが嬉しかったの。頼られてるんだって。詩織ちゃんは、私がいないとダメなんだ、って、そう思ってそんな自分に酔ってたのは、私のほう」
そう。
詩織ちゃんが、私に依存してるってことは、ずっと前からわかってた。だって、私は、多分詩織ちゃんにとってこっちでできた最初の友達だったから。
いつも、強がって。虚勢を張って、でも寂しそうな眼で周囲を眺めていた詩織ちゃんが、住吉君以外で甘えてくれる、唯一の存在。
そのことが、嬉しくて。
だから、住吉君と付き合うようになって、詩織ちゃんがそれまで以上に私に気を使ってくれているのを知っていたけれど、なにも言わなかった。その気遣いが、嬉しかったから。
甘えていたのは、私のほう。
お互いに、依存していたんだね、私たち。
でも。
「でもね、今は、違うでしょ?」
今までは、詩織ちゃんには、私と、住吉君以上の存在は、いなかった。
でも。
今は、違う。
透子ちゃんと出逢って。
渡会君と、めぐり合って。
のぞみちゃんや、森本君や…みんなと、出逢って。
詩織ちゃんの一番は、私たちじゃ、なくなった。
青の瞳が、泣き出しそうに揺れている。
「…気づいてたんだ」
「何年一緒にいたと思ってるの?」
高校に入って、渡会君のことを知ってから、詩織ちゃんが私に割く心の割合は、どんどん少なくなっていった。そのことに、気づかないはずがないでしょう?
「だんだん、義務になっちゃったんだね」
私を守るということが、詩織ちゃんの存在理由から、義務へと。
決まり悪そうな表情になった詩織ちゃんに、笑いかける。
「…よかったね。“一番のひと”が見つかって、よかったね」
そう言うと、詩織ちゃんはかたく目を瞑り。
そして、泣き出しそうな、笑顔になった。
お互いに泣きそうな顔をして見詰め合っていると、お母さんがケーキと紅茶を片手に顔を出した。そして「なにやってるの? あらあら詩織ちゃん、紅茶が冷めちゃったわね、入れなおすわね」とあわただしく出入りを繰り返し、そして今私たちの目の前には優しく湯気を立てている紅茶と、チョコレートケーキがある。
自分で作ったケーキにフォークを入れながら、はァ、と溜息まじりに声を落とした。
「でもね、正直、ちょっとだけ、やきもち妬いたなぁ」
「え?」
「例のウワサ」
言ったとたん、詩織ちゃんはケーキを喉につめたようだった。苦しげに胸元を叩く。それを見て軽く笑って、ケーキを口に入れた。ちょっとクリームが甘すぎたかもしれない。
「だから、それは、本当にごめんって」
「でもね」
言いかけた詩織ちゃんを遮って、口の中に残るケーキを紅茶で流し込む。
「詩織ちゃんの一番が渡会君になった、って知ったときは、もっと妬いちゃった」
詩織ちゃんの口がケーキを食べようとしたまま固まって。
そして、ものすごい勢いで顔が赤くなった。
「入学してしばらくは、私が一番のままだったのに、気がついたら他の人がそこにいるんだもん。ビックリしたなぁ」
「…ま」
左手で口元を抑えて、フォークを置いた右手を私の言葉を遮るように挙げたけど。
「それが寂しくて、しゃべったこともないその相手にヤキモチ妬いて…そんな自分に、もっとビックリした」
「…ちょ、待って」
待たない。
とっておきの笑顔を浮かべて、ずっと心にしまっておいた言葉を、口にした。
「詩織ちゃんにしては、ずいぶん長い片思いだよね」
とたんに、詩織ちゃんは思いっきりテーブルに突っ伏した。
「か、勘弁してよ」
テーブルに突っ伏したまま、頭を抱える。そんな様子に思わず笑ってしまった。
「二年間は長かったよね」
「……もうちょっと短い」
「あ、でも、もうすぐ二年と三ヶ月かぁ」
「エーリお願い人の話し聞いて」
「でも、私、詩織ちゃんがまさか一目ぼれするとは思わなかったなぁ。それも自分より背の低い人に」
入学当時、渡会君は詩織ちゃんよりも背が低かった。それから一年でものすごくのびたんだけれど。
金色の間からのぞく耳が、真っ赤に染まっている。
「………もう、ホント、勘弁して」
ふふふ、と、笑みがこぼれる。
「もうすぐ修学旅行だね。楽しみだね」
「……頼むから、エーリ」
真っ赤になって、涙眼でそう繰り返す詩織ちゃんが、かわいくて。
思わず、思いっきりからかってしまった。
「じゃぁ、明日ね」
まだ少し眼をうるませて、赤みの残る顔で帰っていった詩織ちゃんを見送って、家の中に入ろうとしたそのとき。
「向井」
耳になじんだ声が聞こえた。
振り向くと、薄闇の中、住吉君が、立っていた。
少し、歩こうか。
そう言って、住吉君は、駅とも学校とも違う方向――川原の方へと、歩き出した。
大きな歩幅を、可能な限り小さくして、私に合わせてくれる。そんなさりげない優しさ。
等間隔にたたずむ街灯が、優しく周囲を照らし出す。
薄いジャケットのポケットに両手を突っ込んで、長い足を運びながら、住吉君がぽつりポツリと話し出した。
「矢沢、ちゃんと断ったから」
「……うん」
「向井のことも、話した」
「……うん」
「多分、隠さなくても…って隠す気ないけど、クラスのやつらは、もう気づいたと思う」
俺たちのこと。
「………うん」
隠す気ないけど。
そう、言ってくれた。
今まで、どこか遠慮がちだった住吉君が。なにをするにも、照れが先立っていた、住吉君が。
そう言ってくれた。
それだけで、もういい。
見上げると、真っ赤になった住吉君の耳が見えた。
いつの間にかポケットから出ていた大きな手が、私の傍でゆらゆら揺れている。引き寄せられるように、大きな手に自分の手を重ねた。
「あー。あのな」
「うん」
「誤解してるかもしれないから、言うけど」
「うん」
「…俺が好きなのは、詠理だから」
「うん」
「だから、お前は、俺のとなりで笑ってろ」
「うん」
「…聞いてるか?」
「うん」
繋いだ手のひらが、じんわり汗ばんでいて、思わず笑ってしまった。
住吉君の耳だけじゃなく、首まで真っ赤で、笑いが止まらなくなった。
住吉君がくれた言葉が嬉しくて、思わず繋いだ手に力をこめた。
「数実君」
「…なに?」
「修学旅行、一緒に回ろうね」
「……皆で?」
「ふたりで」
「…おう」
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